第185話 カイゼル髭再び

 その日は昼が近づいても気温が上がらなかった。

 太陽が大地を照らしてはいるものの、移り行く季節を暖めるほどの力にはならず、これで空を低い雲が覆い始めれば、雪が降る日も訪れるだろう。

 僕はそんなことを思いながら、防寒着のポケットに両手をつっこんで白い息を吐く。視線の先にあるのは澄んだ泉と、魚を狙って佇む大柄な水鳥くらいだった。


「ねぇさっきから気になっていたのだれど、その服ってまたウィラミットに作ってもらったの?」


 隣で同じように歩いていたマオリィネは、何の脈絡もなくそんな話題を振ってくる。


「ああ、現代にもこんなジャケットがあるとは思わなかったけどね」


 それは暖かい毛皮で作られた、いわゆるシアリングジャケットだった。外側は焦茶こげちゃ色のレザーを外側に、内側はアイボリーの起毛に覆われている。

 軍用ジャケットにも多く採用されたデザインなので、僕としては非常に馴染み深い。

 けれど、マオリィネの反応は想像と違っていた。


「ムールゥ毛皮のコートは珍しくないけれど、こんなのは見たことないわ。またウィラミットがデザインしたのね」


「じゃあこれって、彼女の創作品なのかい?」


「彼女は時々そういうものを作るのよ。なんでも古文書の絵を元にしてるらしいけれど」


 まさかと僕は顔を引きつらせる。

 この防寒着が一般的なデザインでないとすれば、その古文書とやらは間違いなく800年前に書かれた何かに違いない。そして文字が読解できない以上は、写真かイラストからこれを生み出したのだろう。


「ファッション誌とかが古文書になるとはね……どこで見つけてきたんだろう」


「さぁ? コレクタにでも頼んだんじゃな――くしゅんッ」


 穏やかな風にマオリィネは長髪を遊ばせる。その姿は気品ある貴族の物だ。

 しかし緩く運ばれてくる冷たい空気は気品で防げるものでもなく、飛び出した可愛いくしゃみに僕は苦笑してしまう。


「寒いんだから、わざわざ散歩に出てこなくてもよかったんじゃないか?」


「せっかく届いたんですもの。いいじゃない」


 どこか拗ねたように言う彼女は、いつもの黒いバトルドレスの上から、金の刺繍が施された同色のケープコートを纏っている。

 それは今朝方トリシュナー家の使用人だと言う一団によって届けられたもので、マオリィネが父親宛に近況を伝える手紙を出したことが理由らしい。

 朝起きてみれば玄関先に大量の家財道具と衣類が置かれ、その前でダマルが何か諦めたようにタバコを吹かしている姿はしばらく忘れられないだろう。

 しかしマオリィネは防寒用の衣類が到着したことに機嫌をよくし、それが理由で荷物の片付けが終わるや否や、僕を寒空の下へ連れ出したのだった。


「それで、そろそろ感想聞かせてよ。似合ってる?」


 そしてご機嫌は今なお続いているのか、彼女はケープコートの裾をつまんで、僕に笑いかけた。

 マオリィネは残念なところがあるとはいえ、ダマルが初見でクールビューティと称する程の美人である。黒金の色味が高級感を漂わせる衣服が合わないはずもない。

 しかし言語化するのは非常に難しいのだ。


「あぁ、凄く似合ってるよ。なんというか、マオらしい感じで」


 褒める語彙力の無さが自分でも嫌になる。気の利いた言葉だけを集めた辞書があるならば、常に持ち歩きたいと思うってしまうほどだ。

 しかしそれを聞いたマオリィネはどこか困ったように、けれど僅かに頬に朱をさしてはにかむ。


「本当に不器用なんだから」


「すまない。自覚はあるんだが、どうにも治りそうになくてね」


「正直なのはいいことよ。ありがと」


 ふふんと澄んだ鼻歌を口ずさみながら、彼女は踵を返して歩き始める。どうやら帰る気になったらしい。

 僕はその後に続きつつ、自分が口にした内容の気恥ずかしさに頬を掻いた。

 疎らな木立の隙間を歩いてゆけば、時折リスに似た小さな生物が足元を駆け、落葉樹に残されていた枯葉が舞い落ちてくる。

 そんな中で半歩前を歩くマオリィネは、視線を合わせずに小さく呟いた。


「少しは、ほどけたのかしら?」


「何が?」


「貴方の心のこと。ストリさんの話は聞いていたから、ね」


 一瞬身体が緊張したが、すぐにあぁ、と苦笑に力を抜く。

 少し前までならばこうはいかなかっただろう。けれど、ファティマやシューニャと向き合う中で必ず出てきた彼女の名に、少しやっぱりかと思う心があった。


「なんだ、君にまで知られていたのかい。皆口が軽いなぁ」


「悪いとは思ってるわ。触れられたくない過去なんて、誰にでもあるものだし――」


「いいんだ。どうせいつかは決着をつけないといけないことを、皆が後押ししてくれただけだから」


 自ら口にしたことに不安を浮かべるマオリィネに、気にするなと首を振る。

 むしろ自分が言い出さねばならなかったことを、彼女たちは肩代わりしてくれたと言うべきなのだ。そしてマオリィネが知っているのなら、全員に知れ渡っていることは想像に難くない。

 自分が後手後手になっていることを情けなく思いつつ、けれど身内の優しさに僕が微笑めば、彼女は安心したように息をついた。


「ごめんなさい。けど、その……決着、つけられそうなの?」


「僕にとっては何より難しいことかもしれない。だが、ストリのせいにして逃げるのはやめようと思ったんだ」


 今までならば心が痛くて苦しくて、身体を引き裂くような衝動が涙として溢れ出たような話である。それを恨みという破壊衝動に乗せて発散しなければ、自分は人間らしさを偽る事すらできなかった。

 それが少しでも笑って話せるようになったのは、少女たちの献身が成した弱弱しくも大きな1歩だろう。

 そんな僕の姿に、マオリィネは優しく目を伏せる。


「なんだ。もう進めてるんじゃない」


「何?」


 彼女の小さな呟きは木々のざわめきにかき消され、よく聞こえなかった。

 しかしもう一度繰り返すつもりはないのか、足取りを早めるとこちらを振り返ってにこりと笑う。


「冷えてきたし早く帰りましょう? お茶を淹れてあげるわ」


「へぇ、そりゃ楽しみだ」


 貴族しか口にできない嗜好品。800年ぶりのお茶の誘惑に、僕はあからさまに打ち切られた話題を拾うこともせず、揃って家路を歩いた。

 ただし、この判断はすぐに間違いだったと気づかされる。



 ■



 前庭に佇む複数の人影。そして豪奢な獣車。

 お仕着せ姿の者がほとんどあり、それが軍隊のような整列を見せているのは圧巻だった。それが我が家の前でなければなおよかったのだが。

 それがちらりと見えた瞬間、僕はマオリィネに木陰へと引きずり込まれていた。


「なんだい急に」


 小声で苦情を告げれば、マオリィネは口を真一文字に結んだまま顔を青ざめさせて、額から滝のような汗を流す。

 その姿には優雅な雰囲気など微塵も残っておらず、まるで宿題を忘れた学生のような怯え方だった。

 一体何が問題なのかと僕は再度前庭を覗きこみ、正面に立つ人物にあぁ小さく零す。


「ガーラット・チェサピーク、かい?」


「こうならないようにエデュアルトに頼んでいたのにぃ……」


 うぐぅと頭を抱えるマオリィネ。

 ここで隠れていてやり過ごせるならばそれもいいが、最悪家に火でも放たれてはかなわない。あの拗らせた髭伯爵ならやりかねないのだ。

 おかげで警戒を強めつつ状況を眺めていると、どうにも以前の覇気がないことに気付いた。なんなら僅かに腰も退けており、城壁上で剣をぶつけ合った武将とは別人なのではないかとさえ思えてくる。

 そしてその原因もすぐに理解できた。


「……マオ、あの婦人はどちら様かな」


「えっ、婦人って――もしかして!?」


 どうやら彼女にはガーラットしか見えていなかったらしく、慌てて茂みの陰から覗き込み、ぱっと表情を輝かせた

 それはどこか一縷いちるの希望を掴んだようで、今まで隠れていたのが嘘のように悠然と飛び出していく。


「チェサピーク卿、伯爵夫人、ご機嫌麗しゅう」


「おぉ、マオリィネ! まさかお主から出てきてくれるとは思わな――ぐぅっ!?」


 眼前に現れた愛弟子に喜色を浮かべるガーラット。しかしその表情は瞬く間に歪む。

 乾いたコーンという音に足元を見れば、伯爵の脛目掛けてステッキが振り下ろされていた。それが相当な痛みであったことは、流れる脂汗と苦悶の呻きから容易に想像できる。


「マオリィネ、大きくなりましたね」


「リヴィエラ様もお変わりなく」


 うむ、と仰々しく頷くのはそのステッキを叩きつけた婦人である。

 豪奢なドレスを身に纏い、宝飾品を身に着けた姿は実に貴族的である一方、その視線や表情は非常に厳格な雰囲気を漂わせていた。

 しかしマオリィネは気負うこともなく、至って自然に談笑する。


「しかし本日はどのようなご用件でしょう?」


「コレが随分な面倒ごとを起こしてくれたと耳にしましてね。件の者は居るのですか?」


「あぁ、アマミのことですね」


 婦人の言葉にマオリィネはちらりとこちらへ視線を流し、僕に出て来いとアイコンタクトを送ってくる。

 そんな状況では流石に隠れ続ける訳にもいかず、できるだけ自然を装って茂みから歩み出した。

 すると途端に今までうずくまっていたはずのガーラットがシャンと立ち上がり、ゴフゥと烈火の息を吐く。


「きさまぁ……よくぞ吾輩の前にノコノコと――!」


「お黙り」


 再び同じ音が響く。

 一応にも相手は剣豪ガーラット・チェサピークであるが、婦人のステッキは寸分違わず彼の脛を打ちぬいていた。


「ぬぐおぉぉぉぉ……同じ場所はやめよとあれほど……」


 崩れ落ちる武将。それにも彼女は一切表情を揺らがせることなく、ただひたすらこちらをじっと睨み、ふむと息を鳴らす。


「貴方がアマミ・キョウイチですね?」


「あの、失礼ですが貴女は?」


「こちらはリヴィエラ・チェサピーク伯爵夫人、ガーラット様の奥様よ」


「コレが随分な迷惑をかけたようで、今日はそのお詫びに伺わせてもらいました」


 マオリィネの紹介に小さく頷くリヴィエラは、身体をピクリとも揺らさないままで淡々と語る。

 張り詰める貴族特有の空気を持つ夫人に僕は気圧されつつ、最低限の礼儀は維持して頭を下げた。


「そ、そうですか……とりあえず立ち話もなんですし、中へどうぞ」



 ■



 使用人2人を背に、ソファへ腰かけたガーラットとリヴィエラにマオリィネが事のあらましを説明する。

 僕は夫人から質問が飛んでくるタイミング以外では口を開く隙も無く、ただ正面からガーラットにとんでもない視線を向け続けられるだけで、なにをすることもなかった。その視線さえも、隣でステッキをチラつかせられたことで鎮圧されている。


「……そうですか。やはり勅命に背いたのは、コレの独断で間違いないようですね」


 乾いた笑いを浮かべるマオリィネに、リヴィエラは深々とため息を付き、ギラリと厳しい目を向けた。

 流石に僕もそうですとは言えなかったが、この場で沈黙したことは肯定としか取れないため、四方を敵に囲まれたガーラットは慌てて弁明に走る。


「ま、待つのである! 吾輩は素性の知れぬ輩の毒牙からマオリィネを守ろうとしてであるな!?」


「それが勅命に背くほどの理由になる、と?」


「ぐ、う……しかし、女王陛下に意見するのもまた忠臣であればこその行いであろう」


みことのりが発される前であればそれも正しいでしょう。しかし発された後であれば、臣は身命を賭してもそれを成し遂げる以外にない。そうですね?」


 ガーラットが正当性を主張する度、リヴィエラは視線と言葉の冷たさを重ねていく。

 近づく絶対零度に初老の貴族は顔を青ざめさせ、しかしそれでもマオリィネへの執着は捨てきれず、ドンと机を叩いた。


「だ、だが、放浪者風情と由緒ある貴族が婚姻など――」


「わぁああああ!? いきなり何口走ってるんですかッ!!」


 老騎士が苦し紛れに零した一言に、マオリィネが慌てて叫ぶ。

 しかし静かな部屋の中で響いた低い声をかき消すには至らず、その言葉はハッキリと僕の耳に届いていた。


「婚姻? それは勘違いの――ごほっ!?」


「掘り下げなくていいから! そういう話じゃなかったでしょ!?」


 腹部にマオリィネの肘打ちが突き刺さり、声が肺の空気が放出される音に切り替わる。

 以前はガーラットの勘違いと聞いていたが、彼女の反応からどうにも嘘が混ざっているらしい。ただ、勅命の繋がりは全く理解できなかったが。


「マオリィネ、はしたないですよ」


「う……す、すみません」


 ぴしゃりとリヴィエラが言えば、マオリィネは小さくなる。それは派手なエルボーではなく、慌てふためいて大きな声を出したことに対する叱責だった。

 しかし夫人は不思議そうに眉を顰める。


「アマミさんは勅命の内容を聞かれていないのですか?」


「自分の目付け役と伺っていますが――」


 と、僕が口走った途端、リヴィエラはピクリと眉を跳ねさせた。

 今まではガーラットにだけ向けられていた冷たい炎が、マオリィネに指向していくのが手に取るようにわかる。それは今まで和気あいあいと語りあっていた彼女が、またも大量の冷や汗を流し始めたことで確信となった。


「まさかとは思いますが、勅命を果たす気が無いわけではありませんね?」


「い、いえ、そんなつもりは決して!」


「では何故伝えないのです。まさかアマミさんとの婚姻に不満でもあるのですか?」


 リヴィエラが告げた衝撃的な内容にマオリィネは黙って俯き、ガーラットは苦々しげな顔を隠そうともせずこちらを睨む。

 しかし誰よりも驚いたのは僕だったに違いない。目の前に鏡があれば、間違いなく間抜けな顔を映し出していたことだろう。


「僕との、婚姻……だって?」

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