第290話 暗がりロンド(前編)
空には雲が垂れこめているのか、星明りすら見えない夜には、篝火の赤い光だけが地面に格子状の影を落とす。
大防壁が破壊されてしばらく。日中は労働者たちを護衛するため、夜間は盗賊や獣の襲撃を防ぐため、交代で丸太を組んだ柵の前に立ち続けていた。
「おう、交代だぞ。何か変わった事はないか?」
「見ての通り静かなもんさ。突っ立ってんのが馬鹿らしく思えてくるくらいにはな」
「そう愚痴るなって。衛兵隊の夜勤なんてどこでもこんなもんだ」
「俺たちが退屈なのは平和な証拠、ってか」
仲がいいらしい2人の衛兵は揃って肩を竦めて苦笑する。
たとえ大防壁に穴があろうとも、盗賊連中に王国の首都を直接襲うような間抜けは居らず、ユライアランドには脅威となる凶暴な野生動物も生息していない。
それでも衛兵が四六時中立たねばならないのは、敗走した帝国軍残党が捨て身で襲撃してくる可能性を警戒してのことであった。
とはいえ、そんな連中は影も形もないのだが。
「さぁて、じゃあ後ヨロシク」
「酒飲むなよ。待機ってだけで仕事中なんだからな」
「わかってるっての。大人しく詰めてますとも」
今まで立ち番をしていた衛兵は槍を肩に担ぎあげると、ヒラヒラとガントレットを振りながら歩き始める。
ただ、交代に来た方は真面目なのか、あるいは相方が怠慢なのを知っているからか、その背中へ向かってため息ついでに釘を刺した。
「はぁ……居眠りするならバレないようにしとけよ。俺まで揃って怒られ――」
「あ? どうかしたか」
小言には慣れっこであっても、それが不意に途切れるとは思わなかったのだろう。不真面目な衛兵は訝し気な表情を浮かべて振り返る。
変わらずそこにあったのは、揺れる光に照らされる王国軍の鎧。
しかし、どうしてか兜の輝きは見えず、それどころか首から上も見当たらなかった。
「――え、おまっ、はっ?」
頭を失った身体はゆっくりと、叫びをあげることもなく崩れていく。
残された彼には、何が起こったのかわからなかった。その僅かな間の放心によって、叫びをあげるタイミングを逸してしまったのである。
次の瞬間、ヒュンと聞こえた風を斬る音を最後に、彼の声は永遠に失われた。
同じように音もなく倒れていく仲間と、顔を覆った何者かの姿を、曇る瞳に映したままで。
■
前情報の通り、防壁に穿たれた穴の警備は他の場所より強固ではあった。
しかし、所詮は練度の低い居残り部隊でしかなく、昼夜を問わず警備を続ける必要性から、低い質を補うための頭数さえ揃えられていなかったのだ。
彼らにとっては拍子抜けだっただろう。それでも、頭全体を覆う頭巾から覗く目に油断はない。
音もなく崩れた亡骸の前に立った10程の黒い影は、一旦視線を合わせて頷きあって規則正しく集まりだす。
何かを中心に集まった地面の染みは3つになり、それは次の瞬間、驚異的な脚力で音もなく跳躍して防御柵を軽々と飛び越えた。
ランタンに照らされる市街の暗がりを抜け、背の低い建物へ飛び乗って上へ上へ。黒い布に覆われたそれらは、数人を背に乗せたまま音をたてずに駆けていく。
目指すはただ1点。二重の輪に守られて中央に座す、他の追随を許さない豪奢な建築物。
彼らは確信していた。否、何故もっと早く自分達を使わないのかとさえ思っていたと言っていい。
王国軍の主力部隊が遠出している今こそ、影が敵地へ溶け込むには絶好の機会ではあろう。
だが、それは2つの大部隊が消滅したことにより、敵が勢いづいて攻勢に転じたからこそ生まれた皮肉な機会でもある。
もしも最初の大侵攻と同時に敵の腹中へ溶け込んでいたならば、大軍同士が攻防を行う裏から玉座を打ち砕けていたはず。それこそ、件の英雄が乱入してくるより前に。
王宮にある女王の血脈を一切葬り、美しいと噂されるその首を敵の陣中に放り込んでやれば、その瞬間に勝負は決まっていたかもしれない。
所詮はたらればでしかない話である。しかし、影を束ねる長がそんなことを考えてしまうほど、彼らの駆ける屋根の上は静かだった。
貴族街を守る低い内壁は、脚力にものを言わせて屋根の上から飛び越える。衛兵も立ってはいたが、人員不足のあおりを受けてか立ち番の間隔が広すぎることで、音もなく風の様に走る影を捉える者は居ない。
それは貴族街に入ってから目標地点につくまで一切変わらず、彼らは拍子抜けするほどあっという間に、敵の侵入を許したことがないという豪奢な建物の裏庭へと溶け込んだ。
周囲に広がるのは誰も居ない、不気味なほどに静かな空間。影たちが身を置くのに最高の舞台。
最早王族の寝所は手の届く位置である。これまでどおり静かに作戦を遂行し、その首をクロウドンに持ち帰るのみ。
それでも彼らは一切油断することなく、2つの影は芝草すら揺らさぬように歩みを進ませ、残った1つは静かに地面を蹴った。
その時である。長はふと、自らの頬に何らかの液体が付着したように感じたのは。
天は星明りを隠してこそいても、雨の気配は欠片もない。
ただ、ハッキリ見える夜目の先にあったのは、何かが足りなくなった仲間の影である。
――頭?
これまで静寂に包まれていた空間で、ドサリと何かが鳴った。
たったそれだけのことで、彼らは緊張に包まれる。
正確に何が起こったのかはわからない。しかし、物が落ちた音が誰かの死によるものであることは確信していた。
その直後である。どこか狂気を湛えた声が影たちの耳へ届いたのは。
「クスクスクス……こんな暗がりへようこそ、物静かなお客様」
建物の壁際。ポッと灯された小さなランプの光に浮かび上がったのは、漆黒のドレスと長いサイドポニーを風になびかせる女の姿である。
その所作は血の香りが漂う夜闇に対してあまりにも不自然で、偶然に居合わせてしまっただけの召使だと考えた方が納得できるほどだっただろう。
だが、暗く輝くワインレッドの瞳を見た瞬間、影たちの誰もがそんな柔い存在でないことを悟っていた。とはいえ、相手が何者なのかなど彼らにとって問題ではなく、重要なのは姿を見られてしまったという事実のみ。
――消せ。
何かに跨ったままの長が、無言で指をくるりと小さく回すと、その背後から2つの影が驚くほど低い姿勢で地面を駆けだした。
女との距離を詰めるまで、ほんの一瞬。黒布で覆われた腕を振り上げれば、その袖口より細く短い刃が覗き、微動だにしない彼女の咽を目掛けて煌めいた。
再び聞こえたドサリという音。刃が一閃振り抜かれるその時を眺めていた彼らにとって、今度は何の不思議もない。
はずだった。
「……どうかしたの? 不思議そうな顔をしているわ」
影たちの視界に映り込んだのは、地面に突き立った刃と首を傾げる女の姿。
闇の中で血飛沫は黒く、勢いよく駆けていたはずの仲間はどうしてか、崩れるように倒れていく。彼女は腕の1本すら動かしていないというのに。
ただ、残された仲間の血がその理由を語っていた。
アラネア糸。
僅かな驚愕は一瞬。彼らは敵対者の危険度を一気に引き上ると、声を発さないまま袖口から白刃を覗かせる。
一方、そんな様子をボンヤリ眺めていた女は、ただただ白けた半眼を影へ向けるだけだった。
「こんな美しい夜なのに、退屈な人ばかり。身体が冷めるのも当然、ね」
まるで隠すのが面倒になったとでも言いたげな様子で、彼女は大きく手指を広げる。
それと同時にランプの光を浴びて浮かび上がった無数の糸は、影たちを囲むように張り巡らされており、最早死刑宣告とでも呼ぶべき状況だろう。
にもかかわらず、影たちは怯えることも竦むこともなく、静かに黒布に包まれたソレから降り、長たる者はそっと人差し指につけられたリングに口を寄せる。
「狩れ」
初めて空気を揺らした長の声は低くくぐもって、しかし確実にソレの枷を外した。
■
外敵の侵入を知らせること。それが私に与えられた仕事。
大防壁を穿たれた王都の守りは弱く、敵の隠密が逆襲のために侵入する可能性は高い。
だからこそ、普段は日陰に暮らす自分のようなキメラリアに、貴族が頭を下げたりするのだろう。無論、クローゼ・チェサピークが貴族としての体面を気にかけていないだけかもしれないが。
とはいえ、この依頼を私に持ち込んだことは悪くない。
――防御柵に警戒網を張って欲しい、ね。
アラネアの紡ぐ糸は細く、束ねなければ人の目に映らないように張ることもできる。
無論、先ほど披露したように、骨ごと人を切断できるような強靭さを持たせるのは骨が折れるが、何者かの侵入を探知するだけならば難しいことでもない。
それも敵の隠密だけを警戒するのなら、本来人の通らない柵の周辺にだけ糸を張ればよく、彼らは見事にそこへ引っかかった。
ただ、1つ誤算があるとすれば、そこに居たのが人種だけではなかったことだろうか。
「これが噂の……気味の悪い物だこと――ッ!」
黒い布に覆われたソレの突進に、壁に這わせた糸を手繰って大きく宙に逃げる。
これまで生きてきた中で、私はミクスチャという物を直接見たことはなく、先の戦いにおいても小山の如き大きさの怪物が白い壁を打ち崩したと聞いたのみ。
だからこそ、巨大な存在だけを想像していたのだが、ソレは人より僅かに大きい程度でも、間違いなくただの生物ではなかった。
頭も胴体も持たない、6本の太い四肢を繋いだだけのような不気味な存在。僅かな音もたてず猛烈な勢いで跳躍しながら、腕の一振りで太い柱を容易く粉砕し、あろうことか人体を細切れにできる強度を持ったアラネア糸を、単純な突進をもって引きちぎる。
「……私の方に来た時は少し楽しみだったけれど、相対してみれば最悪ね」
今までのように隠れた戦い方を捨てた怪物は、派手に崩れた壁面から身体を引き抜きつつ向き直ると、手にした瓦礫を投げつけてくる。
その隙間を縫うように飛び、時折糸で軌道を逸らしながら躱していく。
アラネアは身体が特別頑丈と言う訳ではないのだ。岩の塊などぶつけられた日には、腐った果実のように潰されてしまう。それどころか、破片だけでも白黒の肌に赤い染みを作った。
全く腹立たしい話である。ただでさえ、真正面からの戦いというのは性に合わないのに、苦戦する相手が怪物を連れただけで自分は何もしない押し込み強盗とは。
「ふ――ッ!」
ハイヒールで跳んでくる瓦礫を蹴って自らの軌道を変えつつ、視界の片隅に見える長めがけて
だが、その動きを見た瞬間、宙を駆ける戦輪よりもなお素早く回り込んだミクスチャの腕によって、小石かのように弾かれてしまった。
――国を滅ぼせるような怪物が、随分と主人想いなこと。
抉れた芝の上に足をつきつつ、僅かに湿る頬を指先でそっと拭う。
ここまでほんの一瞬。だが、影たちが私の力を見切るには十分だったに違いない。
怪物の背に隠れた長は、周囲の者たちに何かしら指示を出す。多分、こいつの相手は1匹だけで十分だ、とでも告げたのだろう。
ここまでで5人は葬ったが、所詮はどれも人種に過ぎない。連中が連れてきた3匹の怪物は未だ傷の1つも負わぬまま。
まともな戦いにもなっておらず、張り巡らせた糸の多くを失った以上、奴らが王宮へ侵入するのを阻む術など私にはない。
おかげでなんだか力が抜けた。
「ふぅ、頼まれたことは終わり……なんて言ったら、ふふっ、怒られちゃうかしら?」
1匹のミクスチャだけを残して、自分を迂回するように走り出す影たちを視界に捉えつつ、私は肩を竦めて小さく笑う。
依頼内容はあくまで侵入者の探知。戦闘は興味本位からのオマケに過ぎない。
振り上げられるのは腕か脚か。想像していた以上に美しくないので、正直もうどうでもいい。
ただ、この時私が唇に舌を這わせたのは、ちょっとした優越感からだった。
「私も残念だけれど、暗がりの時間はもうおしまいなの。お馬鹿さん」
その瞬間、腕を振り上げていたミクスチャは咄嗟に大きく跳躍した。
先程見せた主を守るための動き。ああ、気味の悪い存在ながら何と健気なことか。
でも決して間に合わない。影にとってその火はあまりにも明るすぎる。
何せ、王宮の中へ続く広い廊下を一気に焼き尽くしてしまう程なのだから。
「もー、せっかくあたしが前で待っててやったのに、ドロボウってアレなの? 裏から来なきゃいけない決まりでもあんの? まぁ、どうでもいいんだけどさ」
焼け焦げた臭いの中から歩み出てきた彼女は、明るい口調でそう告げると、小麦色の肌から白い歯を覗かせてニッと笑ったのだった。
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