第23話 少年は天使に出会う
週末明けの朝。
「んっ……んん……っ」
僕は、ある感覚に襲われていた。
(鼻が……くすぐったい……っ)
顔になにかが当たっているのはわかるのだけど。ぼーっとしている頭では、その『なにか』を突き止めるのには時間を要した。
「…………ん?」
再度、寝ようと必死な脳をなんとか起こし、目を開けると、
「――おはようございます、翔太郎くんっ」
僕の顔を覗き込むように見下ろしている先輩がいた。
「んっ……。あ……おはようございます……先輩……っ」
さっきからずっと鼻に当たっていたのって、先輩の長い黒髪だったんだ。
………………。
髪が重量に引かれて、振り子のように揺れている。
「あの……先輩……っ」
「はい、なんですか?」
「えっと……この状況は、一体……っ」
こうしている間も、先輩から甘い香りが……っ。
……あ、これは……家にあるシャンプーの香りだ。
「えへへっ。こうすると、翔太郎くんが喜んでくれるかなと思いまして」
「………………」
「どうですか? 喜んでくれましたか?」
そんな、誘うような言われ方をされたら……僕……っ。
「先輩……僕は嬉しすぎて…――」
ZZZzzzzz……。
「――…えっ、翔太郎くん!?」
ZZZzzzzz……。
「っ……いいでしょう。翔太郎くんが……そのつもりなら――」
――――え。
起きようとしない僕の耳元に顔を寄せると、
「……早く起きないと、いたずら……しちゃいますよ……?♡」
先輩の甘美な声が、空気を伝って鼓膜をくすぐる。
「…………っ」
その声に導かれるように、ゆっくりと目を開けると、
「な、なんちゃって……っ」
慣れていないことをしてぎこちない笑みを浮かべた先輩に、僕は、思ったことをそのまま声に出した。
「――…先輩、可愛すぎます」
「えっ。…………っ」
予想外の言葉だったのか、先輩はポカーンと口を開けると、みるみるうちに頬を赤く染めていった。そして、
「……も、もう知りませんっ!」
と言い残して部屋を出て行ってしまった。
………………。
部屋に残される形になった僕はというと、起きることなくぼーっと天井を見つめた。
(いい夢が見られそうだったけど……まぁ、いっか……)
すると、外から聴こえてくるザァアアアーッという雨の音。
「……雨か」
ベッドから起き上がり、窓のカーテンを開けると、降り注ぐ雨が音を奏でていた。
ゴールデンウィークも終わり、いつもの生活に戻る。
「はぁ……」
とため息を漏らしながら、階段を下りてリビングに入ると、
「あっ、翔太郎くん。オレンジジュースと牛乳、どっちがいいですか?」
キッチンの方から、先輩が両手にそれぞれの紙パックを持って出てきた。
「……じゃあ、牛乳で」
「わかりました。あ、あと、お皿をテーブルの上に並べてもらえると助かります」
先輩のお願いは断れない僕は、料理の乗った皿をテーブルに並べていく。
そして、皿を並び終えると、僕たちはイスに座った。
「「いただきますっ」」
それから、数十分後。
「先輩、もう家を出ないと遅刻しますよ」
「あっ、翔太郎くん、ちょっと待ってください」
「?」
呼び止められて振り返ると、先輩が、色分けされた二つの巾着袋を取り出した。
「これ……よかったら……っ」
先輩から、片方の巾着袋を手渡された。
「!? これって……」
その程よい大きさと重みは……あるモノを連想させた。
「お弁当……ですか?」
「……はいっ、正解です♪」
「…………っ!?」
お弁当……先輩の……っ。
「あ、ありがとうございます……っ! とっても嬉しいです」
「えへへっ。喜んでもらえてよかったですっ」
おぅ……っ。なんて眩しい笑顔なんだ……っ。
「おかずは手作りなので、夕食のときにでも味の感想を教えてもらえたら」
「わかりましたっ。……あ。ところで、先輩……」
「はい、なんですか?」
「あの時計って……時間、合っていますよね……?」
「時計ですか? 合っていると思いますけど。それがどうし…――」
先輩は壁にある時計を確認すると、その顔をゆっくりとこっちに向けた。
………………………………………………………………………………。
「先輩」
「翔太郎くん」
一瞬のアイコンタクトで、お互いの思考を読み取る。
『走りましょう!』
僕たちは、巾着袋をカバンに入れると、急いでリビングを出た。
ギリギリの時間だったことをすっかり忘れていた。
(僕としたことが……っ)
玄関で靴を履いて傘を持つと、静かな廊下に向かって言った。
「「行ってきますっ!」」
結果としては、何とか学校には間に合った。
教室に入ってすぐに担任が入ってきて、朝のホームルームが始まったので本当にギリギリの時間だった。
それから授業も進んでいき、三限目の体育の授業が始まった……のだけど。
(さ……さ、最悪だぁあああああああーーーーーッ!!!!!)
場所は、体育館。
雨が降っていることもあって、本来なら外でサッカーをするはずが、女子と同じ体育館で授業が行われることになった。
ここまでなら、別に問題はない。問題なのは、この後だ。
体育教師が出席確認を終えると、いつも通り準備体操が始まると思っていたのだけど……。
――…次の瞬間、ボッチにとって禁断の言葉が告げられた。
『これから二人組でストレッチをやるから、ペアを組んでくれ』
ペアを組んでくれ……ペアを組んでくれ……ペアを組んでくれ……。
一瞬にして脳は凍り付き、その思考を止めようとする。
しかし、そうしている間にも、他のクラスメイトたちは次々とペアを作っていた。
(ま、まずい……ッ!!)
……チラッチラッ。
このままじゃ……あの体育教師(筋肉ゴリラ)と組むことになってしまう。
(っ……それだけは、絶対に嫌だ……ッ!)
必死に周りを見渡していると、
「――あ、あの……」
後ろから小さな声がかけられた。
「は、はい……ん?」
振り返った僕は、声の主と、反対側で授業をしている女子生徒たちを交互に見た。
どうしてそんなことをしたのか。それは……今、目の前にいる人物が……どこからどう見ても女の子だったからだ。
……でも、男子の方で授業を受けている。ということは、つまり、
「あの……」
「!! な、なに!?」
「もし、よかったら……ボクとペアを組んでくれないかな……?」
――『ボク』か。
体型は小柄で線が細く、顔が美少女なこともあって、自然と女子だと錯覚してしまう。
そんな彼女……いや、彼に失礼極まりないことを考えていると、
「ダメ……かな……っ?」
ドキッ!!!
「……あっ、いいよ! 僕も、ちょうどペアの相手がいなかったところだから!!」
「よかったー……っ。ボクの名前は、
「僕は、黒江翔太郎。えっと、今日はよろしく……陽」
「うん、よろしくね!」
彼女……彼の笑顔は、直視できないほどに眩しかった。
このとき、僕の中で陽が救世主から天使に変わったのだった。
それから、午前の授業も終わり昼休みが始まった。
(はぁ~……楽しかったな~……っ)
あの後。ストレッチを終えた僕と陽は、バトミントン初心者同士、のんびりとした時間を過ごしたのだった。
「――ねぇ」
「……ん?」
僕が、机の上に置いたかばんから巾着袋を出していると、急に声をかけられた。
その声に聞き覚えがあり過ぎたので、僕はゆっくりと顔を横に向けた。
「……僕、ですか?」
「……黒江君以外に、誰がいるの」
「は、はぁ……」
そこにいたのは、綾野さんだった。
綾野さんと会うのは、ゴールデンウィーク以来なのだけど。会った日からよく連絡をするようになった。
「ど、どうしたの? 僕になにか――」
「――…黒江君。お昼、一緒に食べてもいい?」
そう言って綾野さんは、手に持っていた花柄のランチバッグを見せてきた。
僕自身、女の子からのランチのお誘いを受けたとなれば、断るわけもなく。
「う、うんっ。いいけど……」
了承を得た綾野さんは、ランチバッグを机の上に置くと、前の空いた席に座って体をこっちに向けた。
このクラスの昼休みにおける食堂率は高い方で、今、教室には少人数のグループしかいない。だから、周りの目を気にする必要もなかった。
「あ」
と、綾野さんはなにかを思い出したかのような顔で自分の席に戻ると、大きな紙袋を持って戻って来た。
「黒江君、これ」
「え? ……っ!! これって……」
袋の中の物を出してみると、そこには十冊程度の漫画が入っていた。
「この前言ってたマンガを持ってきたの。黒江君、興味があるみたいだったから」
と言いながら、綾野さんは席に座り直す。
「……あっ、ありがとう」
「それ、返すのいつでもいいから」
「りょっ、了解……っ」
巾着袋を開けようとしていた手を止めて、僕は一巻に目を通す。
綾野さんが貸してくれたのは、王道的なバスケ漫画だ。
(それにしても、まさか、持ってきてくれるなんて……)
その漫画には、丁寧にブックカバーが貼ってあった。恐らく、表紙に汚れが付くのを防ぐためだろう。
(これいい。今度、買いに行こうかな)
買い物候補に新しいものが加わり、楽しみが増えた。
「……あ。そういえば、この前買ったゲーム、どこまで進んだの?」
「全クリして、クリア後のストーリーを進めてる」
「は、早いな~……」
やり込み要素があり過ぎるゲームとして有名だけど。
この短期間でかなり進んだんだな……。あぁ……早く遊びたい……っ。
「……ゴールデンウィーク中、ずっと部屋でやっていたから」
「!! な、なるほど……」
ゴールデンウィークみたいな長期休みにやり込むのは、至って自然なことだ。
でも、綾野さん言う『ずっと』は、本当の意味で『ずっと』なんだろうな……。
「それに、午前中の時間も使ったから、多分、今日中に終わると思う」
……あははは。もうなも言えないな、これは……。
と心の中で呟きながら、巾着袋からお弁当箱を出すと、ゆっくりと蓋を開けた。
(……お、おぉー……っ!)
お弁当は二段になっていて、下の段には、梅ゆかりを混ぜた白米。上の段には、から揚げに
一見、シンプルに見えるけど、このシンプルさがとてもありがたい。
「いただきますっ」
それから、先輩手作りのお弁当に舌鼓を打っていると、
(……可愛い)
綾野さんも手作りのお弁当を食べているのだけど。
小さな二段式のお弁当箱の中に入っているおかずが、カワイイキャラにデコレーションされていたのだ。
クマにひよこと、小さな箱の中にぎゅうぎゅうに詰まっている。
「……あ、綾野さん、一つ聞いてもいい?」
「……なに」
手に持った箸を一旦置くと、僕の方に顔を向けた。
「いや……どうして授業中にゲームをやっているのかな……っと思って」
綾野さんは無言の後、ゆっくりと口を開けた。
「……一言で言うと、時間が足らないから」
「た、足らない?」
「………………」
コクリと頷いたときの顔を見て、僕は察した。
…………ああぁ、なるほどね。
――…“生粋のゲーム好き”ということか。
綾野さんは言い終えると、再びお弁当を食べ始めたのだった。
夕暮れ時、
「ただいま帰りました~」
と言いながら家の玄関の扉を閉めると、私は洗面所に向かった。
(外から帰ってきたら、手洗い、うがいは忘れずにっ!)
洗面台の横にあるハンドソープをプッシュしてから手を洗いうがいを済ませると、着替えるために自分の部屋に向かう。
そして、白のTシャツの上に薄手のパーカーとホットパンツという、いつものラフな格好に着替えた。
Tシャツは、ある部分の成長に伴い、下から押し上げられている。この家で暮らし始めた頃は、長袖長ズボンのルームウェアを着ていたが、最近は少し大胆になってみようと思い、今に至る。
その後、部屋を出てリビングに来たのだけど。
「……あれ?」
明かりは点いているのに誰の姿もなかった。
どうやら、翔太郎くんは部屋で休んでいるようだ。
私は、いつものエプロンを着ると、パーカーの袖を巻くりながらキッチンに入った。
「さて、今日の夕食は……」
昨日の夕食は洋風だったから、今日は和風にしよう。
(う~ん……和風と言えば、カレイの煮付けに、肉じゃが……)
冷蔵庫の中に入っている食材を確認しながら、頭の中で献立を考える。
(……よしっ。じゃあ、今日は肉じゃがで決まりですね)
今日の献立が決まると、早速、調理に取りかかる。
「――…あっ」
ふと目を向けた水切りかごには、今日の朝、翔太郎くんに渡したお弁当箱が洗って立てかけてあった。
「…………っ」
それを見た瞬間、私は居ても立っても居られず、階段を上がった。そして、部屋の前に来ると、扉をコンコンとノックする。
「翔太郎くん……っ。わ、私です……っ」
しかし、中からの反応はなかった。
「……翔太郎くん?」
もう一度ノックするが、やはり反応がない。
「……入りますよ」
と一言伝えてから、ゆっくりと扉を開けた。
「翔太郎くん……あっ。ふふっ、眠っているみたいですね」
私が見つけたのは、ベッドの上で眠っている翔太郎くんだった。
学校から帰って来て、そのまま眠ってしまったのだろう。
翔太郎くんが起きないようにそっとベッドに近付くと、彼の顔を見下ろす。
「……あとで起きたら、感想、いっぱい教えてくださいね……っ」
「んん……っ」
「ふふっ」
それから少しの間、私は翔太郎くんの寝顔を眺めていたのだった。
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