第36話:魔王は さらに 胃を 痛めた!

 キリキリ。

 胃が軋む。

 無論、本当に軋んでいる訳ではない。そんな気がするというだけの事である。

 そろりと腹に手を当てていた手を離す。それとともに止まっていた右手を動かし始める。

 今日は珍しく外仕事がなかったので朝から机仕事に従事しているのだが、今一つ身が入らない。

 リオネッサの様子がおかしい。

 そう。リオネッサの様子がおかしいのだ。

 なんだかそわそわとして落ち着きがないし、話しかけても上の空だったり、的外れの返事をする。

 何か隠し事をしているようなのだ。

 リオネッサが、私に、隠し事。

 ギリギリ、と痛む胃をさすり、再びペンを動かす。魔王としての職務は全うしなければならない。

 書類の内容を確認して署名をしていく。


 城下町の整備計画を立てるための調査許可申請。

 人界への輸出物一覧。

 人界からの輸入物一覧。

 魔鉱石発掘量。

 魔素濃度調査報告。

 魔王城の上半期予算収支決算報告。

 下半期予算見積。

 会議室使用者予約名簿。

 瘴気発生報告とそれに伴う魔物、魔獣の発生、討伐報告。


 いくらかの書類を捌き、二つの山とした所で手を止めた。

 改めて見ると随分書類が増えたものだ、と感慨深くなる。

 先代の時代は執務室の机に山と書類が積まれていた事はなかったように思う。

 それだけ書類が増えたという事であり、記録する機会も増えたという事だろう。

 城の中だけだが、ゆるゆると識字率も上がってきている。

 リオネッサの学ぶ姿を皆が見習っているという事であり――

 ぐう、と漏れそうになる息をなんがとか飲み込み、腹に手を当てる。

 仕事に没頭する事で考えない様にしていたというのに、思考はすぐにリオネッサの事を追ってしまう。

 未勝利の書類は朝よりも格段に少なくなっていた。この分なら晩餐前に片付いてしまうかもしれない。

 片付けられたなら久しぶりにリオネッサとエルフィーと過ごすのはどうだろう。

 人界から帰ってきてから仕事が詰まっているという訳でもないのに二人と過ごす時間がなかなか取れなかった。

 そう。取れなかった。

 取れなかったからリオネッサは私に隠し事をしているのだろうか。

 胃の痛みが強くなった気がした。

 引き出しから胃薬を取り出し、噛み砕いて飲み下した。

 側に控えていたホルガーが慌てて水を差しだしてくる。

 そうだった。今日は執事の経験を積ませたいとアルバンとホルガーが交代していたのだった。

 アルバンは何も言わずとも世話をしてくれるからつい何も言わず行動してしまうのが癖になっていた。反省しなくては。話し合いは大切だとリオネッサも言っていた。

 礼を言って水を受け取り、一気に呷る。

 胃の痛みも胸のつかえも取れないままだ。

 ……………人界に帰りたいと思っているのだろうか。

 それを、アルバン達に相談しているのだろうか。

 そんな事はないとあり得ないとわかっているのに嫌な想像が止まらない。もしも、そうだったとしたら、私はどうすればいいのだろう。

 リオネッサの為だと、彼女を手放すことができるのだろうか。

 不穏な考えを振り払い、書類を手に取る。

 何も考えないで済む様、仕事を再開させるしかなかった。


***


 処理済みの書類の山をさらに三つ増やした所でホルガーから声がかかった。

 懐中時計を取り出し時間を確認すれば、仕事を始めてから二時間が経っていた。ならば、ホルガーが声をかけてくるのも当然だろう。

 二時間に一回は休憩をとる事。

 仕事をするならば休憩は必須だとリオネッサに約束されたもののひとつだ。

 三食必ず食べる、だとか夜はきちんと眠る、だとか魔界人にとって不要なのではと思えるものばかりだったが、私の事を案じているが故なのだと思えばいつも心が温かくなる。なる、のだが。

 リオネッサとエルフィーの待つ休憩室に向かう廊下を歩きながらまた腹をさする。これで何度目の事か。

 嫌な考えが止まらない。考えすぎだとわかっている。わかっているのだが、どうしても考えてしまう。

 どう考えても人界より魔界の方が危険で満ち溢れているのだから、彼女が故郷に帰りたいと言えば抗う事などできはしない。

 いや。落ち着け。まだそうだと決まった訳ではない。

 こういう所だ。いつでも最悪を用意し、そこへ向かって思考してしまう。勝手に泥沼に嵌って、身動きができなくなるのだ。それは止めた方がいいと何度も言われているというのに。

 リオネッサも言っていた。一人で抱え込むのはよくないと。些細な事でも相談し合おうと。

 うむ。その通りだ。一人で悶々と考え込んでいるより、リオネッサと話し合おう。

 今日の仕事は残り僅かである事だし、迅速に終わらせて、話し合いの時間を持とう。

 そうすれば、この胃の痛みなどすぐになくなる。

 そう思っていたのだが。


「それじゃ晩さんまでお仕事がんばってくださいね」

「……うむ。君達もあまり根を詰め過ぎない様に」

「はい! だいじょぶですよ!」

「ちゃんと気を付けて視るからだいじょぶです」


 リオネッサもエルフィーも何やら用事がある様子だった。

 いつもなら名残惜し気にされるのに、今日は全くそんな事なく。

 晩餐まで仕事をがんばれと言われてしまえば、その期待を裏切る事などできはしない。

 二人の様子がずっとおかしかった事も指摘できずじまいだった。

 矢継ぎ早に話題転換が成されるものだから、答えるので精一杯になってしまうのだ。もともと、発言する事自体を苦手としているのだが、こういう時にはアルバンやバルタザールが羨ましい。

 …………何をやっているのだ、私は。情けない事この上ない。

 リオネッサの夫として、エルフィーの父として、この体たらくでは愛想を尽かされても何の文句も言えない。

 今からでも聞きにいくべきだろうか。聞きに……………。

 聞きに行って、もし拒絶されたら………。

 いや、そんな事は有り得な……いと言い切れるのか?

 私はリオネッサと見合いをするまで数百の見合いを断れられてきたのだ。

 リオネッサに断られなかったのは奇跡だったし、結婚ができたのも奇跡だった。

 その奇跡が今も続いていると断言できるのか。

 考えれば考えるほど胃の痛みが増していく。

 執務室へと向かいながら、胃薬の残りがあとどれほどだったかを思い返していた。


 書類整理を終え、晩餐を終え、湯あみを終え、眠る時間になったが、私の気鬱は晴れていなかった。

 エルフィーが一人部屋に移った為、以前と同じくリオネッサと二人きりだというのに、なぜこうも自室の扉を開ける事に緊張を覚えているのだろうか。

 身体の頑健さには自信があったのだが、中身はそうもいかない。

 どうすれば精神を鍛えられるのだろう。

 私も何事にも動じない強靭な精神力が欲しい。切実に。

 執務中、半自動的に署名をこなしながら、そも強さとは何ぞや? という哲学めいた考えに陥るくらいに私は思考し続けていた。途中で不毛すぎる事に気付き、書類処理に集中したその結果、明日から当分外を回る事になりそうだった。

 今日の仕事が全て終わった事は喜ぶべきだし、晩餐も家族団欒の貴い時間だというのに、今日ばかりは食堂に向かう足が重かった。

 例えば、晩餐の席で「実家に帰らせていただきます」と宣言されたり、「顔が怖いので寝室を別にさせてください」と言われてしまう可能性が――無きにしも非ず。

 そんな事ばかりを考えてしまったせいで本来なら楽しいはずの晩餐は何とも言えない重苦しい時間を過ごす事になってしまった。

 リオネッサもエルフィーも楽しそうにしていたのに。私も楽しめれば良かったのだが、もしも、を考えてしまい、楽しめなかった。

 もしも、別居を申し渡されたら。もしも、嫌いと言われてしまったら。もしも―――

 いや。そんな事はない。大丈夫だ。悪く考えすぎだ。

 リオネッサは私のために眼鏡を用意してくれたし、ハンカチに刺繍だってしてくれた。

 そんな彼女の愛情を疑うなど、私は……、私は…………!


「魔王様。お疲れが溜まっていますね。早く寝て下さい」


 アルバンの呆れた声に私は我に返った。

 確かに自室に続く扉の前で考え込んでいれば疲れているように見えるのかもしれない。


「そうだろうか。……うむ。そうかもしれないな。すまない」


 アルバンの忠告に従い、覚悟を決めて寝るべきだろう。

 ああ、そういえば。


「今日は何やら皆で話し合いをしていたようだが、何を話し合っていたのだ?」

「菓子作りと手芸に関する案件を少々」

「………そうか。バルタザールも菓子作りに興味を持つとは思わなかったな」

「あの方は何事も気になれば自ら実践なさる方ですから」

「そうだったな。引き留めて悪かった。アルバンもよく休んでくれ」

「はい。お休みなさいませ。良い夢を」


 扉を閉め、寝室に向かう。

 もう眠るだけなので灯りを消しながら進む。

 どうやらアルバンも隠し事をしているらしい。

 深刻な事でなない様だが、一体、何を隠しているのだろう。

 寝室の扉を開けた先には穏やかに眠るリオネッサがいた。

 残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちになりながら、私はその寝顔を見ていた。


***


 翌日からもリオネッサ達の隠し事は続いた。

 アルバンに聞いてもはぐらかされ、バルタザールに聞いても「その内わかるから大人しく待ってろ」としか言わない。

 悪い事ではない様だが、やはり気になる。

 しかし、アルバンに予定を詰め込まれてしまうと、リオネッサともエルフィーとも話す時間が全く取れなくなった。

 その上、エルフィーと一緒に刺繍の腕を上げたいと、リオネッサがエルフィーの部屋に泊まり込む事になってしまった。

 これでは朝夕の挨拶くらいしか話せないではないか。

 仕事が終わり、就寝の為に自室に戻っても、リオネッサはおらず広々とした空間が広がっているだけだ。

 私の部屋はこんなにも広かっただろうか。

 こんなにも暗く、空虚であったのか。

 一人部屋に移ったエルフィーもきっと同じ様な思いをしたのだろうと思う。

 話し相手もいないのに夜更かしする気も起きず、早々にベッドへ入った。

 以前なら本を読んだりしたものだったが、読む気もやはり起きなかった。

 リオネッサはいつこの部屋に戻ってきてくれるのだろうか。

 柔らかな布団にくるまっているのに、なぜか隙間風が傍らを通り抜けていくような心地がした。


***


 それからずっとエルフィーの部屋への泊まり込みは続いている。

 いったいこれは何の試練なのだろうか。

 私は今日も胃痛と戦いながら仕事を片付ける。

 魔獣や魔物を討伐し、魔素濃度を調節し、地方領主や族長と対話をする。

 リオネッサと会う時間は未だ増えない。

 だが、今日を乗り越えれば明日は丸一日休みとなっている。今までの忙しさは明日の為だったのだ、きっと。

 温室の手入れの時にゆっくり腰を据えて話し合おう。忙しくて最低限の世話しかできず、アルバンにほぼ任せきりにしていたから丁度いい。

 そう決めてしまえば心が軽くなった。胃痛も和らいだ気がする。気がするだけなのだが。

 念の為、薬を飲んでおいた。


 そしてその翌日。

 私は瘴気の溜まり場にいる心持ちで温室にいた、

 私の悄然とした様子を心配をしてくれたエルフィーが遠慮がちにズボンを引っ張る。


「心配ない。少し胃が痛むだけだよ」


 実の所、近日中で一番の痛みを感じていたりするのだが、エルフィーにこれ以上の心配はかけられない。

 理由もエルフィーリオネッサを取られて寂しいなどというものなので、絶対に知られてはならない。情けないにも程がある。

 冷静に考えると、本当に不甲斐ないな………。

 エルフィーは大きな瞳を瞬かせた。眉間に皺が寄っている。

 解したいが、この武骨な指では傷を付けてしまうかもしれないので、頭を撫でるに留めておいた。

 うろうろとその大きな瞳を泳がせたあと、何を決心したのか凛々しい顔付きで「大丈夫だよ」と告げてきた。

 うむ。私の胃は丈夫だよ、エルフィー。

 温室の手入れが終わっても、朝食が終わっても、リオネッサとの時間は訪れなかった。

 料理番達やメイド達はリオネッサと過ごしている様なのに。

 ショックすぎて何も手に付かない。元々、今日は何もやる事などないのだが。

 アルバンに案内されるまがまま、図書室で本を読み、中庭で花を愛でる、

 いつもならリオネッサとエルフィーの三人でお茶を飲んだり散策をしたりするのだが。

 一人とは寂しいものなのだな。当たり前だと思っていたものが得難い幸福であったという実感は、できればしたくなかった。

 ああ、胃が痛い。

 もうすぐ昼食だろうか。

 昨日はあれだけ楽しみにしていた休日だが、今となっては早く終わってくれとさえ思う。

 せめて机仕事が残っていれば考えなくて済むものを………。


「アルバン」

「昼食のお時間ですよ、坊ちゃま」


 少しでも机仕事が残っていないか聞く前に遮られた。どうあっても今日は仕事をさせないつもりらしい。


「………坊ちゃまはやめてくれ」

「そうでした」


 今日の予定を組んだアルバンは私の不満などお見通しだろうに、朗らかに笑っている。

 そのアルバンの後ろをぼんやり考え事をしながら付いて行く。

 もしも、このままリオネッサに合えないような日々が続くとしたら私はどうすべきなのだろう。

 アルバンからは面白がっている気配がするのだが、いったい何がそんなに面白いのだろうか。

 扉の向こうへ身を滑り込ませたアルバンの姿が見えなくなってからはたと気付く。

 ここは食堂ではない。昼食に呼ばれたのではなかっただろうか。

 不思議に思いながらも開けた扉を通ると、そこには思いがけない光景が広がっていた。

 正面には誕生日おめでとうございますと書かれた垂れ幕が吊るされ、部屋の真ん中にあるテーブルを囲む様に花や飾りが所々を彩っている。


「お誕生日おめでとうございます魔王さま!」


 ボフン、という音ともに花が宙に踊る。

 その向こうには使用人達とエルフィー達がいた。

 リオネッサが笑って、いた。


「これ、は………」

「みなさんに協力してもらって計画したんです!

 驚きましたか?」


 久方ぶりに見る輝かしい笑みに、重くなっていた気分が途端に霧散するのだから、我ながら調子がいい。

 驚きをどうにか処理し終えると、じわりじわりと喜びが胸の内に湧き出してきた。


「ああ。とても……とても、驚いた。祝ってくれてありがとう、リオネッサ」


 垂れ幕を今度はゆっくりと眺める。

 なるほど。この為に皆いつも以上によそよそしかったのか。


「それに、皆も祝ってくれてありがとう。大変、嬉しく思う」


 リオネッサは殊更嬉しそうに笑う。皆もこの笑顔が見たかったのだろう。

 リオネッサに案内され、席へ着く。久しぶりに繋いだリオネッサの手は相変わらず小さく、そして温かだった。

 テーブルの上に用意された料理はそのほとんどが見た事のないものだった。美味しそうな匂いが漂う。

 リオネッサ達も着席するのかと思えばそうではなく。

 全員が並び、誕生歌を歌ってくれた。これは少しくすぐったい。

 歌が終わるとリオネッサとエルフィーを残し、全員が退室していくようだった。

 使用人のほとんどが私には近付けないので、リオネッサに言伝を頼んでいた。彼らは一人一人祝いの言葉を述べてくれた。

 尚且つ、プレゼントまで贈ってくれたのだという。私も何らかの形で返礼すべきだろう。

 バルタザールが出ていくとしているのが見えたので、周囲の雰囲気を壊さないよう留意して近付く。

 用法用量を守って服用する様に言われていたのだが、連日の痛みが酷くついつい飲み過ぎてしまい、薬の蓄えが尽きてしまったのだ。


「すまない。胃薬を置いていってくれ」

「ああ、うん、イイヨー」


 バルタザールは全て理解した様な眼で口角を上げた。

 よほど疲れているらしく、懐から薬を取り出すと、滑る様に部屋を出て行ってしまった。

 その背を見送り、僅か取り乱したリオネッサを落ち着かせ、エルフィーと三人で私の為に作られた昼食を堪能したのだった。


 翌日から服用する薬の量が激減したのは言うまでもない。

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