シープ⑤(完)

 目の前の彼女ピクシーはもちろん精霊です。

 そしてきっと、あのひつじたちも夢の中に住む精霊なのでしょう。

 そうならば、おじさんは羊飼いの精霊なのではないでしょうか。


 ……『おじさんの精霊』だなんて、あまり知りたくありませんが……


「あの、おじさん、変な質問をさせていただけませんか?」

「ええ、なんでもどうぞ。けれど急がないと、時間がなさそうだね」


 そう言うと、彼はわたしの足先を指しました。

 体をひねって見てみると、わたしがすこし消えかかっていました。わたしが目覚めようとしているのかもしれません。

 これはできるだけ単刀直入に尋ねて、急がねばならないようです。


「おじさんは──その、精霊ですか?」

「ふふふ、あはははっ!」


 わたしのおかしな質問に、ピクシーの彼女が声をあげて笑いました。


「コノヒトはヒトよ? どこからどうみたってヒトじゃないの。あなた、面白いこと言うのね!」

「え? いえ、まあそうなのですが、ほらここって夢の世界なわけで、わたしたちは夢を見ているわけ、で──」


 そこまで口にして、わたしはおじさんの言葉を思い出しました。

『君は降りてはいけない。きっと帰れなくなってしまうんだ』

 このおじさんはヒトだけど、この場所でベッドから降りてしまって、帰れなくなったヒトなんだ。


「ある夜に私も眠れなくて、それでも翌朝も早くから働かなければならず、寝なければ、寝なければとひつじを数えていたことがあってね」


 わたしが考え込むのを見て、おじさんがゆっくりと話し始めました。


「そしたら、いまの君と同じようにここに連れられてきていた。あの『かぞえひつじたち』と共にね」


 そう言って、空に浮かんでいくひつじたちに指を差します。


 数えひつじたちカウンティング・シープ。あのコたちは眠れない誰かが眠らせてほしいのだと数えるたびに生まれてくるのでしょうか。

 空を見れば、彼らはひとつ、ふたつ、と減りつつありました。その表情は満足げです。


 おじさんが話を続けます。


「そのときに、随分と賑やかな彼女にも会ったんだ。思えば長い付き合いになったものだね」


 今度はひつじたちの空を指したその手の甲にピクシーを座らせました。


「あのひつじたちに囲まれるのは気持ちがよかっただろう?」

「え? ええ、とても快適でした。なんだか気分も良いですし、ずっとモフモフしたいですよ」


 モフモフの手触りと、もしゃもしゃする小さなひつじさんを思い出して、顔がにやけてしまいます。


「ああ、ああ、そうだろうとも。その頃の私はとても疲れていてねえ」


 おじさんは遠く思い出を掘り出すように、穏やかな笑顔で大きくうなずきました。


 そしてすこしの間をおいて、彼は言葉を続けました。


「目を覚ますのが怖かったんだ」


 その一言に、わたしの胸が、キュッと詰まる。


「彼女にもベッドから出るなと何度も止められたものでね。けれど──」


 なにか思いを言葉にして伝えたかったのです。

 だけどどうしてか、口を開いてみても音が伝わりません。


「私は降りた」


 ふと自分の体を見てみると、ほとんど消えかけていました。

 話を終えたおじさんが、パチン、と手を鳴らしました。


「さあ、起きる時間のようだね。きっと君は、これからとても良い寝覚めを迎えられるに違いないんだ。なにせ彼らひつじたちが気の済むまで草を食べていたのだから。良い寝覚めを迎えられた日は、きっといい日になると決まっているんだ」


 おじさんとピクシーがわたしをまっすぐと見て手を振ってみせる。

 その視界が段々と白く染まっていく。


「どうか君は今日を楽しんで。どうか君が良い日を迎えますように──」


 やがて真っ白に塗りつぶされて、彼らは見えなくなりました。




 ──はっ。




 次の瞬間、目を開けたわたしの視界には見慣れた天井がありました。見慣れた毛布、見慣れた壁、見慣れた窓がありました。明るいなと思って見やった窓の外に見える空は、この時期にもめずらしく青空です。


 そういえば、昨日は雷雨だったことを思い出しました。あれはまだ天気の不安定になりがちな夕方頃だったように思うのですが……もう朝でしたか。

 わたし、さすがに寝すぎでしょう。


 体を起こしてうんと背伸びをしました。

 あれ? と思うほど体が軽いです。

 気のせいなんかではありません。

 なによりも、気分がとても晴れやかなのです。


 こんな日は、いい1日になりそうな気がしませんか?


 ひつじたちのおかげでしょうかね。ふふ。


(シープ 完)

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