敗走

 ピクリ、とミーシャの指先が動く。

 彼女の切断された腹部はゆっくりと結合していき、しばらくすれば止まっていた心臓はトクトクと何事もなかったかのように動きだす。


 それは、彼女のマホウが正確に機能した証拠であった。


「う、にゃ……」


「おはよ。ねこちゃん。気分はどう?」


 内臓が活動をはじめる。失ったはずの血液はマホウが補ってくれる。腹部にじんわりと残る痛みだけを残して。

 肺に取りこむ空気は埃っぽくて血なまぐさくはあるものの、生きるために必要不可欠な酸素の供給に彼女の呼吸はだんだんと安定していった。


「最っ悪にゃ……。そんなに気になるなら、アンタも試してみたらいいんじゃないかにゃ……」


「僕は痛いの嫌だもん」


「それはアタシだっておんなじにゃ! それなのに玩具おもちゃみたいに扱うなんて……アンタ、頭がおかしいにゃ」


 ここぞとばかりに噛みつこうとするミーシャであったが、彼女の内心はかなり焦りが生じていた。


 ――この感じは……もう、次に死んだら生き返ることなんてできない……。本当に、死ぬ。


 獣の直感として分かる。彼女のマホウは限界を迎え、その力を失いかけていた。

 いくら生き返るとはいっても無限にそんなことができるわけではない。そんなことができるならば、こんなにも死に対して怯えはしない。怯えるとすれば、それは終わりのない生涯と、死を繰り返す今現在のような状況だけである。

 彼女のマホウはいわばサンディの不老不死のマホウの下位互換。仮に時間が経てばまたマホウが使える可能性があったとしても、きっとその前に死ぬほうが早いだろう。


 なんとしても、次にオズワルドが手をくだすまでにここから逃げださねばならない。

 彼女の意識の中にはとうにナタリアからの命令なんてものは残っておらず、どうにか生き延びるため。己の命を守ることに必死となっていた。


「…………」


「どうしたの、ねこちゃん。考えごと?」


「……どうすればアンタを殺せるか考えてただけにゃ」


「ははっ、怖いなぁ。せっかくそろそろお別れでもしようかと思ったのに」


「お別れ?」


 あくまでも敵意を向けたままの言葉に、返ってきたのは意外な返答だった。

 それはこのまま逃がしてくれるということだろうか。そうであればミーシャにとって願ったり叶ったりではあるが、オズワルドの言うことである。死を迎えるという意味でのお別れという可能性だっておおいにあった。


 警戒するように睨みをきかせるミーシャとは反対に、オズワルドは不服そうに口をとがらせる。


「そんな顔しないでよ。だって君、どんどん回復スピードが落ちているだろう。もうマホウの限界が近いことくらい僕だって分かるよ。そんな身体じゃあ教材として役には立たないし……だからもうどっか行っていいよ」


 バレている。回復しているミーシャ本人としては蘇生する際の再生スピードなど分かりはしなかったが、はたから見ればそうなのだろう。

 それが分かった上で先ほどのギロチンを落として大ダメージを与えるとは、やはりこの男の正気がはかりしれない。


「本当に言ってるのかにゃ」


「本当だよ。そんなに僕といっしょにいたいなら止めないけれど」


「いたいわけがないにゃ! 誰がアンタみたいな頭のおかしい奴となんて――」


「じゃあ早く行ってよ。これだけ休ませてあげてるんだから、さすがにもう動けるでしょ」


「ッ……」


 彼の目は本気であった。この機を逃せば、おそらくはもう生きることはできない。

 よたよたとうまく力の入らない身体でどうにかミーシャは起き上がると、マホウに集中して自身の姿を猫へと変える。変身に失敗してしまった場合のことなど、想像したくはなかった。


 血溜まりの上に現れた紅く濡れる白猫は、自分の姿が変わったことが分かると脇目も振らずに屋敷の出口へと駆けだした。

 屋敷を飛びだせばブンブンと拳を振るクロード、そして少し先に仲間を介抱している獲物桜庭の姿が目に入る。今の彼にならば襲いかかることなどたやすいだろう。しかしそんな彼らの存在を意識するほどの余裕は、彼女にはもうなかった。


 ――アタシにはもう、つきあっていられないにゃ。


 こんな怖い思いをするならば、ただの野良猫になったのだとしてもその方が幸せだ。残したクロードのことは少しだけ心配ではあるが――ミーシャはその道を選んだ。


 これから自分はどうなるのだろうか。一心不乱に走る紅い白猫は自分がどこへ向かっているのかも分からないまま、ドロリと溶けた黒い門を越えてついにアフラートの街へと出る。

 彼女が主人の存在と一時いっときの恐怖と引き換えに手に入れた屋敷の外の世界は広く、みるみるうちに彼女の姿は新しい世界の中へと溶けこんでいくのであった。

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