第7話 歪んだ偏見ギャグに囚われないために、あるいは炎上回避策

 特定のジャンルや文化を扱っているものの、偏見に満ちた描き方のせいで、そのジャンルに属する人から反発を受けてしまう作品が、しばしばネット上で話題になる。

 おおむねコメディの類が多いように感じる。

 「これはお笑いなので、オーバーにいじっているだけなので」という扱い方を作品内でするせいで、騒ぎに火に油を注ぐ格好となっている気がする。このいじり方が、ステロタイプな誤解と偏見に包まれているために、特に怒りを買ってしまうのだ。

 つい先日地上波放送された映画『翔んで埼玉』は、誤解と偏見に満ちたギャグ映画であるにも関わらず、こうした作品群の中でひときわ出来がいいように思う。やっていることは先に示した、怒られがちなパターンと似ているはずなのに。

 埼玉だからOKなのか? オタクやゲームやスポーツや同性愛を茶化すのはダメで、題材が埼玉だから面白く見られるのだろうか。埼玉県人は心が広いから、偏見に満ちたギャグをぶつけても笑って見逃してくれるということだろうか。

 そういうことではないんじゃないか。

 思うに、言ってしまえば、漠然とした言いぶりではあるにしても、大きな違いは『愛』じゃないか。

 特定の文化を作品内で扱うときに、対象に向ける『愛』があるかどうかが重要なんじゃないかと、考えている。


 自分の本業、ゲームシナリオライティングの話をしよう。

 ギャルゲーのようなゲームでは、ルートごとに担当ライターが分かれるという分業体制がよく取られる。

 ライター単独で全てを執筆していてはリリースまでに時間がかかりすぎるし、だからといって「前半はこの人が書いて後半はあの人が書く」みたいな分業体制を取ると、作風が変わってしまう懸念がある。

 そのため、「このキャラクター(ヒロイン)と仲良くなるのはこのルート」と、キャラごとの話を担当ライター別に分けて、複数名の執筆体制で仕事を進めるのだ。

 ルートごとのストーリーも、主人公と相手キャラの二人による掛け合いを基本軸とすれば、執筆中にライターが抑えておくべき設定は最低限で済む。

 深く一人を掘り下げていくシナリオをライター別に分けることで、キャラのブレも起きにくい。「あのキャラについてはあのライターが一番くわしい」という、チーム内での専門性も出る。


 最近ではソシャゲやスマホゲームでもこの分業体制はよく執り行われ、ガチャで登場する総勢数百名にも及ぶ登場キャラクターのうちの一人×いくつかを、特定のライターが担当し、そのキャラの背景に沿ったストーリーを書くことになる。

 そして、リリース前なのかどうかといった状況にもよるわけだが、こうした担当キャラクターの振り分けは、チーム内でライターが相談で行うことも多い。

 各キャラには個別に魅力的な設定が設けられている。そんな中、当然のようにライターごとの向きや不向き、知識の差も出てくる。

 例えば「BL好きの腐女子」という設定のキャラがいたとして、これを正確に偏見なく書ける知識を持っているライターというのが、常に現場にいるとは限らないのだ。


 そういうキャラがいる場合、周りを見渡して特に詳しい人がいないようであれば、俺は積極的に挙手をして担当してきた。割と大きなゲームから、小さなゲームに至るまで、何回もある。

 いかにもそちらの方面の人達が好きそうな男キャラ複数名を、「カップリングになりそうな連中はまとめて俺がやります」と担当したこともある。まとめて一人が扱っておけば、Aが行動したことがBの思いに反映されているなどといった、連動した心の機微を描けるからだ。

 単にそういうキャラ同士が俺も好きなので書きたいだけ、というのもある。

 男同士のイチャイチャは好きな方だ。その方面の知識が全くない人よりは書けるし、腐女子の友人と腐ったトークで盛り上がるのも大好きだ。

 とはいえ、「腐女子のことならよく分かるので俺に任せてください」という気持ちで引き取ったことはない。彼女たちの本当の気持ちは俺にはわからない。そのコミュニティにずっと属し続けていた人がどういう経緯で文化を醸成し、今に至っているのかは、調べれば知識としては多少わかるものの、完全に理解は出来ない。俺が当事者ではないからだ。

 俺が腐女子にまつわるキャラクターやエピソードを分業時に引き取るのは、「まったくわからない人がやるようであれば俺がやるほうがマシなのでやります」というのが一番の理由だ。

 なるべく、間違った偏見で描かれないように。嘲ったような笑いで包み込まないように。『愛』を持って、イチャイチャしている男同士のキャラを受け持っている。


 また逆に、「こういう系のキャラは自分は知識がないので他の方にお譲りします」というパターンもある。知らない分野でも仕事であれば最低限の知識を得て取り組むわけだが、スタートラインの段階で有利な人がいて手がその人の空いているなら、そちらに任せたほうが良い。

 俺の場合、ミリタリ系や機械系やスポーツ系などの、男の子が好きそうなものに素養がほとんどないもので、そういう知識が前提のキャラは他の方にお願いすることにしている。

 ライターチームには同性が多い。俺よりも男の子の知識に『愛』を持っている男性は、無数にいる。知らない分野に下手に偏見を持って取り組まないようにするには、詳しいほうに任せたほうが何かと安全なのだ。


 こうして見ると、受け取る方も譲る方も、特定の分野について知っていようが知らなかろうが、『愛』をもって接しているんじゃないか。

 多少わかっているからこそ描く『愛』もあり、知らないからこそ避ける『愛』もある。詳しく知っているからこそ酸いも甘いも全て描き出してしまう『愛』もある。

 ところが、『愛』も何もなく無遠慮に、無理解に、偏見に満ちたまま「たぶんこんなものだろう」と作品にしてしまう人間も、世の中にはやはりいるのだった。

 そういうタイプの偏見ギャグが、受け入れられずに炎上してしまうのではないだろうか。そうした作品が今後なるべく、生まれないことを祈るばかりだ。

 そういう作品は、ファンが、つらい。


 「こんな『愛』がないものは取り下げろ」と声高に叫び規制していくのも、同様に感じている。本当に『愛』はなかったのか、それを他者が実情を知らずに判断するのも難しいことなのだ。

 俺は作品にはなるべく『愛』を持って接しているが、他人の『愛』を推し量るのは難しい。自分の『愛』が正しいかどうかもよくわかっていない。あなたのその『愛』は、はたしてあなたが嫌う偏見と似たようなものではないだろうか。

 答えを出すのは難しい。だが、難しい答えを出そうと立ち止まることには、意義があると考える。




《追記》

 このエッセイの以前からの読者の方は「え? オチは??」と面食らったかもしれない。

 俺の手口に毒されている証拠である。真面目な話が続くと「どうせあれでしょ? 最後ふざけるんでしょ?」と構えてしまうのは良くないことですよ。そういう構えを作らせてしまうような前例ばかりの俺が良くないんですよ。

 ということで普通に今回は、思ったことを最初から最後まで書いた。

 こういうケースもある。本心から、憂いているので。そういうこともあるんです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る