第236話 水煙

 激しい騒音を立てながら、それは水の上を滑るように進む。

 凪いだ海から吹き上がる水しぶきを窓越しに受け、唯一泳げると公言していたことから選抜されたアポロニアは、うひゃぁと声を上げた。


「思ってた以上に速いッスね!」


『ハハハ、そりゃ現代の木造船とエア・クッション艇を比べたら可哀想だ』


 興奮した様子の彼女を笑いながら、僕は狭い艦橋で船体の状況を確認していた。

 ガーデンの軍事施設エリアは陸海空軍の合同基地である、とリッゲンバッハ教授は語る。残念ながら空軍用の施設は未完成で放棄されたそうだが、海軍用の地下乾ドックは完成しており、骸骨はそこに置かれていたこの船に目をつけた。

 千草ちぐさ級エア・クッション型揚陸艇。艦名を白藍しらあいと言うらしい。

 本来はウェルドックを備えた揚陸艦で運用される上陸用舟艇だが、自分の記憶では、後方での近距離輸送に用いられている姿の方が印象深い。これは共和国との戦争において、強襲上陸作戦がほとんど行われなかったことが原因であろう。

 この白藍はリッゲンバッハ教授曰く、テクニカへの輸送任務についていた1隻であり、自らがテクニカより退避する際に用いた船なのだとか。


『とはいえ、僕も驚いてるよ。色んな意味で本当に動かせるとは思わなかったな』


「そうなんスか? ダマルさんがなんでも直せるのは、前からだと思うッスけど」


『今までのは陸軍の装備だったからね。それに――』


 不思議そうなアポロニアを前に、僕は狭い艦橋の中央に陣取る黒いアイロンを見下ろした。

 ただの機甲歩兵である自分や陸軍整備兵だったダマルに、まともな操船経験などあるはずもなく、たとえ整備ができたとしても、エア・クッション艇などとても運用できるものではない。だが、その致命的な問題を解決したのが、このリッゲンバッハカスタムのオートメック、パシナである。

 相変わらず身振り手振りでしか意思疎通はできないものの、本来整備機械でしかないはずの踊るアイロンは、白藍がガーデン地下乾ドックから傾斜エレベータで搬出され、ベル地中海と外洋を結ぶ海峡に降ろされるや否や、無線接続で危なげなく船を操って見せていた。


『優秀なもんだよホント』


 事故発生に備えて翡翠を着装している僕は、金属の手で黒く丸っこいボディを撫でる。するとパシナはこちらへ大きなカメラを回したが、自分から何の指示も出ないとわかると、不思議そうに身体を揺すっていた。ただの作業機械に感情があるかはわからないが、どうも生物臭いオートメックである。

 ただ、それをジッと眺めていたアポロニアは何を思ったのか、にんまりと口を横に伸ばした。


「ねぇご主人? もう沈む心配もなさそうですし、マキナ脱いで潮風でも浴びないッスか? ほら、久しぶりにお日様の下なんスから」


『そりゃ難しいなぁ。高速航行中に甲板へ降りたら、さっきみたいな水飛沫を直に被ることになるよ』


 通常の船舶に比べて、エア・クッション艇である千草級の速度は凄まじく、いかに凪いだ海面であろうとも、現代ののんびり進む木造船と違い、とんでもない量の水が甲板には降り注ぐ。そのため、定員10名の艦内に収まらない数の人間を輸送する際には、甲板上に専用の人員収容モジュールを取り付けなければならなかったほどだ。

 しかし、アポロニアは余程太陽の日差しが恋しかったのか、腕組みをして唸る。


「うーん……シラアイって水の上じゃ止められないんスか?」


『そりゃ推進器を停止すれば止まれるが――』


「だぁったら止めてもらえばいいッス! ほら、色々試さないとダメだって言ってたじゃないッスか? ついでに外の様子も見にいけばいいッス。それで安全がわかればマキナも脱いで、気持ちよく潮風を浴びれるッスよ」


『む……それは確かに』


 少なくとも自分達にダマルが課したのは、白藍が機能上問題なく運用できるかの試験であるため、思いつく限り色々な状況を想定した行動をとっておくべきだろう。

 だが、まさかアポロニアがこんな提案をしてくるとは思いもよらなかった。

 何せ僕は彼女のことを、シューニャやマオリィネと比べて、古代機械の理解にはあまり積極的でない、と考えていたのだから。


『いい提案だアポロ。よしパシナ、停船させてくれ。その後は、別命あるまで待機状態を維持』


 こちらの命令に従い、パシナは推進用プロペラのピッチを変更し、白藍はまた派手に飛沫を巻き上げながら停止する。その途中、隣で手すりに掴まっていたアポロニアが、小さくガッツポーズを作っていたように見えたが、理由はよくわからない。


『停止確認。アポロ、僕に続いてくれ。何か気付いたことがあれば、どんな事でも報告して欲しい』


「了解ッスよ」


 何が嬉しいのか、ニマニマする彼女を背に、ゆっくりと水密扉を押し開く。

 船体後部に設置された2つの推進用プロペラはきちんと動きを止めており、派手な先ほどまでのように、海面を波立たせたりはしていない。その一方、水上停止であるためエア・クッション部への空気供給用のエーテル機関は騒音を立て続けており、外に出てきたアポロニアは、耳を押さえて顔をしかめた。


「か、かなりうるさいッスね!」


『エア・クッション艇っていうのは、そういうものだよ!』


 分かっていた事ではあるが、半ば叫ぶようにしないと会話ができない環境で、優雅に潮風を浴びられるわけもない。

 とはいえ、一番の目的は運用試験であるため、僕はマキナを着装したまま各部を見て回り、異常がないことを確認してから再び大して広くない艦橋に戻った。


『高速航行後の水上停船も問題なし。あとは揚陸行動ビーチングができれば完璧だが――アポロ、なんかげっそりしてるけど、大丈夫かい?』


 後ろについてきていたアポロニアを見れば、何故か先ほどまでの明るさが消え去っており、尻尾もシュンと垂れ下がっている。その様子はどことなく、散歩を拒否された犬を彷彿ほうふつとさせたが、気分が優れない様子に僕はあることを思い出して慌てた。


『あっ、もしかして乗り物酔いか! すまない、君が揺れに弱いことを完全に忘れていた』


「んぇ? べ、別に気持ち悪くはなってないッスよ」


『しかし、さっきまでと随分様子が――』


「はぁ……ご主人の鈍感は治らないッスねぇ。心配してくれるのは嬉しいッスけど、せっかく2人きりなんッスよ?」


 感情表現が豊かなのはアポロニアの魅力かも知れない。先ほどまで沈んだような表情だったのに、大きなため息をついたあとで、彼女は呆れたような、あるいは諦めたような苦笑いを浮かべて首を振っていた。


 ――なるほど。だから、、か。


 今まで理解していなかったことを恥じる一方、ようやく今までの微妙な言動全てに合点がいった。

 ただでさえアポロニアは、僕が重婚を考えていることを伝えた唯一の相手である。そんな彼女が、2人きりを強調した上でガッカリした様子まで見せるのだから、流石に放っておくこともできず、言い訳がましい言葉が零れた。


『その……なんだ。うん、とりあえず船の安全は確認できたわけだし』


 もごもごと喋る僕に、アポロニアは不思議そうに首を傾げる。

 いくら気恥ずかしいとはいえ、学生でもここまで遠回りなことはしないだろう。そんな自分自身を馬鹿馬鹿しく思いながら、僕はこじつけがましく狭い艦橋の中で翡翠を脱装した。

 当然の事ながら、そんな不必要に白々しい態度がアポロニアに伝わるはずもなく、彼女は微妙な笑顔を浮かべてポニーテールが結われた後ろ頭を掻いていたが。


「あー、ご主人? そんな何か無理してもらわなくても、別にもう気にしてないッスか――キャンッ!?」


「……僕にだって、男としてのプライドくらいはある」


 問答無用、と僕は彼女を抱え上げると、そのまま監視員の席へドカンと腰かけ、ワイパーがガチャガチャ動き続ける窓の外へと視線を投げる。

 自分の行動があまりに突拍子もないものだったからだろう。アポロニアは暫くキョトンとしていたが、僕が顔を合わさないようにしていることがわかったらしく、身体を小さく揺すってクスクスと笑った。


「ホント、面倒くさい人ッスね」


「わざわざ言葉にするんじゃない。自分でも心底そう思ってんだから」


 穴があったら入りたい。恋愛感情に全く不慣れなこの身は、隣に鎮座するパシナにさえ、なんだか笑われているように思えてきて、少々不貞腐れてしまう。

 だというのに、先ほどまで膝の上で笑っていたアポロニアは、パイロットスーツを着た僕の胸に頭を預けると、ほふぅと小さく息を吐いた。


「自分はご主人の不器用なとこも好きッスよ。心の底から、ね」


「……そりゃ素直に喜んでいいものだろうか」


「あ、ちょっと何ッスかその反応。目の前に好き好き言ってくれる女が居るんスよ? それを精一杯愛でるのが男の役目じゃないんスか!」


 しかし何が気に入らなかったのか、アポロニアは勢いよく身体を起こすと、両腕で力強く僕の肩を掴み、僕と正対するように座りなおす。

 その至近距離から真っ直ぐ睨みつけてくる彼女の圧はすさまじく、自分の視線は逃げ場を失い、座席の小さな背もたれを軋ませながら、自然と体が反り返った。


「お、おお……ダマルみたいなこと言うね」


「いーちいち理屈が多いッス! それとも、ご主人は自分のこと嫌いッスか!? 飽きちゃったとか言うんスか!? まだ男女のことなんてなぁーんにもしてないのに!」


「飽きるとは随分人聞きが悪いなぁ。いつだったか、前にも言われたような気がするけど」


「過去のことなんてどーでもいいッス! 今この瞬間に! 目の前にいる自分をちゃんと見りゅむぐ――」


 ヒートアップするアポロニアを見ていれば、逆に自分の頭は冷静さを取り戻す。

 だからこれ以上にならないよう、僕は再び彼女の頭を力づくで胸元へ引き寄せ、くしゃくしゃと頭を撫でまわす。


「僕はアポロのことが大切だし、しっかり愛でてるつもりなんだが、足りないかい?」


「た――!? うぁ、うぁぁあぁ」


 先ほどまでの勢いは何処へやら。腕の中で彼女は尻尾と耳をピンと伸ばすと、その後で一気に脱力して体重を預けてくる。

 そして弱弱しくポカポカと僕を叩いてから、何か意を決したように小さく呼吸を繰り返し、覇気を失って蕩けそうな目で、自分を見上げて呟いた。


「た、足りない、ッス……ぜんぜん、まだ、まだ……」


「そりゃ困ったな。どうしたもんだろう」


「ホントに、ホントに女として見てくれてるんなら、次にしてほしいことくらい分かってほしいッスよ……ん」


 真っ赤に染まった顔でアポロニアは少し視線を泳がせたが、分かれと言う言葉の通り、目を閉じて小さく顎を上げてくる。

 それが何を意味するかくらいは、いくら鈍感と言われ続ける自分にも理解できた。

 アポロニア以外の誰にも、重婚の話はしていない。それに彼女らへの返事もまだだ。そんな言い訳が頭の中を駆け巡る。

 だが、その主たる原因は、忙しさにかまけて答えを先延ばしにしている自分であり、自分をこうも待ちわびてくれているアポロニアに応えないのはどうなのか。


「アポロ――」


 柔らかい頬に手を触れれば、アポロニアはビクリと大きく肩を震わせる。ただそれだけのことで、自らの理性と倫理は欲望によって上書きされていく。それほどまでに硬く目を瞑ったまま小刻みに震える彼女は愛おしく、初めてその唇を奪ってしまいたいと心の底から思えたのだ。

 ゆっくりと迫るアポロニアの顔。躊躇うな、行け、と心のどこかが叫んでいる。

 刹那。


『テストテストォ! 白藍聞こえるかぁ!?』


 突然艦橋に鳴り響いた骸骨の声に、僕らは見事に硬直した。いや、してしまった。

 それも普段通りの音声通信ならばどうということもなかっただろうが、間の悪いことにモニターにはダマルの顔が映り込み、隣に鎮座したパシナのサブカメラは、がっつり自分たちを捉えている。


『おっ……とぉ!? あ、あー……悪ぃ、取込み中だったらしいな。後でかけなお――』


『あー!! アポロ姉ちゃんがチューしようとしてるー!!』


 モニターに表示された髑髏は状況を察したらしく、申し訳なさそうに通信を切ろうとしたものの、同じように画面をのぞき込むポラリスがそれを許すはずもない。スピーカーが音割れを起こすほどの声が響き渡り、すぐにモニターが女性陣で埋め尽くされた。


『へぇ? いい仕事をしたわねダマル、今度アチカの住民勲章でもあげるわ』


『いーぬぅー……自信満々に泳げるとか言ってたのは、そういう魂胆ですか』


『……やってくれる』


『アポロ姉ちゃんでも、キョーイチはぜーったいあげないからね!』


 雰囲気などあったものではない。それどころか、抜け駆けとでもとられたのかアポロニアに向けられる全員の視線が、揃って輝きを失っている。おかげで膝の上に乗ったままだった彼女は、笑顔を引き攣らせながら冷や汗を垂れ流していた。


「い、いやほら、早い者勝ちって話だった、ッス、よね?」


『だからこそ、こちらも全力で阻止させてもらう』


『アハ、アハハッ――剣ができるのが、待ち遠しいですね。いいができそうです』


 シューニャはいつも通り冷たい視線を浴びせるだけで、まだ安心感があるものの、猫型バーサーカーの声と目は本気である。薄い三日月形を作って笑う口が、ここまで恐ろしいと思ったことはない。


「こら、洒落にならないこと言うんじゃありません。それよりダマル、この距離で電波が届いたのはどういう……?」


『お、おう、それなんだがな。教授に何か長距離通信手段がねぇか聞いたら、スリープ状態で保存された通信衛星がいくつかある、なんて言いだすんだぜ? あの天才爺には度肝を抜かれっぱなしだ』


「衛星通信ができるなら――もしかして玉匣とガーデンでも?」


『絶対とは言えねぇが、可能性は高ぇな。だから白藍に問題がねぇなら、女どもに玉匣を預けたらどうかと思ってる』


 これは大いなる進歩と言えるだろう。現代において長距離通信はホウヅクに頼るしかなかったが、無線連絡がつくなら情報共有のタイムロスを大きく減らせる。

 これに伴い、僕はダマルと今後の作戦行動について協議することを決めた。


「白藍に関しても海上行動に問題はなさそうだ。これからガーデンに戻る」


『了解。おいアポロ、やるこたぁ船ん中で済ませとけよ。アウト』


「なっ、あっ、ダマルさんッ!!」


 ガリッという音と共に無線が切れ、モニターから押しあう女性陣の顔も消滅する。

 とはいえ、流石にもう一度甘い空気になれるかと言われれば話は別で、アポロニアはゆっくりと僕の膝から降りると、なんとも言えない表情を浮かべていた。


「――あ、アハハ……なんか、雰囲気なくなっちゃって申し訳ないッス」


「いや、うん。僕も中途半端ですまないと思ってるよ」


 ぎこちない空気に乾いた笑いを互いに投げ合う。それがまた、別に居心地が悪くないのだから不思議だった。

 その一方、最後に彼女が言い放った、早い者勝ち、という言葉は耳にこびり付き、僕はいい加減先延ばしにするのをやめなければ、と深く息を吸って吐く。

 前にあるのは幸せな景色かも知れないというのに、戦場に向かうよりも恐ろしいような感覚が湧き上がり、僅かに身体が震えたのは、アポロニアには気づかれなかったらしい。

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