五分時間を稼げれば

 さて。どうしたものか。

 アレクシスの安否は不明。目の前にはナイフで傷一つつかない巨体の怪物。そして手には頼りない槍一本。

 正直なところ、マホウを一度に酷使しすぎたせいか、自分の身体とて泥に浸かったかのように重たいのだ。


 ――いや、勝ち目ないでしょ。


 こんな親玉のような怪物が出てくるなんて知っていれば、例えビルの一つや二つ壊してしまう可能性があったとしてもオズワルドに応援を頼んでいた。

 まぁ、今更呼んだところで、到底間に合うはずもないのだが。


「僕はこれからどう動くのが正解なんですかねぇ……。白旗上げて諦めてくれるってんなら、喜んで上げるんですけど――」


『ギ、ギッ!』


「うぉっ!」


 考える間もなく、金切り

 とうとつに、予兆もなく。円錐状の槍を構えた女王蜂が動きはじめたのだ。

 女王蜂がダリルに向けて槍を突き、すんでのところで横にかわした彼の脇腹を、重い鉄塊のごとき冷たさがかすめ通る。

 もしも避けるのが一瞬でも遅れていれば……と思うと。


「くそ、あっぶねぇだ――ッ、がッ!」


 今度は避けきることができなかった。

 睨みつけた先の視界に映る、黄色い腕。人のものとは到底思えない、怪物の太い腕から繰りだされた左フックが、ダリルの頭に直撃する。


 ――やば。


 ガツンという衝撃に意識が飛びかける。むしろ飛ばさなかっただけ褒められたものだろう。

 気がつけば、ダリルの背は先ほどまで両足で踏みしめていたはずのアスファルトの上へと転がっていた。

 前後左右の感覚すら分からず、フラフラと足取りも覚束おぼつかないまま倒れこんだ彼の頭上で、再び女王蜂が槍を突き刺そうと得物を構える。


「あ――」


 索敵範囲内で動く気配に、頭の中ではどうすればいいのか分かってはいる。

 それでも意識が朦朧としているためか、身体は言うことを聞かず、仮に応戦しようにも手にしていた槍は今の衝撃の瞬間に落としてしまって空をつかむばかり。

 なすすべは、ない。


 ――マホウもうまく使えない……。せめて、起き上がらないと。自分がここで死んだら、誰がこの化け物を――


「……?」


 霞む視界の中、目に入るのは黄色の怪物。聞こえるのは耳障りな鳴き声金属音。匂うのは、甘ったるい蜜の香り。

 しかしその五感にさえ触れない索敵範囲の中、目の前の女王蜂とは別に、もう一つ別の気配が動きはじめていたことにダリルは気がついた。

 その気配は初めはゆっくりと動いていたが、次の瞬間。それこそまるで、魔法で瞬間移動でもしたかのように。気配の主はダリルの視界の先――女王蜂の背後へと移動をしていた。

 そして。


「――クソが! さっきはよくもやってくれたな。図体ばかりの害虫めが!」


 この場にギャラリーがいれば、ここはさぞかし盛りあがったであろう。

 車が追突したかのような音とともに、女王蜂の身体がダリルの視界から吹き飛んだ。

 代わりに映ったものは、見覚えのある猛禽類マホウツカイの翼。大空を自由に羽ばたくことのできる、大きな両翼。

 ダリルの目の前で先ほどよりもさらに大きく翼を広げたアレクシスは、手にしていた鉄くずがひしゃげたのを一瞥いちべつすると、不満げにそれを投げ捨てた。


「やはりこんな拾い物の棒切れではダメか。おい、貴様もいつまでも伸びていないで加勢しろ。ついでに適当な武器をだせ」


「……」


「聞いているのか、ハニーボール。もしや貴様……俺が蹴り起こすまでそこで寝ているつもりか?」


 アレクシスが革靴の先でダリルをつつく。

 するとダリルは億劫そうにもぞりと動いては、寝転がったままアレクシスの顔を見上げた。

 この男の登場に驚いたおかげで、少しは意識も覚醒したのだろう。ようやく目の焦点があった感じがする。

 彼が見上げた先の空色の三白眼は、労るでも心配するでもなく。呆れたような眼差しでダリルのことを見下ろしていた。


「……蹴り起こすってアンタ、人の心配ってものはできないんですかねぇ。むしろあんな派手にぶっ飛ばされてたくせに、よくそんな元気でいられるな……。僕なんてマホウ使いすぎたせいで、今はこれ一つ造るだけでも精一杯なんですけど」


 そうボヤきながらダリルは上体を起こすが、やはり殴られた頭はクラクラする。

 確実にダメージは響いているのだ。その上でこれからまた、あの怪物とやりあうとなると――


 ――さすがに僕も、いつまでもヘラヘラしてる場合じゃなくなってきたな……


 幸いにも、まだ女王蜂は立ち上がってきてはいない。

 アレクシスはダリルの横に転がる槍を拾うと、まじまじとそれを見つめ、石突きをコツコツとアスファルトへ当てて鳴らす。

 まるで、自分が今から使う得物の強度でも確かめているかのように。


「……まぁ、こんなものでもないよりはマシだろう」


「だから人の武器持っていくなって――」


「で、何分だ」


「あ?」


「ろくに動けやしないんだろう。少し休ませてやる。……何分与えてやれば、奴の頑丈な身体を貫くぐらいの武器が造れるんだ」


 コツン、と石突きが地を叩く音。

 アレクシスからしてみれば、先ほどの渾身の一撃……とてもではないが、手応えがあったといえるものではなかった。

 もちろん、まったく効かなかったというわけではない。

 他の蜂人間たちと同じように首ごと貰うまでとはいかなくとも、最初とは違い、あの巨体を蹴り飛ばすぐらいのことはできているのだ。

 現に、いまだ反撃がきていないことが相手にある程度のダメージを与えている証拠である。


 ――だが、まだひと押しが足りない。


 それでも、倒すまでにはいたらない。

 まだ少し脚に痺れが残っている。あの、他の怪物よりも、さらに硬い外殻によって守られた弾かれた右脚が。

 いくらアレクシスが躍起になって攻撃をしたとしても、あの外殻をどうにかしないかぎりは致命的な傷を負わせることはできないのだ。

 女王蜂の撃破……そのためには、その致命的な一撃を与えることのできる手段をもつ人物――マホウツカイ、ダリルの協力が不可欠だった。


 ――事情聴取である程度コイツのことは把握している。頼るのは癪だが、俺一人ではいい打開策も見つけられそうにないしな……。今は協力してもらうとしよう。


 しかし。


 ――それにしても武器を造るマホウ……実際にそんなまがいのマホウを使う奴など、初めて見たが……。使い方を間違えれば厄介な力であることは間違いない。極光オーロラの内部事情はほとんど知らないという話だったが、果たしてあれは本当だったのか……?


 それだけの利用価値があるマホウツカイ、本当にただの下っ端ごときに留めておくにはあまりにも惜しい。

 ダリルとアーロンの会話を盗み聞きしていた桜庭たちの話では、その証言に嘘偽りはないようであるが……どうにも腑に落ちないのだ。

 アレクシスがわずかな疑いの目をダリルへと向ける。だが、それはものの数秒にも満たなかった。


 ――いや。今はそんなことを考えている場合ではないか。すぐに勘ぐり深くなってしまうのは、俺の悪い癖だな。


 一方、アレクシスの問いにダリルはしばし口を開けて指折り考えていたようであったが、実際に少しマホウを使おうとしてみたところで「ううん」と唸る。

 そして彼はアレクシスに手のひらを向けると、少し自信なさげにこう答えた。


「あー……五分。五分ちゃんと休めば多分……自信はないですけど、デカいのが一本造れます。もしも確実に仕留められるくらいの量が必要なら、もっとかかりますけど」


「五分か……分かった。それでいい。準備ができるまで貴様はそこの陰にでも隠れていろ」


「アンタは?」


 女王蜂が飛んでいった先で、ガラガラと音を立てて瓦礫がれきが崩れるのが聞こえる。

 間もなく。耳をつんざくような金属質な鳴き声が、二人の元まで響きわたった。


「ふん、無論だな」


 鳴き声の元へとアレクシスが視線を向ける。

 そして、大きく広げられた翼が一回、二回と宙を羽ばたくごとに砂埃が舞い上がり、ダリルが目を細める。

 砂のカーテンの先――ニヤリと笑ったその顔は、やはり真っ当な警察官とは思えない表情をしていた。


「俺が五分時間を稼ぐ。言いだしっぺの法則ってやつだ」


『ギガ、ガ、ァア!』


 その瞬間。瓦礫がれきの中からアレクシスとダリルに向けて、女王蜂が飛びだした。

 思ったとおり、その移動速度は並の蜂人間たちとは別格で。ダリルの前に現れた時同様、気がついた時にはすでに二人の眼前へと迫っていた。


『ギッ』


 キリキリと耳鳴りのように飛びこむ鳴き声金属音


「ハニーボール! 貴様はとにかく離れていろ!」


 アレクシスが空中へと跳躍し、ダリルから距離をとる。

 翼が陰になったのだろうか。それとも動くものを追う習性なのか。女王蜂は地上のダリルよりも優先して、逃げの動きを見せたアレクシスの元へと飛び上がった。

 ダリルのマホウが鍵となる以上、少しでも距離は離さねばならない。


「ッ!」


 地上からの、急接近。

 円錐えんすい状の槍の先端がアレクシスのスレスレを掠め、彼のシャツの脇腹部分が破れる。


 ――さすがに速いな。だが……


 近距離で敵の攻撃をかわしたアレクシスは空気を蹴るようにその場で回転をすると、ぐるりと身体をひねり、槍を突き出したままの女王蜂の頭上へ。

 そして彼は大きく足を振り上げると――女王蜂の頭に向けて、かかと落としを入れた。


「さっきので俺が本気だとでも思ったか!? あんなトロさで勝った気になっているならば、そりゃあよっぽどめでたい頭だな!」


 地面に落下した女王蜂に追いうちをかけるように、アレクシスが空中で槍を構え、垂直に落下していく。

 それは小さなミサイルかと見間違うほどの急降下。

 しかし。その槍が突き刺さったのは怪物の硬い身体ではなく、無機質なアスファルトの地面だった。


「チッ。デカい図体のわりにいっちょ前に避けたか。どこへ行っ――ッ!?」


 手応えのない感覚に舌打ちをこぼしたアレクシスは、地上へ降り立つと敵の居場所を探すべく顔を上げる。

 だが――そんな彼の両肩が、強い力で何者かに掴まれた。

 その相手が何であるのか。確認せずとも分かりきっている。


『ガ、ギッ、ギ……』


 アレクシスの槍を避けた女王蜂は、彼が逃げられないようにと、大きな両手で押さえこむようにガッシリ掴んで離さない。

 もちろん身をよじった程度ではビクともしないわけで。


 ――しまった。


 アレクシスの至近距離に迫った、昆虫の強靭きょうじんな顎がパカリと開く。

 強い蜂蜜のような甘い匂い。どうやらあの匂いは怪物たちの体内で作られていたらしい。胸焼けにも似た、嫌な違和感がアレクシスの内側へと広がっていく。


 ――くそ。まさか俺を捕食する気か? 頭突きでもくらわせて隙を作れば、逃げられるかもしれんが……


 自らあの顎へと飛びこんでいくのは気が引ける。ぶつけた瞬間にパクリ、ともなれば笑い話ではすまないだろう。

 文字通り、そんな悲惨な状態ではセリーナに合わせる顔がない。いや、合わせる頭がない。


『ギ、ゴッ、ボ』


 しかし、そんなことを考えていたアレクシスの視線の先。

 じょじょに。女王蜂の開かれた喉の奥から、なにかがこみ上げてくるのが目に入った。

 そして次の瞬間。


「んむっ!?」


 まさにB級映画さながらの、人間と地球外生命体の邂逅のような光景。

 女王蜂とは逆にとっさに口を閉じたアレクシスの顔に、赤い、ゼリー状の液体が吹きかけられたのだ。

 これはなんの嫌がらせか。自分の全身から、目の前の怪物と同じ甘ったるい蜜のがする。

 純粋な嫌悪感にこめかみがヒクリと動いたことは、アレクシス自身も感じていた。


「――ッ、この、汚れただろう害虫が!」


 人間、本気でやろうと思えば思いがけないパワーがでるものである。

 掴まれながらも身体を捻り、大きく広げた翼をぶつけることで、拘束から逃れたアレクシス。

 女王蜂は一瞬ふらついたものの、それでも数歩後ろへよろけただけで倒れることはなかった。

 アレクシスは地面に刺さったままの槍を抜きとると、白いシャツが汚れることもお構いなしに袖で顔の汚れを拭いとる。


「くそ最っ悪だ! 臭いしベトベトする……洗濯で落ちるのか。これ」


 はたから見れば、蜜の臭いのするイチゴジャムでも被った惨状のアレクシスは、そう嘆きながらシャツに付着したゼリー状の液体を払い落とす。

 チラリと敵の様子をうかがえば。女王蜂は突進してくるでもなくその場に固まっており、先ほどと同じく口を大きく開けて仁王立ちしているところであった。

 そこに違う点があるとすれば、今度はその口が空に向けて開けられていたということだろうか。


 ――なんなんだアイツは。さっきからの行動がまるで理解できん。捕食するわけでもなく、こんなものをぶちまけて……。何をはじめる気でいるんだ?


『ギ、キ、ィィィィ!』


 アレクシスが警戒をつづける中。女王蜂が雄叫び金切り声をあげた。

 今一度、辺りに響きわたるほどの鳴き声金属音の中に、小さなノイズが混じっていく。

 それは一つではなく、後を追うように次々と。まるで集団ではねを擦り合わせたかのような――


 ――羽音?


 そう。それは羽音であった。

 小さななにかが次々に、女王蜂の口から発射されて――否、飛び立っていく。

 やはり一つではない。数十、数百……いや、それ以上だろうか。

 空へと飛びたったそれらは空中で旋回せんかいをすると、他のものには目もくれず、迷うことなくアレクシスの元へと直進をはじめた。


「なんだアレは……。まさか、蜂の大軍か……?」


 蜂の巣をつついたにしても、いささか多すぎる。

 耳障りな無数の虫の羽音を前に、アレクシスは自然と背中に冷や汗をかいていた。

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