氷をまとう者

 ここに桜庭がいれば、まるでスケートリンクにでもなってしまったようだとでも表現するだろうか。

 ダリルと戦闘した際にいかに如月が手加減していたのか、それがひと目で分かる光景。一面氷が張り巡らされた地面は一歩進めば滑って転んでしまいそうで、うかつに移動することさえもためらわれる。

 それでもマホウを発動した張本人――如月だけは、悠々といつものように、そんな氷なぞ本当は存在しないかのごとく大地を踏みしめていた。


 彼が一歩進むごとに、足元にはパキパキと音を立てて半透明な氷の花が咲いていく。

 それは摘みとればさぞかし美しく、冷たくはかなく手の中で溶けていくのだろう。――造りあげている本人とはちがって。


「寒いか? はは、そりゃあ寒いよなぁ。シャロン様だってさっきは冷蔵庫の中みたいだって言ってたもんなぁ。……ま、こんな寒さはまだ序の口よ。順番に氷漬けにしてやるから、覚悟しておけ」


 周囲の冷気と同じく、声音を低くした如月が地面を蹴った。

 器用に氷の地面を駆ける彼は、途中で小さく跳ねたかと思えば氷上を滑るようにしてマジュウの元へと接近する。

 その速さは走っている時の比ではなく、スピードに乗った如月はマジュウまで残り数メートルといったところで右足を思い切り地面にたたきつけた。すると足元からせり上がってきた氷の柱が彼の全身を押しあげ、如月の身体はマジュウの目の前へと踊りでる。


 如月の刀の刀身が夕日に染まる。

 冷たい風は嫌でも背筋を正してくれる。


 ――狙うはその鼻っ面だ。


 まさか人間がこの高さまで飛び上がってくるとは思いもしなかったのだろう。

 一瞬反応が遅れたマジュウが食らいつこうとするよりも早く、如月は相手の鼻先むけて刀を突き刺した。


「ギギァ!? ガァァア!」


「ざまぁねぇな! そのまま全身に氷漬けになりやが――」


 刀を突き刺した箇所からだんだんとマジュウの顔が氷に侵食されていく。

 その侵食は表面上のものだけではなく、刺された内側までを氷像に変えてしまおうとジワジワはたらきかける。


 マホウが全身に到達するのも時間の問題。

 勝利の笑みを浮かべた如月であったが、そんな彼の全身を赤く照らしていたはずの夕日が突然さえぎられる。

 思わず彼が視線を向けた先にあったものは――如月の身長ほどの太さをした巨大な尻尾であった。


「ッ!?」


「キサラギ様!」


 横にがれた尾が如月に叩きつけられる。

 あまりにも急なことで刀から手を離してしまった彼は、その身ひとつで地面へと落下した。


「いけません、キサラギ様を助けにいかないと……でもこれでは……!」


 今すぐにでも駆け寄りたいシャロンではあったが、辺りに張り巡らされた氷のフィールドがそれを許さない。

 もちろんこの空間は如月のマホウを効率よく発動するため、そして敵の行動を阻害するためのものではあった。しかし同時にそれはシャロンを危険な前線へと立たせないためのものでもあるのだ。

 彼女の声が聞こえたのかシャロンの位置からは判断がつかないが、すぐに如月は背中を押さえながら起き上がった。


「うっ……ああくそ、油断した……。シャロン様は……よかった、無事か。こっちには来ていないみたいだな」


 とっさにマホウでシャーベット状のクッションを作ったことで地上への直撃はまぬがれたらしい。

 それでも打った背中が痛むが、シャロンが近くに寄ってきていないことを確認して如月は少し安心する。


 地中から高く伸びるマジュウの顔までの高さは七メートルほどだろうか。今見えているだけでもかなりの大きさではあるが、地面に引っかかっている前足のことを考えればその全長ははかり知れない。

 さらにマジュウの背後には今さっき如月を殴った蛇のような尻尾がうごめいており、それが地面を突き抜け別の穴から姿を現していることがよく分かる。


 ――なるほどな。強靭きょうじんな顎だけじゃなく、鋭い爪や尻尾も全部武器ってわけか。とにかくこっちも鼻っ面あんなところに刀が刺さりっぱなしとなりゃあ、替えの武器が必要だな……


 如月は立ち上がると、手元にマホウを集中させて氷でできた刀を造りあげる。

 半透明の彫刻のごとき氷の刀は、如月の手の体温をもってしても溶けることはなく、その逆に彼の手を凍えさせることもない。


「今はちと隙を見せたが、ここからはそうはいかねぇぞ。ヘビモグラ野郎」


 深い海の色をした彼の双眸そうぼうが見開かれる。今一度狙うとすれば、鱗におおわれた身体ではなく、やはりすでにダメージを与えているあの鼻先からであろう。

 しかし、攻撃を仕掛けようとしたのは如月だけではなかった。


「ゴォ、アアアァァ!」


「うぉっ!? なんだ、足が……動かねぇ!」


 前に踏みだそうとしたところを突然ガクンと膝が崩れ、如月は慌ててその場でバランスをとろうとする。

 それまでは赤い夕日を反射して屋敷の庭をおおっていた氷のフィールド。だがそれはマジュウを中心としてすでに塗り替えられようとしていた。


「なるほど。こいつのマホウ……地面を液体化させて、獲物を沈めたあとにゆっくり食らおうってことか……!」


 マジュウを中心に広がりはじめていたのは、泥の沼のようであった。

 ゆっくりとではあるが如月の足はその沼の中へと沈みはじめており、踏みだそうとしてもできない理由がそれであることに気がつく。

 じょじょに侵されはじめる氷の大地。マホウが発動して十数秒で如月の腰までが沼の中へと引きずりこまれる。このまま放っておけばきっと、この沼は屋敷全体さえを飲みこんでしまうのだろう。


 それでも彼は、自分が負けるなどとはみじんも思ってはいなかった。


「意外とやるじゃねぇの。だが、俺も大人しく食われてやる気はさらさらないんでな。この如月風流きさらぎふうりゅう様をあまく見てもらっちゃあ困るぜ」


 如月はぬかるむ地面に氷の刀を突き立てると、その切っ先に向けてマホウを発動する。

 それから揺れはじめる地面と鳴り響く轟音。その震源は彼の足元からのようで、次の瞬間に泥沼の中から現れたのは、汚れひとつない氷の足場であった。


 泥をかき分けて地上へと現れたその足場は、如月を身体ごと押し上げて沼の中からの脱出の手助けをする。

 彼の身体中にこびりついた泥をコーティングするように冷気がまとわりつき、つま先までが完全に抜けた頃にはマホウによって土の固まりとなった泥が足元へと散らばる。

 そのまま一度氷の地面に降り立った如月であったが、彼はなにを思ったのかそのままわざと敵のテリトリーとなる沼へとまた一歩足を乗せた。


 しかし、今度は簡単に沈むようなことはない。


「お前がいくら俺を沈めようとしても、何度でもはいあがってやるよ。俺にはサンディ様とシャロン様をお守りするっていう、命にかえてでもやらねばならない使命があるんでなぁ」


 ――それが……両親亡きあと、剣だけが取り柄の俺を拾ってくれた、サンディ様たちにできる唯一の恩返しだ。


 如月が足を下ろした沼の表面に、薄く、それでありながら彼が体重をかけたとしても割れることのない氷の膜が形成される。

 吐く息が白い。冷気をまとう如月の身体は、この場に存在するなによりも冷たい殺気を放っていながらも、確かに熱いこころざしを秘めていた。


「いい機会だ。アレ……試してみるとするか」

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