第21話 水面下

 ――シンはどうしようもない焦燥に駆られていた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 彼女が突然姿を消した事に気付いたのは、恐らく2週間ほど前だったと思われる。


 最後に会った日。西区の大橋の下で小さな身体で膝を抱える彼女を見付けた。呼びかけてもかたくなにこちらを向こうとしない彼女にそっと触れると、その肩はひどく冷えていて、驚くほど細く華奢だった。



 同郷で、同じ種族の彼女と、この異世界テイルラットで出会えたのは奇跡にも等しい。自分の方がはるかに年上で、冒険者としても熟練ベテランだった。

 だから、もっと自分を頼ってくれてもいい、友人としてではなく家族として、父としてでも兄としてでも構わない、と何度も彼女に伝えているが、彼女は首を縦に振ることはなく、常に一線を引いてシンと対峙していた。



 ――――シン、あなたには守るべき人達がちゃんといる。

 孤児院の子ども達や、あなたの大切な人を、まず第一に考えるべきだわ。



 透き通った冬の湖の水面のように澄んだ淡い水色の瞳がシンを映す。ああ綺麗だな、と純粋に思った。妖精エルフの様に繊細で美しい顔立ちが――ではなく、彼女の二心ふたごころのない言葉と、その無垢な瞳が、けがれのない宝石の様にシンの目には映ったのだ。



 彼女は幼い面差しだが子どもではない。むしろ、彼女の言葉で己の未熟さや思い至らなさを知らされる事の方が多かった。

 もちろん、決して愛想がいいとは言えない。だが、人当たりが良さそうな言葉を上辺だけで並べたてる己とは異なり、彼女は常に真摯で、謙虚で、言葉を慎重に選んで口にしていた。思えば、ずっと。

 その事に気付いたのは、出会ってしばらく経ってからだった。



 出会って間もない頃、シンが孤児院の仕事を提案した際には、“もし自分が悪い考えを持っていたらどうするのか”“もしそうなったら、孤児院は大変な事になるし、連れて来たあなたの責任だって問われる”と綺麗な顔を不機嫌そうにしかめて彼女は苦言を呈した。

 エルテナ神殿の収穫祭準備期間、畑仕事をしている彼女に外套を(半ば無理矢理)貸したが、返って来た時は綺麗に畳まれ、――使った形跡は見当たらなかった。

 そして、収穫祭の当日。熱を出した彼女を見舞った際には、“なぜ来たのか”とひどくなじられた。病気の自分を見舞う事で、孤児院の子どもたちを危険に晒すつもりなのか――孤児院の人員スタッフである自覚はないのか、と。

 ――彼女が言葉を強くするのは、少なくとも自分が知る限り、彼女自身“ではない事”に対してだと、気付いたのはその時だった。その衝撃は強く、そしてえも言われぬ感動をシンに与えた。



 そもそも、この世界テイルラットへは、正規ルートである狭間の町クレンツァのゲートを通ったのではなく、ヴルズィアにある“奈落の滝”からきた”のだと彼女は言った。“奈落の滝”を――あの滝は、興味本位で飛び込める高さではない。落差が1,000メートル近いのだ。通常、高さを見ただけで足が竦むはずだ。だが、彼女はそこへ落ちたのだという。無事で済んだのは奇跡ともいえる幸運だったのだろうが、それでも、故意か事故かは分からないが、少なくとも“彼女があの滝を落ちた”という事実だけで、シンのはらわたは煮えくり返った。


 しかし、そのような目に遭ってこの世界来た彼女は、他の人々を害そうとする考えなど無く、己の不幸を嘆くでもなく、そして自らを憐れむ事も無く、淡々と……そう、驚くほど平らかにあった。



 ――――彼女を守りたい、という思いは、出会って以降、日に日に強くなっていった。


 時間の都合が着く限り、いや、着かなくても何とか出来る範囲であれば多少の無理をしてでも。彼女は、人の言葉の裏を読む様な駆け引きは出来ないが、結構鋭いところがある為、細心の注意を払いながら慎重に。さも偶然を装って。

 長年培った、人に警戒心をいだかせにくい微笑を浮かべ、親切さを前面に押し出し、下心をは微塵も見せずに。



 そしてあの日。



 冷え切った彼女の小さな肩に触れた時。――彼女は身を竦ませなかった。驚きと喜びで、思わず手に力が入ってしまった。声が震えてしまわないよう、必死で平静を装って声を掛けた。



 75歳が聞いて呆れる。



* * * * * * * * * * * * * * *



 彼女が宿から……否、この町から姿を消した事を知った日――つまり、今から2週間ほど前。夜、孤児院に戻ったシンは、院長の部屋を訪ねて開口一番に謝罪した。


「ごめん、明日の朝からしばらく留守にするよ」


 港町クナートの南区にあるこの孤児院の院長はエルシオン・デュクスという40代の男性だった。今では柔和な顔立ちで目元や口元に笑い皺が薄っすらと見える穏やかそうな人物だが、元々は世界中を飛び回っていた元冒険者だ。だからこそ、シンの突然の申し出にも驚くことなく鷹揚おうように頷いて笑った。


「おう、分かったぜ! にしても、急だな。依頼か?」

「ううん……でも、大切な事なんだ」

「なるほどな。なら、遠慮はいらん! 気を付けて行って来い!」


 深く追求せずに快諾してくれた院長に感謝し、シンは身支度を整えるべく自室へ向かった。――だが、その途中、


「どちらかに、出掛けられ……るんですか?」


 薄いピンク色のふわふわとした裾の寝巻きに、温かそうな厚手のショールを羽織った女性がシンに声を掛けた。子ども部屋の一室から出てきた彼女は、長い栗色の髪をゆるく編んで横に流している。


「あ、ミアちゃん。ごめんね、起こしちゃったかな」

「いえ……子ども達を寝かしつけていたので」

「そっか、ご苦労様。そうそう、明日は朝から出掛けるつもり」

「……冒険者のお仕事……ですか?」

「え? ああ、違うよ。完全な僕の私用」


 肩をすくめながらはにかむと、彼女は「私用……」と呟き、黒い瞳を曇らせて俯いた。何故彼女がそのような反応をしたのか分からず、訝しげにシンが声を掛けようとした時、彼女の背後から淡い金の長髪の妖精エルフの女性が顔を覗かせた。


「なんじゃ、シン。私用で孤児院の仕事をおろそかにする気か?」

「あれ? シェラ、来てたんだ。こんばんは」

「うむ、こんばんは。……じゃない! 全く、妙なところでマイペースよの!」

「あはは」

「で? 私用とはなんじゃ?」

「えー、言わないと駄目なの?」

「当然じゃ!」


 ふん、と鼻息荒くシェラが断言する。隠す事でもないと判断し、シンは口を開いた。


「ソフィアが……あ、ミアちゃんは会った事なかったかな。僕の同郷の子なんだけどね。彼女の行方が今分からないんだ。泊まってる宿の主人と、エルテナ神殿には手紙が届いてるそうなんだけど、やっぱり、直に確認しないと安全かどうか分からないから。ひとまず、彼女が今いるという場所に行ってみようと思って」

「はぁー? なんじゃそれは……おぬしが行く意味はあるのか?」

「意味っていうか……僕が行きたいだけだよ」


 呆れ顔のシェラの言葉に、にっこりと微笑んでシンは返す。そのやり取りを見ていたミアは、小さな声でポツリと「そう、なんですか」と呟いた。その声に気付かぬまま、シンは続ける。


「そのまま、許可がもらえるなら僕も一緒に寝泊りしようかなって……」

「……あっ……」

「え」


 言葉の途中で、ミアが小さな声を上げた。思わず声を切って彼女を見ると、ふらりとシンの方へよろける。


「!? 大丈夫? ミアちゃん」

「あ……ご、ごめんなさい。何だか急にめまいが……して」


 言いながら、彼女は小さく身を震わせた。


「あれ? やだ……なんだろう、寒い…………コホッ ケホケホッ」

「いかんな、子ども達の風邪をもらったのではないか? ミアはずっと風邪の子ども達の世話をしていたからのぅ」

「シェラさん……」


 柳眉をひそめてシェラが言うと、シンの胸に手をついたまま弱々しくミアが振り返って眉を下げた。


「今は熱が無いみたいだけど、寒気がするなら今夜にでも熱が上がるかもしれないね」


 寄り掛かっているミアの両肩に手を置き、シンはそっと彼女の身を起こした。


「歩けるかい? 難しそうなら、背負うけど」

「あっ ううん、大丈夫! ごめんなさい、シンさん。心配かける様な事……っうぅ」


 再び彼女がよろけてシンの方へ倒れ込む。「うーん、歩くのは難しそうだね」とシンは微苦笑し、そのまま彼女の腕を自分の腕につかまるよううながした。


「背負わなくても大丈夫かもしれないけど、万が一があるといけないから、僕に掴まってて? あと、もし熱が上がるようなら、僕の魔法で何とかするから安心してね」

「そ、そんな……シンさんの手を煩わせるような事、私……」

「全然気にしないで良いよ! 困った時はお互い様だし、ね?」


 安心させるように微笑んでミアの顔を覗き込むと、彼女はぽっと頬を赤らめてはにかんで頷いた。その2人の様子を、シェラは後ろから眺めて満足そうに何度も頷いていた。



 翌朝。



 シンが支度を整えて挨拶するために孤児院の子ども達や人員スタッフの部屋を回り、ミアの部屋へ訪れた際。


「コホコホッ あ、シン……さん、ケホンッ ごめんなさい、咳がひどくて……ケホッ あの、行ってらっしゃい……私、平気です。ケホッ お仕事頑張りますから、気にせず行ってきて下さい……ッコンコン!」


 あまり大っぴらに公言していないが、シンは先祖返りながら妖精エルフの血脈を持つ為、精霊の流れを見る力を持っている。相手の身体の精霊力を見れば熱の有無、体調不良の程度など、大まかには把握できる。

 だから、彼女に“熱は無い”事、“大きな病らしき異常も無い”事はすぐに分かった。だが、ミアは止まらない咳に切なそうに眉を下げ、頼り無さそうに潤んだ黒い瞳で見つめてきた。


 ――これで「大丈夫そうだよ?」と切り捨てて出掛ける程、シンは冷血ではない。


 内心で思い切り渋面になりながらも、表面上は柔らかく微笑して小さく首を横に振った。


「無理しないで、ミアちゃん。今日はやっぱり、行くのを止めて孤児院の仕事をするよ。だから、ミアちゃんはそのまま休んでて?」

「え、でもでも……」

「ミアちゃんが元気になったら行くから。ね?」

「……う……はい。……あ、ありがとう、ございます……っ」


 ――ほんの数日、長くても2〜3日程度。もし熱が出るなら神の奇跡による快癒の魔法を使えばすぐ治る、と高を括っていたが、それが間違いだった。

 彼女はいつになっても咳が収まらず、かといって熱が上がるわけでもなく、悪化もせず完治もせず、を繰り返した。多少良くなった様子に見えるとすぐに掃除や雑務などを始めて、結局その日の夜に悪化する、といった感じだ。

 見かねて、自分の治癒の魔法をかけるか、または知人の医者に相談するか、と提案をしたのだが、そんな迷惑は掛けれない、と頑として聞き入れてはもらえなかった。



 そんなこんなしている間に、あっという間に2週間が経ってしまい、シンは呆然とした。



 もう一度言おう。75歳が聞いて呆れる。



* * * * * * * * * * * * * * *



 シンはどうしようもない焦燥に駆られていた。



 ようやくミアの咳も収まり孤児院の外に出た時には、ソフィアが消えて半月が経とうとしていた。


 冒険者仲間に自警団の団員がいる為、何か町で異変が起こったらすぐに知らせて欲しいと頼んではいた。シアンは定期的に春告鳥フォルタナの翼亭に顔を出している為、こちらも何か情報が入ったら教えて欲しい旨伝えてあった。

 だが、そのどちらからも連絡は来ていなかった。


 自分の分に加え、倒れたミアの分も仕事をこなしていた為、朝から晩までやる事だらけだったが、それでも、こんな事になるなら、早めに一度、橙黄石シトリアやじり亭なりエルテナ神殿なりに足を運べばよかった。


 後悔しながらも、気を落ち着けようと一つ深呼吸し、シンはひとまず橙黄石シトリアやじり亭へ向かって歩調を速めた。

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