蜂とマホウツカイの終戦

 背筋が冷える。果たしてその感覚は、ただ影がさしこんだからなのか。それとも別の理由からなのか。

 気がつき、振り返る前に背中に受けた衝撃は大きく、嫌な音が本来人には無いはずの飛行補助具から聞こえる。


「ッ――」


 文字通り叩き落とされたと思った時にはもう遅く、体勢を立て直す暇もなくアレクシスは地面へと墜落していく。

 落ちて、落ちて、そして衝突。

 地面にパタリと垂れた赤は化け物の体液ではなく、今度は正真正銘、アレクシス自身の血液であった。


「――はぁ。本当に最悪だ。羽が折れた」


 これは放っておけば治るものなのだろうか。

 ヨロヨロと立ちあがったアレクシスは、痛みとともに左の翼がほとんど動かなくなったことに気がつくと、諦めにも似た溜め息を吐いてマホウを解除する。

 間もなく彼の両翼は消失したが、背中への違和感は残ったままであった。


『ギ、ギギァ、ィ、ギ……』


 そんなアレクシスの目の前に、土煙をあげて地面に着地した女王蜂が立ちふさがる。

 もう羽は折れてしまったのだ。残り一回ほどならどうにか飛べるかもしれないが、逃げ切れる自信はない。

 いや……そもそも逃げさせてはもらえないだろう。


『ァア、ギ!』


 敵意をむきだしにした、金切り声。

 威圧するようにアレクシスの前に仁王立ちとなった女王蜂は、今度こそ。大きな顎をぱっくりと開いて、弱った獲物アレクシスを捕食しようと彼の頭をわし掴んだ。


「ッ……なるほど。追いつめられた犯人の気持ちも、少しは分かったもんだ」


 しかしそうは言っても。アレクシスの顔はまったくもって絶望するわけでもなく、挑発的な視線を崩すこともない。

 すでに軋んだ音を立てる頭蓋は、きっと力をこめられれば林檎のようにぐしゃりと潰れてしまうだろう。

 それでも。彼の舌は苦しげながらも、しっかりとした口調で。いつもよりも、さらによく回りつづけていた。


 なぜかと問われれば、それはそう――勝ちを確信した時が満ちたからである。


「いよいよランチタイムってわけか? まぁ、おあつらえ向きにドレッシングもかかっているようなもんだからな。……だが、時間をかけすぎだ。阿呆が」


 はたしてその『阿呆』は誰に向けられた言葉なのか。

 瞬間。アレクシスの頭上――女王蜂の開いたままの口の中へ。吸いこまれるように、一直線。怪物の前方からなにかが飛来した。

 それは先ほどまでアレクシスが手にしていたのと同じ、ダリルの生成した槍で。ギッという間抜けな鳴き声が聞こえたかと思えば、鋭い矛先は女王蜂の口内から後頭部までを貫いた。


「うおっ。くそ……いきなり離す奴がいるか」


 怪物相手に、そんな悪態をつくのもおかしい話ではあるのだが。

 女王蜂が後ろに倒れるとともに解放されたアレクシスは、思わずその場にしりもちをついて軽く頭を横に振る。

 掴まれていた箇所はズキズキと痛むが、それだけで済んでいるのは幸運ともいえるだろう。

 すると。


「ははっ。いくら身体が馬鹿みたいに硬くても、やっぱり口の中はそうでもなかったみたいですねぇ! これはオマケってやつですよ」


 一発仕返しできたことが嬉しかったのか。はたまた小さなへ的確に命中させられたことが嬉しかったのか。

 離れた距離から槍を弾き飛ばしたダリルは、上機嫌にそうカラカラと笑いながらアレクシスの元へと歩み寄ってきた。


「正直、最初に捕まった辺りで頭からむしゃむしゃ食べられるかとでも思いましたよ。まさか本当に五分もたせるだなんて」


「五分? 馬鹿を言え。一分オーバーだ。……だがまぁ……奴の腹の中で消化されるのは、さすがの俺でも敵わんからな。上出来ではなかったが、助かったとは言っておこう」


「なんです。ツンデレってやつですか?」


 そう二人が軽口を叩き合う間にも倒れた女王蜂はバタバタともがいており、口内から貫通した槍を引き抜こうと躍起になっている。

 アレには特別毒があるでもない。ギミックがあるわけでもない。言葉そのままにで造った槍なのだ。いつ抜けたとしてもおかしくはない。


「んじゃ、そろそろ仕上げといきましょうか。起きあがられても困りますし」


「そうだな。とっとと終わらせて、早くシャワーでも浴びさせてくれ」


「はいはい。分かりましたよ。……先に言っておきますけど。僕、これ外したらまたしばらくは戦力外だと思うんで。失敗したら後のフォローは頼みますからね!」


 そう言うやいなや、ダリルが両手の先を重ね合わせ、ゆっくりと前方へと掲げる。

 焦るな。いつもとは違う、大きなマホウの流れを意識して。イメージを強くもって。


 ――僕ならやれる。


 ダリルがすべての意識を前方へと寄せる。――そして。


「ッ!」


 引き寄せられるように。どこからともなく集まってきた光の粒が空中に収束していき――ぽこん、と。女王蜂の上空に小柄な槍が一本、生まれた。

 大きさなど、それこそダリルやアレクシスが手にしていた程度。とても硬い外殻をもった怪物に太刀打ちできる手段には思えないが――


「まだ、終わりじゃないですよ!」


 光の粒たちは、まるで夜闇に静かに浮かび上がる蛍のように。ひらり、ひらりと宙を漂い、槍の元へと集まっていく。

 吸収されているのだろうか。はたまたくっつき、補い合い、成長を遂げているとでもいうのだろうか――気がつけば、槍は歩道に等間隔に並んだイチョウの木のサイズすらを超えていた。

 その形状は女王蜂の手にしていた円錐えんすい状の槍と似通ってはいるが、黒曜石のごとくてらてらと光るあちらとは反対に、陽の光を反射して。矛先は鈍い銀色に輝いていた。


「これぐらいで限界、か……。そんじゃあ、あばよ! 虫野郎!」


 これ以上は身がもたない。

 ダリルが腕を振り下ろすと、それに応えるように槍が重力に従って落下していく。


『――ゴッ! グ、ギ、ギ!』


 すぐに槍は女王蜂の腹部へと突き刺さり、相手を逃がすまいと圧力をかけていく。

 ミシミシと身体を押し潰す巨大な杭。

 女王蜂が両手を使って離そうとしても、持ち上げることはおろか、押し戻すことさえかなわない。


「……あれ?」


 かなわないのだが……決定打にはあたらないのか、貫くまでにはいたらない。

 ダリルが思っていたより、敵の外殻が硬かったのだ。


「ちょっとちょっと! なんか予想以上に硬いんですけど!」


「なんだ。頼りないな。もっと力を込めて押しこむようなことはできないのか」


「無理ですよ、もう全力でやってます! しかもわりと限界で。こう、釘を打つ時みたいに……ハンマーとかみたいな、なにか打ちつける手段でもあればいいんですけど……」


 そんな都合のいいものがあるはずもない。

 だいたい、あったとしてもこの巨大な槍の石突きまで運ぶ手段もないのだ。

 それこそ、事務所の屋上で眺めたあのドラゴンたちのように、自由に空を舞える翼でもなければ――


「打ちつける手段だと? ……分かった。それなら最後に一発くれてやるとしよう」


 そう言ってアレクシスは立ち上がると、ダリルの前へと一歩踏みだし、両翼を広げた。

 もちろん万全の状態とはとても言えない。

 はたから見ても痛々しいほどに、汚れた翼はおかしな方向へと折れ曲がっているのだ。


 ――やはりマホウを発動すると、翼の痛覚も復活するか……が、泣き言を言っている場合でもないからな。


 実体が現れたことで、神経が繋がったとでもいうのだろうか。呼吸がわずかに浅くなり、額の端に脂汗がにじむ。

 ズキズキと脈打つように痛む左の翼は感覚が麻痺していたものの、しかしまだ。痛みに目をつむれは飛びたつくらいのことはできる。――しなくてはならなかった。


「いや、アンタその羽で行くっていうんです? 片方途中で折れ曲がってますけど」


「…………問題ない。あのてっぺんまで行くだけだからな。貴様こそ、外れないようにコレをしっかり突き刺しておけよ」


「それはもちろんですけど。今の間、本当に大丈夫なんですかねぇ……」


「いいから黙って見ていろ」


 空色の瞳がスッと細められる。

 そして、強くアスファルトを蹴りつけると――アレクシスは空へと飛びたった。

 多少折れていた上でもこうして飛ぶことができるとは、まさにマホウ様々である。

 いくら鳥であろうと、ドラゴンであろうと、たった二つしかないこんな羽など……折れたりもがれたりしてしまってはただの飾り。どれだけ立派なものを持っていたとしても、使えなければ持っている意味などないのだ。


「イッ……」


 翼を動かすたびに背中から襲いくる鈍い痛みに、アレクシスは顔をしかめる。

 いつもならば一瞬の距離が、今は遥か遠くに感じる。

 しかし今までに比べれば遅けれど、それでも速いスピードで。彼は巨大な槍の真上まで昇るとともに、石突きの部分へと降りたった。


「む……あまり時間は経っていないとは思っていたが……。もう、日が少し傾きはじめているな」


 セリーナたちと別れた時よりも、彼を見下ろす太陽はわずかに地平線へと近づいていた。

 元々空腹だったところに運動をしたからか、腹の虫がぐぅと鳴き声をあげる。

 ぐぅぐぅと。一度気になりだしたら、キリがない。

 苛立っている人間に『腹でも減っているのか?』とは、よく聞いたものである。こんな時でなんだが、正直……だんだんと苛立ってきた。


「そうか。本来なら今頃は嫁と後輩といっしょに、遅めの昼食でもとっている時間だったな。……しかし、この騒ぎのせいですべてが台無しだ」


 石突きの上から見える景色からは、いまだ生き残った蜂人間たちが、獲物を求めてうろついているのが確認できる。


 ――コイツと同じように変化した個体はいないようだな。だが……排除するにはまだ少し時間はかかる、か。


 計算をする。

 仮にこの女王蜂の撃破がうまくいったとしよう。

 そこから他の蜂人間を始末していき、本部職場へ連絡をとり、負傷者の確認と死亡者の身元の確認――いや、本部がすでに動きだしているのならば、そちらは任せるとしよう。

 忘れてはならないのが、元凶となるマジュウの捜索である。アレを止めない限りはまた、いつか、どこかで。被害者がでる恐れが十分にありえるのだ。


「……ふっ」


 思わず小さな笑い声がこぼれてしまった。

 アレクシスはもう一度飛びたつと、さらに上昇して地上を見下ろす。

 顔に出すまいとしていても、やはり思うところはあるのだろうか――いつもは犯罪者を射抜くような鋭い彼の瞳も、今ばかりは少しわっていた。


「そういえば、ちゃんとした休暇なんていつぶりだっただろうな……。ここ最近はバタバタしていて構ってやれなかったことだし……まぁ、嫁の喜ぶ顔が見れたことはいいことだ。この騒ぎのおかげで、少しはいいところも見せられたしな。――だが」


 穏やかな口調でそう告げる彼は、しかし一転して。その特徴的な三白眼を見開くと、槍へ向けて急速に降下しはじめた。

 その光景は、まさに。特撮ヒーローのキックのような。

 アレクシスの言っていた打ち付ける手段――それは、彼自身が槍の石突きへと、全体重を乗せた蹴りを放つことだったのである。

 そして彼が今一番、憎き異形の怪物へ言いたかったことは――


「それとこれとは話が別だ! 俺の貴重な休日をめちゃくちゃにしてくれやがって! この責任はとってもらうからな、クソ虫風情がァァ!!」


 衝撃。

 怒りのこもった蹴りが、最後の一押しとなったのだろう。

 それまではどうにか押し返そうとしていた女王蜂の身体は、ついに巨大な槍の圧に耐えきれずに貫かれた。

 怪物の聞き難き、甲高い悲鳴と、重く響く振動。


「……ははっ、やってやったか」


 動かなくなった女王蜂を遠目に見て、アレクシスが小さく笑う。

 これで一件落着……と言えないところが、また悲しいところではあるのだが。


「おっ」


 すると突然空中に放りだされた浮遊感に、アレクシスは足元に目を向ける。

 そもそも規格外の大きさの得物を出現させていたのだ。どうやら長時間の顕現けんげんに、ダリルのマホウに限界がきたらしい。

 巨大な槍は光へ溶けて消え、足場を失ったアレクシスは重力に従い地上へと落下していくのだった。

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