第55話 寂しがり屋と一輪の花

 言葉通り、シンはすぐに階下から戻ってきた。右手に持つトレイは夕食と思われる食事、左手には木桶が下げられており、中には温かな湯気が立つ水が張られていた。

 食事の乗ったトレイをテーブルの上に置くと、彼は手持ちの布を木桶の湯に浸し、絞ってソフィアに手渡した。


「僕は席を外すから、ゆっくり支度してね。――ああ、でも、背中拭きにくいなら手伝おうか?」

「……本気で言ってる?」


 眉間に深く皺を刻んでじろりと据わった目で睨むが、シンはまるで苛立つソフィアの方がおかしいといった風に不思議そうに小首を傾げた。


「本気だけど、何か問題ある?」

「……」


(……なんでここまで子ども扱いされなきゃならないの……いえ、で子どもみたいだって思われるのは分かるわよ? でも、あたしはちゃんと成人してる女性レディだって何度言ったと思うの?)


 文句を言いたいが、上手く伝えられる自信が無い。


「……結構よ」


 結局、引き攣る頬で、何とか絞り出せたのはこの一言のみだった。



 シンを半ば強制的に部屋から追い出し、ソフィアは湯で絞ったタオルで身体を丹念に清め、先ほど贈られた薄浅葱色の布地の寝間着に袖を通した。想像よりもそれは遥かに柔らかく肌触りが良い。前身頃に小さなボタンがついてはいるが腰や袖口は絞りは無く、上から下まで全く締め付けが無いシンプルなデザインだ。着心地を最重視しているのだろう。

 そして、一番のポイントとしては――サイズが怖いくらいにピッタリという点だ。シンは一体、どうやってこのサイズを図ったのだろうか、と思わず真剣に頭を抱える。今までに幾人もの女性と浮名を流してきたからこその、なせる業なのだろうか。そんな事をふと思った直後、一瞬だけ脳裏に顔の見えない妖精エルフの女性と仲睦まじく抱き合うシンの姿がよぎり、思わず顔を赤くする。


 おかしな想像をしてしまった己を呪いつつ、ソフィアは苦い顔で思案した。



(何度言っても子ども扱いするって事は、つまり、シンにとってはああいう人達が“大人の女性”であって、あたしみたいなのは大人認定なんて無理って事かしら)


 自分の姿を見下ろしてから、息を吐く。小柄、という一言で片づけられるサイズではない。――子ども、と思われても仕方がないちんちくりんな姿だ。

 既に良い年の大人であるシンは、様々な女性と付き合ってきたという話しだ。そんな大人の女性を何人も相手にしてきた彼の目から見たら、ソフィアなどはやはり、孤児院の子どもと同様に、“庇護しなくてはならない幼い子ども”に他ならないのだろう。



(……まぁ、別に……それはそれで良いんだけど)


 シンがソフィアと共に住むと決めたのは、純粋に心の底からソフィアを心配しての事だというのは、嫌でも分かった。思えば、彼の前では体調を崩したり、泣き出してしまったり、と、我ながら情けない姿ばかりさらしているのだ。彼の様なお人よしが放って置ける訳がないだろう。

 そして、ソフィアにとっても、シンとの同居は“ルームシェア”と考えれば宿代の節約になる為、好都合ではあるのだから、今更大人扱いされない事についてなど、目を瞑ってしまえば済むのだという事は分かっている。



(…………それでもやっぱり、何だかしゃくだわ)


 抱き上げたり、添い寝をしたり、あまつさえ素肌の背中を拭いてあげよう、などとのたまう様な、完全な子ども扱いについては、どうにも腹に据えかねる。

 例え、見た目が10歳児だったとしても、ソフィアは成人した大人の女性なのだ。未婚で、将来を約束しているという訳でもない異性の相手に、簡単に肌を触れさせるような事は、普通に考えて、ない。当たり前だ。



(本気だとしたら失礼だし、――万が一揶揄からかっているとしたら、悪趣味だわ!)


 苛立ちを吐き出す様に大きく息を吐くと、ソフィアは素足のままベッド脇の床に足をついてくるりと身を翻す。寝間着の裾がふわりと広がった。

 軽やかな布地の動きとは対照的に、ソフィアの心は何ともいえない重さを感じた。



「ソフィア、そろそろ大丈夫?」


 部屋の扉の外から、ソフィアの頭痛の種であるテノールが聞こえて、彼女は憂鬱な表情を浮かべながらも応じた。



 その後は、シンが階下から持ってきた食事――シンはたっぷりと、ソフィアは少しでも固形物を、程度に――をとった後、食後のお茶を飲んでいる途中で、ソフィアは面接の疲労からかすぐに眠気に襲われてうとうとし始めた。それを見て、シンは彼女をそっと抱き上げベッドへ運ぶと、優しく横たえてから自身も隣へ横になり、抱きかかえるようにして眠りについたのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 翌日から、ソフィアは早くからティラーダ神殿へ足を運び、蔵書整理の仕事に勤しんだ。因みに神殿への行き帰りは、初日から一貫してシンがかたくなに送ると言って聞かず、何度断っても最後には丸め込まれ、不本意ながら慣例化してしまった。行き帰りは、道すがらシンがアレコレとこちらの世界の地理や植物等、様々な事を教えてくれた為、これはこれでソフィアにとっては有意義な時間であった。

 補足だが、神殿に迎えに来るシンは、いつも神殿には足を踏み入れず、門の出入りする人々が良く見える位置にある、木陰の岩の上に腰を掛けて待つのが通常だった。どうやら神殿が苦手というのは本当の事らしい。



 ティラーダ神殿の仕事を開始して一週間は、ソフィアは明らかに疲労困憊しており、正に限界ギリギリまで働いていた。だが、決して泣き言や愚痴は一言も漏らす事はなかった。代わりに、宿の部屋に戻るとベッドにそのまま倒れるようにして眠ってしまう毎日だった。


 次の一週間は、何とかペースを掴めたのか、やや顔色は平常に近くなるも、今度は神殿から古代語の教材らしき書物を借りて来て、宿に戻ると勉強をし始めた。

 これにはシンもさすがに口出しせずにはいられず、「無理しすぎだよ」と声を掛けたのだが、「お金をもらう限り、きちんと仕事をしたいのよ。ちゃんと加減して勉強してるから問題無いわ。放っておいて」と一蹴した。



 そして今夜も、夜遅くまでソフィアは文机に座り、自主学習をしている。その様子を見つめてシンは小さく唸った。


「うーん」


 彼はこの部屋に寝泊まりするようになってから、毎夜ソフィアを己の両腕に抱き締めて眠っていた。それはシンにとってはこの上ない喜びであり、安らぎでもあった。

 しかし、眠りにつく前――神殿から部屋に戻った後から眠るまでの間は、彼女は常に勉強ばかりだった。


 今も集中して文机に向かう小さな背中に目を向ける。視線に気付く事など無く、ソフィアは静かに書物の文字を指で辿っている。

 シンは音を立てないように彼女の背後から近寄り、横顔をそっと覗き込んだ。驚くほど長い銀の睫毛が白い頬に影を落としており、静かに羊皮紙をめくる彼女の横顔はランタンの灯りに照らされて神秘的な美しさをていしていた。

 しばらくシンはじっと横顔を見つめていたが、彼女はやはり全くその視線に気付かない。少々面白くない気持ちになりながらも、シンは彼女が熱中する書物を覗き込んだ。そして、軽く目をみはった。思っていた以上に難しい文献を教材にしている。これが読めるのであれば、ティラーダ神殿ではかなり重用されている事だろう。


 実際のソフィアは、古代語の基礎は既にキャロルから自然と学んでいた為、神殿で蔵書整理する知識としては十分あった。ただ、彼女は元々勉強することは苦ではなかった。また、仕事とするのであれば学ばなくては、仕事をするにあたって己の知識不足で他人に労力を割かせる訳には行かない、と責任感もある様で、つまるところ、彼女が勉学に勤しむ事になるのは当然の事だった。


 しかし、だとしてもその知識の吸収力は驚くべきものだ。まるで乾いた大地が水をどんどん吸い込むように、驚くべき速さで古代語の知識を習得している様だった。



「ソフィア」


 ずっと横顔を見つめていても、一向にこちらを見ない彼女にしびれを切らし、シンが小さく名を呼ぶ。だが、集中している彼女の耳には届いていない様だ。

 下した彼女の銀糸の髪が、文机の上のランタンの光に照らされて淡い光を帯びている。そんな幻想的な姿は美しいのだが、シンは彼女の澄んだ湖の水の様な瞳の方がもっと好きだった。振り向いてくれない彼女に不満げに小さく口を尖らせ、シンは再び「ソフィア」と名を呼んだ。ようやく彼女は書物から目を上げて、「なに?」と振り返った。ここ二週間で随分とシンと共に過ごす事に慣れたのか、以前より棘の少ない声だった。


「んー……うん……」


 希望通り彼女がこちらに意識を向けてくれたのだが、それに対して生返事をしつつ、シンは若干不貞腐れた表情で彼女の背後から抱き締めるように腕を回すと、そのまま小さな旋毛の上に顎を乗せた。


「ちょっ……なによ! やめなさいよね!」


 唐突に意味不明な行動をするシンに、ソフィアは仰天して目くじらを立てた。しかし、頭上で小さく口を尖らせてしゅんとしている彼に気付き、困惑した様に目尻を下げた。


「……何なの?」


 反応に困ったのか、不貞腐れた声でポツリと尋ねる。取り繕う事をしない為に分かりにくいのだが、こういうところがソフィアは優しい、とシンは思っている。もちろん、本人に言えば頑なに否定するだろうが。


 彼女の水色の瞳が己を認めた事に安堵したのか、シンは少しだけ表情を和らげた。


「んー……ソフィア、最近ずっと勉強ばかりだから」

「当たり前でしょ。自分の勉強不足を言い訳にして仕事をおろそかにしたくないもの」

「それは分かるんだけどね……」



 共に暮らし始めて二週間。元々そうだとは思ってはいたが、ソフィアは本当に真面目だった。人付き合いが得意ではないだろうに、新しい場所で新しい人間関係の中、与えられた仕事に対して真摯に向き合い、努力を惜しまない。精霊の力の流れを見る事が出来るシンからすれば、ソフィアがくたくたに疲れているのは見るからにわかるのだが、それでも彼女は疲れを表面に出さない様に平然として見せ、仕事と勉強にあけくれた。そして何より、仕事に対して決して不満を零さず、「まだ慣れていないからだ」などといった、自身を甘やかすような逃げ口上は決して口にしなかった。

 それは彼女の美徳でもあるが、シンなどはもう少し手を緩めても良いのではないかと思ってしまう。根を詰めすぎると身体にも良くない。――何より、


「僕の事も構ってほしい」

「……はぁ?」


 シンの思わず零れた本音に、ソフィアは間抜けな声を上げて目を丸くした。その反応が不満だったのか、シンは不貞腐れた様に小さく口を尖らせて改めて言い直した。


「僕だってソフィアと話したい」

「あのね……」

「たまにはこっちを見て欲しい」


 ソフィアが呆れ顔でシンを見上げると、緑碧玉の色の双眸が真っ直ぐに見つめていた。その視線の強さに、思わず彼女は身を引こうとして……失敗した。体勢を崩して文机の椅子から転げ落ちそうになる。


「危ない!」


 床にぶつかる前に、軽々とソフィアの身体はシンの腕に引き寄せられ、あっという間に腕の中に納まった。吃驚として固まる彼女に、シンはほんの僅かに微笑んで、抱き締めたまま顔を寄せた。


「やっとこっちを見てくれた」

「そんな、大袈裟な」

「大袈裟じゃないよ。――同じ部屋にいるのに、全然おしゃべり出来なかったから、寂しかったんだよ」


 何となく元気のない声。そして、嘘偽りのないシンの表情を見て、ソフィアはふと、彼自身が語った過去の話を思い出した。



(……、……か)


 ゆっくり家族になろうね、と言ったシンの言葉が脳裏を過る。



 シンが話してくれたのは、両親と共に過ごした、過ぎ去った幸せな日々。部屋の中には家族がいて、彼はきっと、いつも話の花を咲かせていたのだろう。

 それなのに、ソフィアはこの部屋で寝泊まりをし始めてからずっと、宿の部屋には勉強と寝に帰るのみだった。その事に気付いたとたん、何だか悪いことをした気持ちがして、ソフィアは眉を顰めた。

 確かに、同室に人がいる状態で、会話もせずに黙々と勉強をし続けるのは良くなかったかもしれない。今までずっと一人で過ごして来たため、考えが及ばなかった。――少々自己嫌悪に陥りつつも、ソフィアは不貞腐れた様にポツリ「悪かったわよ」と呟いた。それから、困ったように僅かに顔を顰める。


「……でもあたし、気の利いた会話なんか出来ないわ?」


 その言葉を耳にしたシンは「あははっ」と弾けるように笑いながら首を横に振った。


「もう、そんなの関係ないよ。ソフィアがこっちを見てくれて、他愛のない事話してくれればそれだけで。ううん、会話も無理にしなくていいや。僕の事を見てくれるなら」


 言いながら、シンは腕に抱いたままのソフィアの鼻に、己の鼻をそっと摺り寄せ、幸せそうに目を細めた――とたんに、ソフィアは目を剥いて高速で頭を後ろに逸らした。


「んなっ 何を……っ!?」

「え? 鼻と鼻を……」

「そんな事分かってるわよっ あ、あなたねぇ……そうやって、唐突に……~~っはぁぁぁあ」


 言いながら、ソフィアは盛大にため息を吐いて脱力した。



(そういえば、どこかで見た事……ある気がするわ。……親子連れで……母親が、小さい子どもに、鼻をすりすりって…………って、やっぱり子ども扱いじゃない?!)


 片手で頭痛を堪えるように頭を押さえ、眉間に皺を寄せつつ、ソフィアは口を開いた。


「そういうの……」

「ん?」

「孤児院の子ども達にしたら?」

「え、どうして?」

「だって……孤児院の人達や、子ども達も……あなたの家族でしょ?」


 だからあたしにはしないでよ、と内心で付け足しつつ、ソフィアはジロッと軽くシンを睨んだ。すると、彼は何やら思案顔になった。たっぷり20秒ほど考え込んでから、ゆっくりと質問を投げかける。


「さっきのが、家族にする行為だから……って事かな?」

「そうね。……違うの?」

「うーん、違いはしないけど」


 断言せずに、シンは曖昧に笑った。その態度に違和感を持ちつつも、ソフィアは言葉を続けた。


「孤児院は、あなたにとって大切な居場所で……そこの人達は家族同然なんじゃないの?」

「確かに、あの孤児院は、僕がこの町に来てすぐに、殆ど一文無しで仕事が無くて困っていた時に、住み込みで働かせてくれた大切な場所だよ」

「あなたのお財布も風邪をひく時代があったのね」

「そりゃあ、結構放浪してからここに来たからね。あっちヴルズィアで貯めたお金は底をつきかけてたっけ」

「……あたしが言うのもなんだけど、あなたはもう少し考えてから行動した方が良いんじゃない?」


 思わず呆れ顔で苦言を呈すると、シンは「面目ない」とおどけた様に肩を竦めた。それからくるりと目を動かして、過去を思い出すかのように考えながら再び口を開いた。


義兄あには自分の家に寝泊まりして良いって言ってくれたんだけど、さすがに新婚さん宅にお邪魔するのは出来なくてね」

「それは……そうでしょうね」


 この人でも一応空気を読むことが出来るのか、などと若干失礼な事を考えつつ、ソフィアは真顔で頷いた。


「それで、春告鳥フォルタナの翼亭に来たんだけど、その時に酒場で孤児院の院長と会って……お誘いしてもらって、今に至るんだ」


 言いながら、シンは淡く微笑んだ。その表情を見て、ソフィアはシンにとっての孤児院が、どんなに大切な場所なのかという事がよく分かった。


「シンにとって、孤児院は……今のあなたの、実家みたいなものなのね」


 自然と零れたソフィアの言葉に、シンは一瞬だけきょとんと眼を丸くしてからふわりと破顔した。


「うん、そうだね……そうかも。――でも実はね、孤児院に僕なんかが関わっていて、本当に良いのかなぁっていうのは、最初から……今でもずっと思ってるんだよ」

「?」


 意外な言葉に、ソフィアはシンの顔を彼の腕の中から見上げた。


「ほら、僕、両親が亡くなってから、ずっと一人で生きてきたし……結構荒れてたからねぇ」


 僅かに苦笑しながら、シンは彼女の視線に応えた。そういえば、彼が語ってくれた過去の話しではその様な事を言っていた。ソフィアが黙っていると、シンはそのまま言葉を続けた。


「昨日話した通り、両親がいなくなって、師匠も、義兄も、みんな僕の傍からいなくなって、1人になったら、なんかね……みんなに置いて行かれてしまった気持ちになっちゃって。結局、半妖精ハーフエルフって事で町の人達からは煙たがられて、それで何とか居場所を探して冒険者になってはみたけど、……今度は強くなった事で、怖がられちゃって。――あ、がらが悪かったからね。これは自業自得なんだけど」


 からからと笑いながらシンは肩を竦めつつ、腕にかかえたままだったソフィアをきなおした。その離そうとしない両腕が、彼の心を表しているかの様で、ソフィアは反応に困って眉間に皺を寄せた。


「駄々をこねる子どもみたいな理由でいきがってきた僕が、親を亡くして愛情を求めている小さな子ども達に接して、ちゃんと力になれるのかなぁって、よく自問自答するんだ」


 一度言葉を切り、シンはソフィアの顔色を窺うようにじっと見つめた。だが、どう答えて良いものか分からず、ソフィアはますます眉間の皺を深くしながら視線を彷徨わせた。彼女の様子に気付き、シンは苦笑した。


「ごめんね、困らせちゃって」

「え、……いや、困ってる、訳じゃ……」


 言いさして、ソフィアは黙り込み、睫毛を伏せた。


「ソフィア……」


 ごめんね、と再度謝ろうとしたシンの言葉を、彼女の言葉が遮った。


「だから、違うってば」


 思わずジロリと睨むと、シンはしおしおと小さくなって口をつぐんだ。どうやら怒っていると誤解している様子の彼を見て、ソフィアはまとまり切れていない考えを渋々口から吐き出した。


「その……あたし、そういうの、って分からないから、……何とも言えないんだけど」

「うん?」


 ソフィアの言葉が予想外のものだったのか、シンはきょとんと小首を傾げる。


「ええと……だから。――両親が……いなくて、とか、周りから人が去ってって……とか。――あたしは両方、最初からいないようなものだったから」


 出来るだけ淡々と、分かりやすく伝わる様に心がけながら、言葉を選んで話すソフィアに、シンは僅かに眉を下げてじっと見つめた。


「だから、一人でも……あたしの周りに誰もいなくても、それはあたしにとっては普通の事だから、よく分からないんだけど……」

「ソフィア……」

「でも、あなたは、ご両親にちゃんと愛されて、義理のお兄さん? もいて……、温かさを知っているから、いなくなった“寒さ”? みたいなものを感じたんだろうな、って」


 考え込みながら、まるで独白の様に紡ぐ彼女の言葉に、シンは息を呑んだ。


 黙り込むシンに対し、余計な事を言っているのではないかと自己嫌悪に陥り始めたソフィアは、柳眉を寄せて居心地が悪そうに身動みじろぎをした。


「ただ、ええと、だから。……なんて言ったらいいのかしら。え……と、シンは…………荒れてた、っていうか、そうじゃなくて……」


 ソフィアの脳裏に、先ほどのシンの言葉がふと蘇る。



 ――“同じ部屋にいるのに、全然おしゃべり出来なかったから、寂しかったんだよ”



んじゃないの?」

「――!!」


 ハッとした様に、シンの碧色の瞳が大きく開かれた。


「だから、その……そういう、気持ちが分かる人が、孤児院にいるのは……良い事だと思う。あたしは。――だって、少しは寄り添えるでしょ」


 言いながら、気まずそうにソフィアは水色の瞳をシンに向けた。対するシンは、胸を打たれたように言葉が上手く出て来ず、その瞳をじっと見つめ返した。


「……そうだ、」

「?」

「……今にして思うと、あの頃、僕はずっと寂しかったんだ……」


 静かな声音で訥々と語るシンの言葉に、ソフィアは黙ったまま耳を傾けた。


「本当はずっと、誰かに――ただ、無条件に受け入れて欲しかった」


 小さな、思ったよりも弱々しい声でシンが呟いた。そんな彼が、何だか頼りない子どもの様に感じて、ソフィアは表情を僅かに緩めた。


「そういう人が、孤児院にいてくれたら、子ども達は幸せなんじゃない?」

「そうかな……」

「あたしはそういうの、分からないもの。だから向いてないって自分でも分かるの」

「そんな事無いと思うよ」


 少なくともたった今、シンの心の古傷を手当してくれたのはソフィアだ。だが、そうとは全く思っていない彼女は、シンの言葉を社交辞令ととらえたのか、小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「とにかく。――だから、あなたは孤児院のスタッフには向いてると思うわ。少なくとも、妖魔モンスター退治で鈍器を片手に暴れまわるあなたよりも、ずっと」

「あはは、暴れまわるって」

「前、ネアと東の村に行った時とか」

「ふふっ そっか……僕、冒険者よりも孤児院のスタッフに向いてるかぁ」

「べ、別に冒険者に向いてないとは言ってない!」


 慌ててソフィアは首を横に振った。そもそもソフィアと違い、シンは既に熟練ベテラン冒険者だ。向き不向きの話しではない。


「でも、だとしたら嬉しいな。ありがとう」

「え?」

「僕、冒険者の仕事は、そんなに好きって訳じゃないから……妖魔モンスターと戦うのも、本当は怖いし」

「えぇー……」


 それはさすがに信じられない、といった表情で、ソフィアはシンを見上げた。だが、シンは優しい眼差しを返し、ランタンの灯りで煌めく彼女の銀の長い髪を指で梳いた。


妖魔モンスターは怖いよ……逃げ出したくなる時もある」

「じゃあなぜ冒険者をしてるのよ」


 ――しかも、熟練ベテランになるまで長い間。


「始めたのはヴルズィアで生きる為っていうのが一番の理由かな。後は、テイルラットという世界の存在を知って、そこに転移する為にはある程度、熟練ベテランにならないと権利が得られないっていうのが大きいね」

「でも、だからって……怖いなら、こっちテイルラットに来たなら辞めても良かったんじゃ」

「うーん……でもさ、もう戦う力を身に着けた訳だし……」

「?」

「大切な人が危険な目に遭う方が嫌だ」


 ソフィアの脳裏に、顔はもう思い出せないが、シンと親密な妖精エルフの女性が浮かび、「ああ」と納得する。


「怖いのは嫌だけど……大切な人を守る為なら平気。我慢して戦う」

「そう。……なら、大切な人は傍におかないと駄目よ」

「うん」


 力強く頷くシンに、ソフィアは本当に大丈夫だろうか、とやや不安を覚えた。自分と一緒の部屋に寝泊まりしている場合じゃあないと思わないのだろうか。“彼女”が知ったらどう思うのだろうか。シンは鈍感で無頓着の為、自分が色々な弁明を用意しておかなくてならないかもしれない。本気で頭痛がしてきた。

 対するシンは心底嬉しそうに、柔らかく微笑んだ。


 何となく居たたまれない気持ちになり身動みじろぎをしようとしてから、ソフィアは己の体制にようやく気付いた。ずっとシンの腕の中で抱きかかえられていたのだ。



(うそっ いつから?!)


 慌ててじたばたと床に降りようとするも、シンはそれを許さずに抱き締める腕に力を込めた。


「寂しかったから、今日はもうずっとこうしてくっついてる」

「はぁー!?」


 仰天するソフィアに、シンは悪戯っ子の様に歯を見せて笑うと、彼女の頭に頬を摺り寄せた。


「シン!!」


 憤慨して語気を強めると、彼は悪びれもせず笑いながらソフィアを床に降ろした。


「残念。――でも、寂しかったのは本当だよ?」

「嘘をついてるとは思ってない」


 素足の裏に冷たい床の感触があり、ソフィアはほんの少し冷静になれた。小さく息を吐きだしつつ、薄浅葱色の布地の寝間着の皺を手で伸ばしながら言葉を続けた。


「まぁ……温かさをたくさん知ってる人の方が、より寂しさを感じるのかもしれないわね」

「え?」

「持ってないものは失いようが無いけど、あったものを失うと気付くじゃない」

「?」


 ソフィアの言わんとすることがいまいち分からないのか、シンは不思議そうな顔で彼女を見た。



「そう考えると、あなたって随分と寂しがりになるかもしれないわね」



 言いながら――まるで静かな深い森の奥の湖畔でひっそりと咲く一輪の花のように、


 彼女は淡く微笑んだ。


 元々が幼気いたいけで可憐な容姿なのだが、その笑みたるや、ほんの僅かなものであっても一度目にしたら忘れられなくなる程に愛らしく、美しく、儚く――庇護欲と、それ以上に訳の分からない違う欲望が掻き立てられるものだった。初めて目の当たりにしたシンは、完全に言葉を失った。

 だが、恐らくソフィア自身も初めての事だった――そして、自分自身がたった今、微笑んだ事すら気付いていない。


 時間にして数秒、すぐに表情を改めると、ソフィアは「もう寝るわ」とそっけなく口にし、くるりと踵を返してベッドの方へ行ってしまった。



 残されたシンは、しばし呆然とソフィアを見送った後、――動揺を隠すように、ゆっくりと片手で己の口を覆った。目の奥に焼き付いた、彼女の僅かな――ほんの僅かな微笑み。不意に顔が熱くなる。そして、愛おしさと喜びが腹の底から徐々に、どんどん、とめどなく溢れだす。



「ソフィア!」

「シン、夜だからもう少し声を落として」


 ベッドにもぐりこんで布団を肩口まで引っ張り上げつつ、ソフィアは冷静に突っ込んだ。だが、シンは全く意に介さずに口を開いた。


「やっぱり結婚し」

「おやすみなさい」


 かぶせる気味にキッパリと言うと、ソフィアはシンに背中を見せながら布団を被って目を閉じた。

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