第22話 大切な忘れ物
朝日が昇って数時間後のエルテナ神殿を訪れたソフィアは、門柱の外で影に隠れるように立っていた。
まだ朝の祈りが終わったばかりなのか、神殿の中からは人々のざわめきが聞こえてくる。この中に入るのは
しばらくすると、門の中からは祈りを終えた信者たちが挨拶を交わしながらゆっくりと外へ出て来た。その列が途切れたのを見計らって、そっと門をくぐると、柔らかな声で名を呼ばれた。
「ソフィアさん!」
顔を向けると、アトリが駆け寄ってきたところだった。戸惑いながらも小さく会釈すると、彼女は嬉しそうに相好を崩した。
「お元気そうで良かったです……!
「え? あ、ええ……基礎はとりあえず」
「それは良かったです。あ、立ち話もなんですから、中へどうぞ!」
有無を言わせぬ勢いでアトリに
エルテナ神殿は質素で堅固な
港町クナートの南区に位置し、
アトリに案内され向かった先は、彼女の私室だった。とはいえ、神殿内に住み込みをしている彼女の部屋は、今のソフィアが寝泊りする宿の部屋と大差のない広さだった。ベッド1つ、袖机付きの文机が1つで床面積の8割方が占領されている。
「手狭でごめんなさい。どうぞ」
嬉しそうにニコニコと微笑みながら、アトリは文机の椅子を引いてソフィアを招き入れた。部屋にまで上がるつもりがなかった為、どう反応したらいいか分からず固まるソフィアにお構い無しに、アトリは鼻歌を歌いながらティーカップの準備を始めている。慌てて遠慮しようとソフィアは片手を上げて口を開いた。
「あ、あの……」
「ちょっと待っててくださいね! お湯を頂いてきます!」
「え、いや、あの……」
「すぐに戻りますからね!」
「ちょ……」
るんるん、と声が聞こえてきそうな弾む足取りで去っていくアトリに、ソフィアは二の句を告げずに上げていた片手を下ろす。そのまま大人しく椅子に座る。
沸いたお湯がすぐにあればともかく、今から沸かすとなると少し時間が掛かるのかもしれない。所在無さ気に身じろぎし、ソフィアは視線を動かした。
アトリの部屋は床は板張り、壁と天井は神殿内と同じく石造りだった。小さなベッドは年季が入った木で出来ており、敷き布や掛け布も繕った跡がいくつも見える。文机の上には羽ペンとインク、羊皮紙の束、それと数冊の紐で綴じた本が置かれている。その正面の石造りの壁には乾燥させた植物(花?)らしきものが紐で束にして吊るしてあった。そこからは
「お待たせしました!」
湯を入れたポットを手に、アトリが笑顔で顔を出した。どうやら沸かした湯がすぐに手に入ったらしい。彼女はそのまま文机に向かうとカップにお湯を注ぎ、残ったポットのお湯に茶葉を投入した。
「あんまり上手に淹れられませんけど、許してくださいね」
照れ笑いしながらアトリはポットにフタをし、ソフィアと向かい合う様にベッドの端に腰を降ろした。
「改めて、お帰りなさい、ソフィアさん。以前より顔色が良い様で安心しました」
目を細めて心底嬉しそうに笑みを浮かべる。何だか居た堪れなくなり、ソフィアは「別に……」と意味の無い言葉をぼそぼそと言いながら視線を彷徨わせた。その様子を見て、アトリは柔らかく微笑む。
「来て下さって嬉しいです。そろそろ聖夜祭のお仕事のお話しもしたいと思っていたんです」
「あ……」
「はい?」
「……その、聖夜……祭、の手伝いの件で、――詳細を知りたくて」
「はい」
笑顔のまま頷き、アトリは席を立ち、ティーカップを温めていたお湯を水桶に入れ、代わりにポットの中の紅茶を注ぐ。とたんに室内にふわり、と爽やかなお茶の香りが広がった。
文机の上にカップを並べ、「どうぞ」とソフィアへ声を掛けてからアトリはベッドに再度腰を降ろした。
「えと、以前も少し説明させて頂きましたが、エルテナ神殿では年末にその一年の最後の祈りの集いがあります。一般的に聖夜祭と呼ばれています。今年の聖夜祭はあと10日後に開催されます。聖夜祭の内容ですが……そうですね、大まかに申し上げると、今年一年の平穏を感謝し、迎える新たな年の豊穣を祈る、といった感じでしょうか。収穫祭と同様に、宗教、階級、種族問わず門戸を開きます。家族や恋人など、大事な人々と共に訪れる方が多いですが、炊き出しに訪れる方はそれ以上に多いです」
お茶のカップを手に取りながら、アトリはソフィアにも分かりやすいよう、言葉を選びながら説明した。
「それで、ソフィアさんにお願いしたいお仕事の内容ですが。まず、当日にいらした方々に振舞う食べ物の材料の仕入れをお願いします。炊き出し用の材料はある程度は事前に手配してありますし、神殿の畑で収穫された保存の利くもの……これはお芋やお豆ですね。それもあります。ただ、小さなお子さんが喜びそうなもの……果物や甘いものはまだ用意できていません。こちらの仕入先の候補を探して欲しいのです。町の方々や露店商の方は慣れてらっしゃると思いますので、“エルテナ神殿の聖夜祭の仕入れ”と伝えて頂ければ、後はお店の方が見積もりを持って神殿にいらっしゃると思います」
一度言葉を切り、アトリは説明が足りているか確認するためにソフィアを見た。意図を察し、ソフィアが小さく頷いて見せると、安心したように目元を緩ませ、彼女は再び口を開いた。
「あとは、前日。神殿の飾り付けのお手伝いをお願いします。木々や壁に、四大神のそれぞれのシンボルを飾るのが恒例となっています」
四大神とは、至高神アウラス、戦神ケルノス、智慧神ティラーダ、豊穣神エルテナを指す。
「あと、ヤドリギですね!」
両手を握り締め、意気揚々と語るアトリを見て、ソフィアは理由が分からず小首を傾げる。
「? ヤドリギ……って、あの?」
「はい。森や林の木によくある、あれです」
「?? なぜ??」
「エルテナ様は結婚も司る女神様だからです!」
どやぁあ!! と得意げなアトリの答えに、ますます意味が分からずソフィアは眉を
「…………いや、意味が分からない」
「ふふ、ヤドリギはですね、別名“愛の木”とも呼ばれていまして。恋人同士がヤドリギの下でキスをすると結婚を祝福されるという言い伝えがあるんです」
「はぁ……」
木が祝福? と、突拍子もない言い伝えとやらに、思わずソフィアは間の抜けた相槌を打った。が、アトリを見ると心底信じている様子の為、のど元から出掛かった突っ込みの言葉を飲み込んだ。
「そうそう、それと、出店用のポマンダーも時間があったらお手伝いお願いします」
「? ポマンダー?」
「柑橘系の果物に香草や香辛料をまぶした香り玉です。疫病予防や魔除けのお守りとして神殿で毎年販売しているんです。作り方は簡単なので、是非覚えて作ってみてくださいね」
「……いや、売り物なんでしょ。作り方を覚えられたら、まずいんじゃないの?」
「ふふ、神殿なので、利益を目的に販売しているわけではありませんから大丈夫ですよ。今回の収益は炊き出しの資金に充てられますし。それに、ご自宅で作られている方もいらっしゃるものなので、ご安心下さい。ね? せっかくなので、是非」
アトリの言葉に、ソフィアはやや躊躇してから小さく頷いてみせた。それを見て、彼女は心底嬉しそうに笑顔を見せたのだった。
聖夜祭の仕事については、これから羊皮紙で仕事内容や報酬の要綱を作るという事だった為、明日改めて神殿に取りに来る事にした。丁重に2杯目のお茶を辞退し、ソフィアはエルテナ神殿を後にした。
* * * * * * * * * * * * * * *
エルテナ神殿を出たソフィアは、大通りの隅を俯いて歩いていた。まだ正午の鐘が鳴るには時間がある。このまま宿に帰ってもやる事は何もない。かといって明日からは神殿の仕事がある為、仕事探しをする訳にも行かない。
(何か……ああ、そうだ。報酬を貰ったら、アトリや……あと、アレク、にも、何かお礼をしようかしら。今後いつお金に余裕が出るか分からないし、受けた恩はなるべく早く返した方がいいものね)
思案しながら歩いていると、歩調が自然とゆっくりとなった。
(何が良いのかしら。やっぱり、菓子折り……?)
そのまま、大通りの角に差し掛かる。ぼんやりとしたまま歩を進めると、目の前がふっと暗くなった。
「!?」
あ、と思う前に顔面に柔らかな衝撃を受けた。そのまま跳ね返るように身体が後ろによろめく。
「危ない!」
慌てたような声が上がり、次いでソフィアの腕を誰かが掴んで引き寄せた。されるがままの勢いで今度は前のめりになる。一瞬、倒れる己の姿が脳裏を過ぎったが、そのような事は無く、彼女の全身は何かに包み込まれる様に受け止められた。
目の前に広がる深緑色。
一瞬、何があったか分からず、呆然と目を
「は、離し……っ」
「ソフィア!」
狼狽してやや震えた声を上げようとする彼女の名を、柔らかなテノールが
「……ソフィア」
再び名を呼ばれ、ソフィアはぎこちなく目を上げた。そこには少し癖のあるこげ茶色の髪をした中性的な顔立ちの
(…………あ、れ……?)
胸の内側がギシリと痛んだ気がして、ソフィアは思わず後ずさろうと身を引く。だが彼はそれを許さなかった。
「ソフィア」
まるでそこにいるのを確かめるかのように、彼女の名を繰り返しながら、
「や、やめて。離して」
思い切り両腕を突っ張ると、躊躇いがちに彼は腕を解いた。
「あ、……ごめん。ソフィアを捜してて……会えて、何だか安心しちゃって」
困った様な、申し訳無さそうな表情で彼ははにかんだ。その姿に何故か苛立ちを覚え、ソフィアは目を逸らしながら固い声を上げた。
「あなたに捜される意味が分からない。だって、あなたとは顔見知りでも何でも」
ない、と言切る直前に、突然襲ってきた違和感に思わず言葉を切る。
――大切なことを忘れている気がする。
全身からすぅっと血の気が引いて行く気がして、ソフィアはよろめいた。狼狽を隠そうと口元に手を充てながら言葉を探して視線を彷徨わせる。その様子に、
どのくらいの時間が経ったのか。現実としてはそんなに経っていないのかもしれないが、ソフィアにとっては長く感じられた間の後、目の前の
「ソフィア」
ゆっくりと彼が言葉を放つ。
「僕はシン」
その音は、まるでソフィアの心のひび割れにしみこむ様に優しく響いた。
「シンだよ」
「シン……?」
シン、とポツリと反芻すると、記憶の灰色だった部分が唐突に色づいた。
「あ……え?」
なぜ忘れていたのか。一気に顔が青ざめる。慌てて謝罪の言葉を口にしようとするが、声が震えてしまい、更に動揺した。
「ご、ごめ、んなさ……」
「ソフィア」
言い終えない内に、囁くようなシンの声が遮った。優しい声音だったが、それでも己のしでかした失態に、恐ろしくて顔を上げる事ができない。そもそも、何が起こったのかが分からない。彼には過分に恩を受けているのに、それをすっぽりと忘れるなど、自分はそんなに恩知らずだったのか。ソフィアの心の内側は
無自覚に小さく震えるソフィアの肩を、不意に大きな手がそっと撫でた。そして、押し殺したような小さな声が頭上から降って来た。
「ごめんね……」
「え」
謝られる理由が分からず、思わずソフィアはシンの顔を見上げた。そして、彼の浮かべる表情に驚いて目を
彼は、泣き出しそうな、苦しそうな、見ているこちらが辛くなる様な表情を浮かべていた。
「どうしてシンが謝るの」
悪いのは恩知らずな自分だ。それなのに、自身を責めるような彼に気付いて、慌ててソフィアは声を上げた。が、思った以上に固い声になってしまい、それっきり言葉を失う。責めるつもりなどない。責めないで欲しい。なぜそれが上手く言えないのか。もどかしい思いに唇を噛んで俯く。
そんなソフィアの気持ちを察したのか、それとも違う理由かは分からないが、シンはふと眉を下げた。
「分からない。――けど、きっと僕、ソフィアを傷つけた」
だからごめん、と言いながらシンはソフィアが噛んでいる唇を指で優しくなぞる。言われた言葉の内容よりも、思い掛けない彼の行動に、呆然とソフィアはシンを見上げた。シンの指でなぞられた唇は、赤くなったてはいたが血が滲む前に彼女自身の歯から開放され、ぽかんと小さく
その表情に、シンは
しばらく呆然と頭を撫でられていたソフィアは、ハッとして彼の手から飛びのいた。
「や、やめてよね! そういうの! 子ども扱いしないでよね! あなたのところの孤児院の子どもじゃないって何度言ったら分かるの?!」
反射的に目を吊り上げて
「あはは!」
「あはは、じゃない!」
「ふふ……ごめん、子ども扱いしてるつもりじゃなくて、ただ何となく?」
「何となくでそういう事しないでよ! 何なのやっぱり女たらしなの?」
「あはは」
「ちょっと!」
抗議するソフィアをよそに、シンはしばらく楽しそうに、そして何故かそれ以上に嬉しそうに笑い続けた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「そういえば、ソフィアはお昼食べた?」
何故かついて来るシンが、にこにこと笑顔で尋ねてきた。苦虫を噛み潰した様な顔でソフィアはチラリとシンを見、「食べてないけど、それが何?」と不機嫌そうに答える。
「じゃあ、せっかくだし一緒に食べない? 会ってなかった間の事も聞きたいし」
「いや、なにが“せっかく”なのか分からないし、あなたには関係ないし」
「もっと話したいし、知りたいんだもん」
「“もん”って……」
呆れたように呟き、思わず眉間の皺が緩む。シンはクスクスと笑いながら彼女の眉間の皺を更に伸ばすようにそっと親指で撫でた。
「――――!?」
思いがけぬ彼の行動に、反射的に身体が強張る。何故か顔から耳から、頭全体が熱い。
「んなっ なっ ばっ っ そっ」
はくはくと口を動かすが、思う様に言葉が出てこず無意味な音が漏れた。
「っ用が! あるから! 行かない!!」
ようやく言葉を搾り出し、ぷいっと顔を背けて後ずさる。無意識に顔に手をやると、思っていた以上に頬が熱かった。体調はそんなに悪いという自覚は無い。むしろ良いはずなのだが、また熱が出たのだろうか、と僅かに柳眉を
直後、ソフィアの様子に気付いているのかいないのか、満面に嬉しそうな笑顔を湛えたシンが、「用? じゃあ、僕も付き合うよ」などと予想外の事を言い出した為、ソフィアの意識はそちらに逸れた。
「あなたはご飯食べるんでしょ?」
「持ち歩けるものを買って食べながらついてく」
「それは行儀が悪いと思う」
「じゃあ一緒に食べようよ。そして、食べ終わったら用事を済ませよう? 急ぎじゃなければ」
「急ぎだったら……」
「先に用事を済ませて、その後で一緒に食べる」
「変わらないじゃない! 順序が反対になっただけで!」
「うん」
にこにことシンは笑みを崩さない。だが、上辺だけという訳ではなく、心の底から嬉しさがにじみ出ているような笑顔だった為、ソフィアは困惑したまま閉口し、逡巡した後にゆっくりと再度口を開いた。
「……あたし、お腹減ってないから」
「そっか。でも、食べてないんだよね?」
責めるような口調ではなく、あくまでも穏やかな声でシンは言いながらソフィアの顔を覗き込む。気まずそうに彼女は小さく頷いた。
「じゃあ、ちょっとでも良いから食べよう。残ったら僕が食べるから」
ね、と柔らかく微笑みながら、シンの手がソフィアの頭を再び撫でようと伸びてきた。だが、そう何度も同じ手は食うものか、とばかりに顔を顰めて後ずさり、その手を避けた。
シンの頭撫で撫で攻撃(?)は無事にかわす事が出来たが、このままでは埒が明かない。むすっとした顔のままソフィアは腹を括った。
「分かったわよ」
不貞腐れ顔でぶっきらぼうに言ったにも関わらず、シンは非常に嬉しそうに相好を崩した。
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