第四話 『ザシュガン砦の攻防』 その61
空にいるゼファーに視線を向けたよ。一定の距離を取ったまま、この物見の塔の周囲を旋回してくれている……オレは左眼を眼帯の上から押さえて、ゼファーに言葉を飛ばす。
……ゼファー。このまま、オレはアルノア査察団のシャトーへと降りる。お前はリエルと一緒に戦いが始まれば、上空から攻撃してくれ。
―――らじゃー!
……可能なら、気づかれないように動けよ。あくまでも、最初は西から攻撃されているように見せかけてやるんだ。敵の戦力が、あまりにも西に向かいすぎる時は、火球を使って蹴散らしてやれ。
―――うん。わかった……っ。ばれないよーにきをつけて、りんきおうへんに、たたかうね!
ああ。頼んだ。リエルにも、同じコトを伝えておいてくれ。
―――りょーかい。『まーじぇ』につたえるね!
オレはゼファーの背にいるリエルに視線を向けて、右手を挙げることで合図とする。細かな意味はない。ちょっとしたあいさつだ。これから作戦を開始するという意味と……夫婦ならではのコミュニケーションってものさ。
戦場モードのリエルは笑顔をくれることはなかったが、凜とした表情のなかに煌めく翡翠色の瞳をこちらに向けたまま、ゆっくりとうなずいてくれたよ。
それで十分だ。戦場ってのは、愛を語らう場所じゃない。それでも、行動を伝え合うことで、絆を感じることが出来る。そういうのは、強さにもなるだろうし……何より、楽しいことだった。
オレは肩から血を流し、前歯を折られたまま気絶した青年兵士の近くにある警笛を拾う。細かなことだが、壊しておくさ。こちらのデザインした作戦を邪魔するための道具は、排除しておく……。
戦士としては数年は使い物にならなくなった青年の命を、見逃してやるというリスクを負うんだからな。それぐらいはしておくべきだ。お互いのためにでもある。怪しげな動きをしていれば、オレの可愛い翡翠色の瞳が気づき、神速の矢を放つことになるだろう……。
その矢は頭にしろ胸にしろ、あるいはノド元に当たるにしろ、この青年兵士の命を奪うことになる……矢をムダにするし、オレの慈悲めいた判断もムダになる。それは、無益なことだからな。
物見の塔のいただきを歩き、頭に矢が刺さったまま倒れている兵士の死体にも近づいた。コイツの近くにも警報のための角笛があるからな。この角笛も壊しておくのさ……握力を使い、壊す……。
……まあ、この角笛を吹き鳴らすほどの力は、横隔膜も裂けて肋骨も砕けている男には出せやしないだろうがな。念には念を押しておく。それぐらいの時間的な余裕はあるさ。
地上からは、楽器と耳に覚えのある歌声と、見知らぬ男どもの笑い声が響いている。軽快な音楽を要求した、オレたちの『人魚』が妖艶な踊りで舞いながら、その美声を披露しているのだろう……英雄を讃える、盛り上がりのいい歌さ。
自意識の強い騎士だらけの宴で、そんな歌を使えば、どうにも盛り上がってしまうものだろう。
……騎士って人種は、伝説に憧れるものだ。英雄に憧れて、鋼を振って、野を走り、竜や馬の上で夢と野心を抱く……そいつが、騎士っていう生き物ならば、誰もが通る道なんだよ。
例外なく、オレもそうだったからな。
物見の塔の上を片付けたオレは、さっそく、この塔から降りることにする。足下の床石に視線を蛇のように這わせて行くと、木製の戸に視線がたどり着く。取っ手のついた木製品だ。
鍵穴は無い。
ある意味では当然だった。この場所から屋敷に侵入するような盗賊はいないだろうしな。ここから入るのならば、他のどこからだって入れる。
常識的な発想の脆さも感じられる事実じゃあるな。常識にしか対応出来ていない合理性は、その合理性を上回るユニークな行動には、全くもって無力なもんだ。
寝ぼけた見張りが落っこちてしまわないためにだけ設けられたと思しき、その木の戸をオレの指が引き上げる。
ギギギキキィ……。
狭苦しくこすれ合うような音が、鼓膜を揺らしてくれる。古い家具は好きだ。歴史や伝統を感じることが出来る―――250才の古い竜に育てられてしまったせいか、オレは古いモノが好きなんだよ、26才にすればな。
この物見の塔の戸にさえも、少しばかりの感情移入をしてしまえる……古さがある。このアルノア伯爵の住居となっているシャトーは、あちこちに手直しの痕跡が見られるのだが、ここだけは古い……。
破壊されることがなく、ただただ歳月を過ごすことが許された古木の製品なわけだ。この物見の塔は攻略されることがなかった……少なくとも、この古びた戸が設置されてからの数十年のあいだはな。
それだけ、このシャトーが争いに強かったということだ。ここの城塞は、守り方と建築的な哲学を理解することが可能なものが使えば、鉄壁の強さに至るというわけさ。いい砦だよ。
いい砦には、学ぶべき点が幾つもある。知識や見識が足らず、オレではこの砦の構造的な強さを把握することは出来ないが、それでも頭に入れておけばいい。全てを見て、頭に描き込む……。
強さや戦術というのは、けっきょくのところ、武術の型と同じようなもんだ。深く理解することが出来ていなかったとしても、型をマネすることで、それなりには運用が利くものさ。
そして……そういう型を使っているあいだに、いつの間にやら理解することが出来る。経験にアイデアが磨かれていき、理解を深めていけば―――本質をも把握して使いこなせるようになるもんだ。
……オレは、シャトーの形状を物見の塔から見回すことで頭に記憶させた後で、作戦を続けるために、足下に開いた穴のなかに身を沈めていく。
古びた木製のハシゴが、塔の内部には走っていたよ。5メートルほど下には、木柱と古い板で組まれた足場がある。矢を撃つための、塔の側面に開いた穴……そこに弓兵を配置するための足場だな。
有事であれば、夜通しだって見張りの兵士が居座っているべき場所であるが、平和に肩までどっぷりと浸かったアルノアの騎士たちに、有事の心構えは当然ながら存在しない。
5メートルほど降りたオレは、その足場に体重を預ける。古い木組みは若干の軋みを上げた。歴史に酷使されたそこも、火にかけられることをなかったのだろう。リフォームの対象外だったようだ。
ホコリっぽくて、蜘蛛の巣がこの狭っこい空間の隅には張っている。『イルカルラ砂漠』にも蜘蛛がいるのか……そう思うと、不思議な気がした。この蜘蛛どもは、何を食っているのか?
春風に遊ぶ気楽な羽を持つ美しい蝶も、マヌケなイナゴもこんな場所にはいないだろうにな……まあ、蜘蛛どもが何を食っていようとも、オレには関係がない。
足場を3歩だけ動き、再び、下へと続く穴の縁へと脚を立たせる。
今度は高くて長い穴だった。
10メートルほどの高さはありそうだな。途中には、貴族サマの屋敷らしく、たっぷりと油が注がれた壺の上で踊る火があった。こんな地味な場所にも灯りを配置しておくとはな……ああ、蜘蛛のエサが分かったよ。
小さな蛾が、油を食いながら燃える細縄の先に、集まっていやがった。翼があれば、風に乗って『イルカルラ砂漠』さえも越えることが出来るというわけだ……どんな過酷な場所にも、攻略するための方法論ってのは、あるもんだ。
……おそらく。ここの蜘蛛は、このシャトーが出来てから……棲み着いたんだろうがな。たくましいもんだ。オレは蛾を狙う八本脚の無音の狩人に、視線と賞賛の笑みをくれてやりながら、新たな10メートルを下るために、ハシゴへと手足を絡めていく。
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