第243話 焦げる潮風

 夜明け前の薄明り照らされる中、私は白い砂浜に手形を穿った。

 ユライア王国は未だに冬の只中にあり、年間を通して高温多湿なリンデン交易国から戻ってきた体には夜中の寒風が堪える。

 しかし、私の鼓動が祭囃子まつりばやしのようにやかましいままなのは、シラアイが勢いよく砂浜へ乗り上げたからだろう。


「は、話には聞いていたけど、実際に経験してみると恐ろしい」


「こんな大きさの船が、自分から座礁しにいくなんて何の冗談よ……これ、本当にもう一度海に出られるのよね?」


「ご主人がびぃちんぐ? とか呼んでたんで、大丈夫なんじゃないッスか?」


 何か吹っ切れたようにカラカラと笑うアポロニアを前に、私とマオリィネは膝をついて呼吸を整えていた。

 だが、自分たちが如何に驚こうと、シラアイがあれほどパンパンに膨らんでいたスカートを萎ませ、甲板の入口を砂の上に降ろしている事実は変わらないのだ。深呼吸一つで無理矢理驚愕を飲み下して立ち上がり、ボーっと空を眺めているファティマに向き合った。


「ファティ、積み荷を」


「……え? あ、そうですね」


 何か気になる事でもあるのか、月光とシラアイの灯火に浮かび上がる彼女は流れてくる潮風に鼻を動かしながら、不思議そうにキョロキョロしながら返事をする。

 無論、彼女を真似して臭いを嗅いでみたところで、キメラリアに比べて圧倒的に鈍い人間の鼻では磯臭さ以外に何かを感じられるはずもなく、私は彼女の耳が向けられる西へ視線を流して首を傾げた。


「どうかした?」


「んー……さっきほんの一瞬だけ、何かが焦げたような臭いがしたきがして……でも、どこから来た臭いなのかもわからないんです」


 普段なら音と臭いに敏感な彼女は、珍しく自分の鼻に自信が持てないらしい。

 そんなファティマを真似するように、隣でポラリスとアポロニアも目を瞑って臭いに集中していたようだが、彼女らもやはり不思議そうな表情を浮かべるばかりだった。


「なんのにおいもしないよ?」


「猫の勘違いじゃないんスかぁ?」


「ボクもそうだと思うんですが、犬に言われるとイライラしますね」


 いつも通り2人は緊張感もなく威嚇し合う。その一方で、マオリィネは焼けるような臭いという言葉に表情を強張らせていた。


「ねぇシューニャ……ポロムルから臭いが届くなんてこと、考えられる?」


「誰かが野営で火を焚いていただけと考えるのが妥当。ここはポロムルより東だし、この弱い潮風は東から吹いているから町の臭いが届くとは思えない」


 ポロムルの近くに上陸することは避けろと言われていたことと、びぃちんぐに適した砂浜がなかったことが重なり、自分たちの現在位置からはポロムルの町明かりすら見えはしない。


「考えすぎ、かしら。でもホワイトコーストの風は時々急に向きを変えるのよ。あっ、ほら今も西風に――」


「っ! 猫の勘違いじゃないみたいッスね……間違いなく何か焦げた臭いッスよこれ」


 どれだけ嗅いでも人間にはわからない。けれど、ケット以上に鋭い鼻を持つアポロニアは確信したように渋い表情を作った。

 西から吹く微風に乗ってくるという不穏な臭い。これにマオリィネがサーベル以外、一切の荷物を置いたまま走り出すのは当然だろう。


「ごめんなさい――私、ポロムルの様子を見てくるわ!」


「私も行く。状況が悪い可能性があるなら、早いうちにタマクシゲを回収しておきたい。ファティたちは荷下ろしを続けて」


 ファティマは咄嗟に護衛としてついて来ようとしていたが、私はそれを手で制して彼女の後を追った。

 今後の作戦を考えれば、シラアイを早くガァデンに戻さなければならないことは変わらないのだ。そのために荷下ろしの手を止めるわけにはいかない。

 とはいえ、運動が苦手で体力がない自分は騎士であるマオリィネの足についていくのは、とても容易ではなかった。それもこのところは古代の便利な道具を使う生活を続けており、以前より少し体力が落ちたのではないかとさえ思う。

 海岸線の木々が落とす影に溶けてしまいそうな漆黒のバトルドレスを追いかけて、どれくらいの時間走り続けただろうか。完全に夜が明けてポロムルの防壁が近づいてくる頃、マオリィネはタマクシゲを隠している廃屋の傍でようやくその足を止めた。


「……あの様子だと、町に被害はでていないようだけれど」


「よ……よく、こんなに……走れる……」


 なんとか振り切られることなく走り続けた私が、ぜぇぜぇと息を切らしているというのに、鋭い視線をポロムルに向ける騎士様は汗の一滴すらかいておらず、呼吸も全く乱れていない。クシュ・レーヴァンが持久力に優れるなどと聞いたことはないが、デミと人間の種族差でもなければ、このあまりに大きな身体能力の差は考えられないように思う。

 深呼吸をすること暫く。今にも口から飛び出て着そうな心臓を何とか押さえ込みつつ、私はポーチから双眼鏡を取り出してマオリィネに手渡した。


「ありがと――防壁が損傷してるようには見えないし、市中から黒い煙が上がってるなんてことも……?」


「あぁ、そいつはまだだな」


 突然聞こえてきた濁声に、マオリィネは双眼鏡を投げ捨てて咄嗟にサーベルへと手をかける。一方の私は、息が整えられていなかったこともあって反応が遅れ、ベルトに挟んだケンジュウに触れる事さえできないまま硬直していた。

 とはいえ、その相手は見覚えのある極彩色のクシュだったが。


「流石は王国騎士中でも名だたる剣豪トリシュナー。いい反応してるな」


「た、タルゴ……驚かさないでくれる? というか、こんな場所で何してるのよ」


「お前たちのウォーワゴンを警備する以外、草っぱらの廃墟を前にすることがあると思うか?」


 タルゴは鮮やかな色彩を散りばめる見た目からは想像しづらい酒焼け声で、頭よりも大きな嘴をパカパカさせながらため息をつく。

 思えば、ポロムル近くに放置していかざるを得ないタマクシゲの警備に関して、キョウイチがヘルムホルツにお願いしていたように思う。私としたことが、司書の谷に向かうに当たり、色々衝撃的なことがありすぎて完全に忘れていたのだ。

 それはマオリィネも同じだったらしく、真横に首を倒したタルゴのあまりに鳥の顔すぎて読めない表情に対し、少し気まずそうに視線を泳がせてから、申し訳なさそうに頭を下げた。


「えぇっと、その……確かに頼んでいたわね。ごめんなさい」


「別に気にはしていないがな。それより、ホウヅクはまだ届いてもいなかっただろうに、よく絶好の潮に戻ってきてくれた」


「どういうこと?」


 息を必死で整えながら、私は落ち着いた渋い声を響かせる彼の顔を覗き見る。やはりその獣らしい顔は鏡に映る自分より表情がわからないが、口調から少し緊迫した空気が伝わってきており、マオリィネも表情を引き締め直していた。


「昨日の夜中、王国海軍が海戦で大敗したそうだ。1隻だけ消し炭みたいになって帰ってきた軍艦が言うには、帝国艦隊は王国の船を丁寧に沈めながらポロムルに向かってるらしい」


 キメラリア達が感じた臭いの原因にグッと唾を呑む。

 歴史を読めば、王国軍と帝国軍はベル地中海の制海権を長く争っている。だが、カサドール帝国がリンデン交易国と友好を結んでこの方、その名の通り貿易経済を重視する交易国との関係悪化を避けるため、ベル地中海における両国海軍の衝突は沿岸部における小競り合い程度に縮小されていた。しかも、リンデン国旗を掲げる商船が見えれば、両軍共に戦いをやめて引き返すくらいの特別待遇だ。

 それほどまでに交易国を通じて得られる物。王国は鉱物と嗜好品、帝国は大量の食料に依存していたと考えるべきであろう。もしかすると、戦争による国交断絶があったとはいえ、実際に帝国で食べられていたコゾパンはユライアランドで今年も豊作だったコゾの可能性もあるし、逆に王国軍の武具は帝国西部鉱山から産出した金属で作られているかもしれない。

 交易国の首脳陣は、顧客が対価を支払うなら親でも差し出すことを信条としている商人たちであるため、世界の争いを遠巻きに眺めながら私腹を肥やしているのは疑いようもない。その商人が命よりも大切にする物流を破壊する大海戦に、飢えているはずの帝国が手を出した。

 それはつまり、絶対に勝つ自信があるからだ。その理由など最早考えるまでもないため、タルゴは緩く首を横に振った。


「俺に海戦のことはよくわからん。だが、市中で情報収集に当たってるラウルが言うには、王国軍は帰ってきた消し炭船を港の防壁にするとか言って、夜明け前に自らの手で沈めたらしい」


「名実ともに全滅――これでベル地中海は帝国のなすがままというわけね」


「帝国艦隊は生半可な数じゃないんだろう。纏めて上陸してこられれば、ポロムル守備隊と俺たちだけで太刀打ちできるとは思えん。だが――お前たちは帰ってきた。リビングメイルを操る英雄が居るなら、艦隊なんて目じゃないだろう?」


 タルゴはニヤリと笑うように、大きな嘴を薄く開けて拳を握る。その一方で、マオリィネは言葉に詰まっていた。

 スノウライト・テクニカの地下で起きた戦いの後、調査に当たったヴィンディケイタたちは、無残に破壊された複数のクラッカーやマキナを目にしており、キョウイチという存在の規格外な強さを知っている。いくら相手が強大な帝国であっても、現代人で太刀打ちができない存在であるというくらいには。

 だが、現実は彼の期待ほど甘くない。それを口ごもるマオリィネに代わり、ようやく息が整ってきた私は、タルゴに対して緩く首を横に振った。


「こちらの状況を説明しておきたい」


 また不思議そうに首を傾げる色鮮やかな彼に、私は予想以上に早く戻ってきた理由と、キョウイチが一緒ではない現状を掻い摘んで話す。

 すると暫くタルゴはグゥと咽を鳴らしていたが、やがてそれでもと小さく手を打った。


「なるほど……状況は楽観できんわけだ」


「キョウイチ達には緊急連絡を入れておく。彼の準備が整うまでは、私たちだけで何としても、ポロムルに攻めてくる帝国軍を抑えこまないといけない」


「いえ、それだけじゃないわ。帝国軍が後先考えず総力をあげてくるなら、間違いなく王都にも同時攻撃をしかけてくるわよ」


「向こうに居るホルツ殿たちから連絡はないが……いや、これが侵略戦争である以上は、考えるまでもないな」


 これがただ人間同士が刃を交えるだけの戦争であればどれだけよかっただろう。

 王都の頑丈な防壁と蓄えられた食料があれば、如何に帝国が戦力に勝っていようと陥落させることは容易ではない。

 だが、敵はミクスチャを連れてくる。その数は想像もつかないが、少なくともマキナなしでどうこうできる物量ではないだろう。

 だからと言ってポロムルを見捨てて帝国海軍を放置すれば、撤退に続く撤退によって王国が降伏してしまう可能性も考えられた。

 どれもこれもあくまで仮定。だが、それでキョウイチが築こうとしている平穏な生活が乱されるのなら、私は無茶だとわかって居ても全力を持って敵を迎撃する方を選ぶ。

 それがたとえ突貫で考えた作戦であってもだ。


「タルゴ、1頭でいいから軍獣アンヴを用意することはできる?」


「あぁ、それくらいなら市中で手に入れられるだろうが……たった1頭でどうするつもりだ?」


「帝国軍にミクスチャがあるように、私たちにもがある。大軍を相手にするなら、マオリィネが扱う力が1番有効なはず。逆にミクスチャへの対応には、強力な魔法が撃てるポラリスを同行させる。どう?」


 このために彼女は汗だくになりながらカソウクンレンに叩き込まれていたし、私はそれがどういう物なのかを外から眺めていた。だからこそ、付け焼刃でもマオリィネが手に入れた古代の力があれば、圧倒的な帝国の大軍でも相手にできると確信できたのだ。

 しかし、当のマオリィネは想像もつかない話だったのか、ポカンと口を開けたまま硬直すると、やがて呆れたように笑いながら長い黒髪をふわりと掻き上げた。


「ホント、よくそんなこと即興で思いつくわね……気づいてる? シューニャも大概化物よ」


「誉め言葉と受け取っておく」


 ポンと肩に置かれた手に、私は小心な自信を僅かに深める。

 とはいえ、秘密兵器のなんたるかを知らないタルゴは、おいおい、と言って黒い後ろ頭を掻いた。


「戦力を分断すれば両方が潰される可能性もあるんだぞ。こういう時は最重要の王都に注力した方がいいんじゃないか?」


「私たちに必要なのは敵の殲滅ではなく時間稼ぎ。万全の態勢になったキョウイチとダマルが到着するまで持ちこたえられれば、帝国軍を殲滅するのは難しくない」


「シューニャの言う通りね。綱渡りはいつものことだもの、やってみせるわよ」


「おま――随分と楽観的な騎士様だな。どうなっても知らんぞ?」


 ヴィンディケイタは一騎当千の戦士である。そんな彼でもなお、私たちの言葉はとても信じられるものではなかっただろう。あまりにも現実味のない自信に大きな嘴からはため息が漏れていたが、それを見てマオリィネは口を隠して上品に笑った。


「っふふ、私は騎士である前に女だもの。愛した男が駆けつけてくれることくらい、夢見てもいいじゃない?」


「お前に付き合わされる臣民は堪らんな――わかった、軍獣は手配しておいてやる。そっちも準備を急げよ!」


 彼はそう言うや否や、半ばやけくその様にポロムルの町へと走り出す。

 そして残された私たちは互いに頷きあうと、皆に状況が大きく変わりつつあることを伝えるべく、廃屋の中で静かに眠るタマクシゲへと飛び乗ったのだった。

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