第289話 日陰の一手

 鎧戸が落とされた部屋は、蝋燭の明かりだけで薄暗い。

 そんな中、テーブルを囲む豪奢な服を着た男たちはかれこれ数時間、揺れる火を睨みながら煙管から紫煙を吐き続けている。

 誰も何も発さない。ただ時折、煙管から灰を落とすコツンという音が響くのみ。

 その沈黙を破ったのは、控えめなノックの音だった。


「入れ」


 全員の視線が集中する中、最奥に座っていた長身痩躯の男が低い声を発すれば、作りのいい扉が静かに開かれる。

 その向こうには、1巻きのスクロールを手にした騎士が背筋を伸ばして立っていた。


「前線へ向かっていた伝令より、報告です」


 声の調子から、報告の内容はわからない。

 それどころか、一連の動きも形式的なものであり、騎士はお手本のような所作でスクロールを巻きなおすと、最も扉に近い位置で立っていた男に対してそれを恭しく差し出した。

 騎士ではあってもただの伝令にすぎない彼は、スクロールが確実に上官へと渡った事だけを確認すると、すぐにまた扉の向こうへ消えていく。

 一方、受け取った側である将の1人は括られた紐を解くと、書かれていた内容を全員に聞こえるように読み上げた。


「エンシャ関、敵大部隊の侵攻により陥落。脱出した者は確認できず、また敵部隊は関の占領後まもなく進撃を再開した、と」


「……そうか」


 感情を殺して告げられた敵の侵攻に、帝国軍序列第一位将軍ガルヴァーニ・トツデンは低く短い呟きを零すのみ。

 ただ、集う諸将は間に合わなかった連絡に奥歯を噛み締めた。


「なんという速さだ……毒雨のためにホウヅクを飛ばせなかったとはいえ、最も東のエンシャにさえ伝令が間に合わんとは」


「最早、奴らがこのアルキエルモに至るのは時間の問題ではないか。我が軍の集結は、未だ6割ほどだというのに」


「神国の占領部隊と北部国境防衛部隊による増援は、到底間に合わんでしょうな。戦いを長引かせられれば話は別ですが……」


 誰もが机に広げられた地図へ視線を落とし、友軍部隊の配置状況に表情を曇らせる。

 カサドール帝国が軍事強国である最大の理由は、その圧倒的な兵数にあった。

 凄まじい大軍を武勇ある将が率い、目をつけた国を飲み込み続けた結果、世界に名だたる超大国へと成長したのだ。

 だが、占領した地域の全てが従順であったわけではなく、慢性化した食糧難や重税によって各地で反乱が勃発。これらの鎮圧と支配体制の強化を行うため、帝国は各地へ軍隊を駐屯させなければならず、領土の拡大と比例して兵力は必然的に分散していた。

 そして今、神国の占領によって兵力の分散が一層加速している中、ユライアを攻撃した2つの軍が壊滅させられたことで、小国相手に彼我の戦力がほぼ拮抗している。

 この状況に、今まで数こそ力と疑わなかった帝国の将たちが、守りに徹しようと考えるのは当然であろう。

 ただ、ガルヴァーニは諸将の様子にフンと小さく鼻を鳴らすと、地図上に置かれた敵を示す駒をステッキで指し示した。


「ユライアの連中とて間抜けではない。時間をかければ己が不利になることを理解しておるのだ。兵を落伍させかねんような勢いの勇み足で来る以上、悠長に包囲戦などせず、短期決戦を仕掛けてくるだろう。増援は当てにするな」


 厳しい言葉に全員が息を呑む。

 これだけで終わってしまうならば、ただの敗北主義者に過ぎないが、第一位将軍たる男が弱腰でないことは誰もが知るところであり、諸将は言葉の続きを望んで視線を痩躯のガルヴァーニに注ぐ。


「報告通りの大軍が迫っているのなら、元より兵数の少ないユライアに余裕はなく、打撃を与える好機となり得る。そうだな?」


 僅かに一呼吸の後、彼は周囲を見回しながら暗に自らの策を告げる。

 ステッキの先端が置かれたのは、敵拠点を示す中でもひときわ大きい旗の根本だった。


「……なるほど。それならば、たしかに」


「勢いに乗る農夫共に、華々しい大会戦だけが趨勢を左右するわけではないことを教えてやろうではないか」


 挑発的な言葉を口にしてもなお、ガルヴァーニは冷静なまま。

 ただ、その岩石のような無表情は、僅かに吊り上がった口の端によって崩れていたが。



 ■



 前線が押し戻されてよりしばらく。

 復興が行われる王都ユライアシティには、建材となる大量の木石を運ぶ獣車が列を成し、それらは防壁の外に設けられた物資集積所へと向かって進む。

 昼夜を問わず物資は運び込まれ続け、しかし現代の大都市である王都はそれら全てを飲み込んでなお、足らぬ足らぬと叫び続ける。

 王都の受けた被害はそれほど大きく、市街のいたるところで職人をはじめとした労働者たちが、槌を振るって鋸を挽き資材を担ぎ綱を投げて、それでもなお町の復興は中々進まない。

 その理由について、労働者たちは口を揃える。


「まさかこの手で大防壁を直す日がくるとはなぁ」


「俺たち、元通りになるまで生きてられっか?」


 春に向かい温まる空気に、彼らは早くも流れる汗をぬぐいながら、ぱっかりと口を開けている大防壁を前にため息をつくのも無理はない。

 市門を修復するだけでも大変な労力を必要とする中、巨大なミクスチャの体当たりによって崩壊した箇所の復旧は、ようやく瓦礫の撤去が終わって仮設の木壁が作られ始めたところなのだから。


「今は未来を憂うより、まず手を動かしなさい。そうしなければ終わるものも終わりませんよ」


「あぁ、んなこたぁ言われんでもわかって――うげっ!?」


 背後から響いた低い声に対し、2人の職人は面倒くさそうに振り返ったものの、明らかに場違いな黒いコット姿が視界に入った途端、背筋を伸ばして深々と腰を折った。


「く、クローゼ様!? なんでこんなとこに……じゃなくて、こいつぁ失礼いたしました! ちょっとばかし休憩してただけで、すぐ戻りますとも、ええ!」


「そうですか。事故のないよう、しっかり励んでください」


「あ、ありがてぇお言葉でございます! おい、行くぞ!」


「応ともぉ!」


 何度もぺこぺこと頭を下げた2人の職人は、その場から逃げるようにドタドタと走り去ってしまう。それこそ、貴族に関わると碌なことがない、とでも言いたげな様子で。

 しかし、コレクタユニオンの暫定支配人ではなく、チェサピーク家の名を背負ってこの場に居る以上、クローゼにとっては特段珍しいことでもない。

 むしろ、平然と傍に立つような者の方が特異だった。それも物腰の柔らかい部下ならばなおのこと。


「もう少し肩の力を抜かれてはどうですか? お顔、強張っていますよ」


 クローゼは眼鏡の位置を人差し指で直すだけで、隣に並ぶ亜麻色の髪をした受付嬢へ向き直ろうとはしない。

 彼女はあくまで平民。なんなら王国臣民ですらなく、コレクタユニオンという枠に居る根無し草に過ぎない。

 それがいくら次男とはいえ、王国貴族の中でも最上位に位置するチェサピーク家の者を前に、まるで友人に接するかのような口調で顔が強張っていると言って笑うなど、遠回しの自殺と呼んでもいいくらいの所業であろう。

 無論、クローゼは有能な部下である彼女を咎めようなどとは思わないのだが、それでもその奇妙な豪胆さに疑問は覚える。


「……私は貴女のようになどできませんよ、マティ・マーシュ。色々な意味で」


「あら、私が怖いもの知らずのようにお見えですか?」


「他になんと形容すればよいのか、言葉が浮きませんので」


 彼の切れ長な目は一度もマティを捉えないまま、職人や労働者、そして奴隷たちの働きへ向かい、手袋越しに握られた小さな紙束へ工事の進捗状況が記されていく。

 一方、マティは彼の視界に入っていないにも関わらず、わざわざ小さく口を隠しながらクスクスと笑った。


「私の出自なんてただの田舎娘ですから、怖いものなんて数えきれないくらいありますよ。クローゼ支配人はお優しいですし、グランマみたいに無茶なことは仰いませんから」


 僅かにペン先が鈍り、滲んだインクに文字が太る。


「買いかぶりですね。あの老婆と比べて、私が未熟と言うだけのことですよ」


「でしたら、未熟なままの方が私は素敵だと思いますよ?」


 天然なのかわざとなのか。僅かに腰を折って覗き込んでくるマティが視界に入った事で、クローゼは一瞬息を詰まらせ、まもなくはぁと大きくため息をついてから、呆れ顔で彼女へと向き直った。


「そういうところを言っているのです。せめてもう少し言葉に遠慮というものをですね」


「ふふ、失礼いたしました」


 柔らかく微笑むマティに対し、クローゼはまた紙束に視線を落とす。そこにはいくばくかの諦めが滲んでいた。

 グランマのように権力欲を満たすために権謀術数を巡らせることを、生来の性格から彼は全く望まない。それどころか、自ら仕事を実直かつ堅実に、そしていささか不器用にこなすばかり。

 ただ、言葉の通りの田舎娘であるマティにとって、暫定とはいえ支配人の名を戴いた人物のそんな姿は、むしろ好意的に映っており、だからこそ態度を改めろと言われても微笑1つで躱してみせたのだ。

 とはいえ、彼女も受付嬢として働いているプロである。突如背後から声が投げかけられると、その表情はすぐにいつもの営業用のものに切り替わった。


「そこのお嬢さん、ちょいとよろしいですかぁ?」


「はい、なんでしょう?」


 身体ごと向き直ったマティの視界に入ったのは、擦り切れた服を身に纏った田舎者らしい風貌の若い男で、その後ろでは獣車を牽く毛長牛ボスルスが鼻を鳴らしていた。


「いやね、西から石やらを運んできたんだけんども、この近くに置いて行けばいいかわからんもので」


「すみません、建材は街道脇に集めていますので、そちらへお願いします」


「ありゃそぉですかぁ、いや失礼失礼。何分、いっつもは田舎ばっかりうろうろしよって、王都なんて近づいたこともないもんですけ、勝手がよぉわからんのですわ。それに――」


 迷っていたらしい男は、頭に貼りつくようなボリュームのない髪を撫でつつ一礼すると、しかしそれで立ち去ることはなく、周囲を物珍しげにぐるりと見まわしてから、どこか不安そうに表情を曇らせた。


「こりゃまた酷く崩されとりますな……まんだ戦は続いとるそうですが、こんなで夜中やらは大丈夫なんで? 王国軍の方々も今は遠征に出とるとも、聞きますし」


 帝国軍は撃退したが、どんな戦いにおいても全ての兵士を殲滅することは不可能であり、必ず落ち延びる者が現れる。

 そういう連中も運よく味方と合流できたり、敵方に捕縛されれば問題とはならないのだが、帰国することもできず潜伏してしまう事態になると、これが野盗などとなって襲撃してくる事態は多い。

 それも大規模な戦闘の後となればなおさらであり、挙句王都を守る兵力も少ないとなれば、自らを守る術を持たない民衆が不安がるのは当然と言える。

 しかし、マティは営業スマイルを顔に貼りつけたまま、緩く首を横に振ってみせた。


「そのことでしたら、どうぞ安心してください。簡単な柵は築かれていますし夜は衛兵も増員されますので」


「柵ってぇと、あぁ! 結構立派なもんがあるんですな、これなら安心だ。いや何から何までどーもぉ」


 丸太を繋ぎ合わせて作られた柵は、大した高さもなく都市の防御というにはあまりにも貧弱だったが、武装した衛兵が配置されていれば、普通の獣や少数の野盗の侵入を阻むことはできる。

 それを察したらしく、田舎者の男は納得した様子でポンと手を打つと、深々頭を下げてから毛長牛を連れて街道の方へと去っていった。


「長い列があるのに、迷ったりする人も居るんですね」


「不慣れと言うのはそういうものでしょう。さて、一旦報告に戻ります」


 今まで黙っていたクローゼは、状況を記した紙束を再々見直してからポーチへしまい込むと、きびきびした動きで柵の方へと歩き出し、マティもその背中を追った。

 ただ、何事も決めた通りにこなしていく男の予定外に、彼女は妙な違和感を覚えて首を捻っていたが。

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