第32話 お役に立ちます

 アポロニアが突如呼び方を変えたことに僕は困惑した。

 どう心境が変化すれば、ご主人などという言葉が出てくるのだろうか。

 しかし、僕が訝し気な表情をしたことにか、彼女は細い牙を見せて勝ち誇ったように笑う。


「自分、結構お役に立つッスよ?」


「捕虜が役に立つ、と言われてもな」


 今のアポロニアは、機密保持の観点から野に放つこともできず、大人しくしている間は命を保証する約束をした以上殺すこともままならない死重デッドウェイトだ。

 そんな状況の捕虜が役に立つ場面とは何か。しいて言えば帝国相手の交渉カードくらいだろうが、身分の低い斥候兵1人では、現代の倫理観では尊い犠牲として捨てられる可能性の方が間違いなく高い。

 何より、今の自分たちには帝国と交渉する必要性が欠片も存在しないのだ。

 

「自分の持ってる情報で、ちょーっと見直してもらえないッスかね?」


「情報……? 今の僕らは帝国軍の内情なんて別に――」


「地域の詳細地図ッスよ」


 僕の言葉に被せるようにアポロニアはそう言った。

 現代に地図の希少性は理解しているつもりだ。コレクタユニオンで初めて目にしたが、そこに縮尺などあったものではなく、あまりに抽象的過ぎて自分たちの役には立たない。

 だが、地域の詳細情報となれば話は大きく違ってくる。それがどのくらいの確度の物かはわからないにせよ、最低限地形が把握できれば作戦行動もとりやすくなることだろう。


「おや、ブレインワーカーさんは信じてなさそうッスね」


 アポロニアが視線を追って振り返れば、いつの間にかシューニャが僕の後ろで話を聞いていた。

 彼女は腰に手を当ててふぅと息を吐き、あり得ないと首を横に振る。


「詳細地図は国家における重要軍事機密。ただの兵士が持っているとは思えないし、貴女の雑嚢の中にそんなものは入っていなかった」


「だ、そうだけど?」


 疑いの目がアポロニアに向けられる。

 しかし犬娘は余裕がある態度を崩すどころか、さっきよりも自信を深めたように目を細めてニンマリと笑う。


「そこらの斥候兵と百卒長直属の斥候を一緒にしないで欲しいッスよ」


「どう違うのか、僕にはわからないんだが」


「自分に求められたのは百卒長の目になる事。でも論より証拠ッスかね。ちょっと自分の鎧下を捲ってほしいッス。あ……恥ずかしいんで、ご主人にはあんまり見ないでほしいって言うか」


 シューニャの身を案じる僕はアポロニアの言葉に悩んだが、エメラルドの瞳から恐ろしい程強い視線を向けられては何も言えず、大人しくその場で回れ右をする。

 背後からは衣擦れの音がしばらく響いた後、シューニャが僕の背に何かをポンと当てた。


「キョウイチ、これを」


 背中越しに受け取ったのは妙な皺がついた羊皮紙だった。機密を守るために隠していたのも事実らしく、ほんのりと体温が残っている。

 それを見る限り、アポロニアの言葉に嘘がないことがハッキリした。


「これは何処の範囲を示している地図だい?」


「ロックピラーとフラットアンドアーチの詳細図ッス。できるだけ細かい偵察情報を伝えるために、百卒長から渡された複写品ッスよ」


 言わばそれは略測図であり、地形や街道の位置が正確に描かれている。等高線や縮尺の記載は流石に見当たらなかったが、抽象的すぎる絵図とは比べ物にならないほどの精度であることは疑いようもない。 

 軍が配置図としても使うことを前提としているらしく、重要機密と言ったシューニャの言葉も裏打ちされた。


「なるほど、役に立つということは認めよう。けれど、君はこれで何を望むんだい?」


「自分をご主人の下働きとして雇ってほしいッス」


「……はい?」


「もう帝国軍に帰る気はないッスけど、ご主人たちの秘密を知った以上自分はずーっと虜囚のままッスよね? それならいっそうのこと、懐に入れてもらえないかなっていうご提案ッス。そうしちゃえば、ご主人たちも安心できて自分も死なずに済んで皆幸せじゃないッスか」


 悪くない提案だとは思う。

 重要軍事機密を晒してしまった以上、彼女は既に国家反逆罪を犯した重罪人であり、帝国軍へ戻る道は完全に断たれたと言っていい。とはいえ、昨日の敵は今日の友を言葉のままに実行できるほど、僕は楽観的になれなかった。

 アポロニアは僕とシューニャの顔を交互に見比べていたが、中々結論が出ないことに焦り始めたのか、自信満々だった表情を徐々に曇らせる。


「やっぱり口が軽そうだから駄目、とかッスかね……?」


 しゅんと小さくなる彼女を見ていると、これ以上ないくらいの罪悪感が心に突き刺さってくる。

 アポロニアは捕虜という弱い立場であるにもかかわらず、情報という切り札を先出しで提示して見せた。ここで仮に自分が、貰うだけ貰っておく、などと言い出してしまえば、彼女は機密を漏洩させた罪を背負うだけで何も得られないことになってしまうというのに。

 だからこそ、僕は言い訳のように即決を避け、もう少し対話を重ねてみることに決めた。


「確かにこっちの秘密をばら撒かれては堪らないが、心変わりには何か理由があるんじゃないのかい?」


「そりゃあ死にたくないってのが1番ッス。けどまぁ、その、それだけでもなくて」


 口籠るアポロニアに僕はシューニャと顔を見合わせる。

 降伏してこの方、彼女が繰り返しているのは死にたくないの一言であり、むしろ秘密の漏洩に関しては大して心配もしていない。

 だからこそ、他の理由という部分に興味が湧いたのだろう。僕は黙ってアポロニアが喋り出すのを待った。


「怒らないで欲しいんスけど、ご主人が、その……キメラリアを人間と対等に扱ってるように、見えたから――ッス」


「あー……これは僕がおかしいのかい?」


「私も含めて、キメラリアに対する差別意識がない人間が居ないとは言わない。けれど、それは社会的に見たら変人で、しかもキョウイチのように体を張って救おうとするような人はまず居ない」


 シューニャの淡々とした解説を聞いていたら、なんだか無性に腹の底がムカムカしてくる。おかげで自分の口から出た言葉はどこか刺々しくなった。


「何故キメラリアだからと差別される必要がある。人間が偉いわけでもないだろう」


「大昔にあったと言われるキメラリアの国が戦争で人間に負けたことが理由だと言われている。それが、


「今の、かい……どうにも腹立たしい話だ」


 僕は吐き捨てるように言った。

 現代において自分が非常識なのは今日に始まった事ではないが、この事柄に関しては常識人になりたいとは全く思えない。


「思った以上にご主人は変わり者ッスねぇ。顔が怖いッスよ?」


 そう言ってアポロニアはコロコロと笑った。

 おかげで僕の中にあった毒気は完全に抜き去られ、なんだかやけに恥ずかしいことを口走っていたように感じる。

 挙句、シューニャがそれに追い打ちをかけた。


「キョウイチはこういう人。私もこの考えは嫌いじゃない」


「す、すまない……大人げなかったね」


 これが八つ当たりになってしまった自分への報復ならば、驚くほど効果的だっただろう。

 しかし、シューニャは無表情のままで首を傾げるばかりで、こちらに挽回の機会すら与えてくれなかった。

 その様子を見ていたアポロニアは、緊張が抜けたかのように大きく息を吐く。


「かーっこいいッスよぉご主人。こんなの見せられて、掃き溜めに戻ろうって気にはならないッス」


「ぐ……やめてくれ、物凄く恥ずかしい」


 あまりの羞恥に顔を背ければ、背中にシューニャとアポロニアの視線がチクチクと突き刺さる。決して悪い感情ではないのだろうが、ほぼ公開処刑となってしまった。


「理由はこれだけッスけど、ダメッスか?」


「キョウイチ、どうするの?」


 急かされる判断に、僕は何度か深呼吸をしてから頬を平手で数回叩き、咳ばらいをしてから振り返る。


「アポロニアの考えはわかったし、地図の恩もある。だが昨日の今日だから、とりあえず経過観察とさせてくれ。君が本当に誠実なら、僕はちゃんと報いるつもりだ」


 最大限の譲歩と称して、僕は逃げられるだけの逃げを打った。

 すると彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべてそれじゃあと聞いてくる。


「自分が誠実じゃなかった場合はどうなるッスか?」


「それは……どうしようかな」


「喋れないように喉を潰して、字が書けないように指を斬って、あとは人の通らない場所に捨てておきましょう」


 突如背後から響いた間延びした声に背筋が凍りつく。

 砲塔のタラップに足でぶら下がっているのだろう。砲手席の入口から上下逆さまになった頭を覗かせたファティマは、金色の瞳を爛々と輝かせながらアポロニアをじっと見つめている。

 いつも通りのぼんやりした表情ながら、そこにはイルバノを肉塊に変えた時と同じ、肉食獣が狙いを定めるような迫力が感じられた。


「ファティは言うことが物騒」


「そーですか? うそつきさんには適切な罰だと思いますけど」


 口調からだけならば子供に対する軽い折檻のようだが、さっきの残虐行為を聞かされては血生臭さがまったく拭えない。

 敵となった者に容赦しないというのは戦士として頼もしい限りだとは思う。もちろん自分も兵士であったからには、敵対者に対してならば誰であろうとトリガを引く自信はあった。

 とはいえ、そのやりかたを聞いてしまうと、今後ファティマに対してもう少し道徳教育を施すべきだろうとは思わされたが。

 そして当事者であるアポロニアは、自らがそうなるかもしれないと想像してしまったらしく、顔からあっという間に血の気が引き、怯えた目を僕に向けてきた。


「あの、ご主人……自分はちゃんと約束は守るッスから、死ぬより辛いことは本気で勘弁してほしいッス」


「さっきも言った通り、君が本当に誠実ならそんなことはさせないよ。そうでなかった時は、本気で保証できないが」


 アポロニアはそんな僕の言葉に、太い尻尾を足に巻きつけながらコクコクと何度も頷いた。


「それで十分ッス! た、頼りにしてるッスからねご主人!」


「あぁ」


 袖にしがみついてくる犬娘に、僕はそこまで怯えなくともと後ろ頭を掻く。

 出会いの形があれほど最悪でなければ、こんな珍問答をしなくとも受け入れられた気がして、余計に帝国軍への恨みが募ったように思う。

 一応の決着点が決まった事で、アポロニアへの待遇は捕虜から経過観察中に切り替え、就寝時以外は拘束しないことと、玉匣内での自由な発言及び行動を認める決定を下している。

 こうして仮ではあったものの、道連れが1人増えることとなったのだった。

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