第四話 『祈る者、囚われる者』 その25


 宝石の踊る鞘から、ヴェリイの指は刃を抜いた。銀色の鋼は、よく研がれている。しかし、使われたことはないようだった。守り刀の一種というか……派手好きな暗殺者の恋人に、どんな贈り物が良いかと迷った男のプレゼント……なのかもしれない。


「キレイな刃でしょ。この子、まだ、ヴァージンだから」


「……殺しに使ったことの無い刃ってことか?」


「ええ。そうよ。キレイで汚れていないの。だからこそ、取って置きよね」


 ケットシーの美女は、顔にあざを残したままだが、とても蠱惑的な笑みを浮かべていた。狂気を感じるね。なにせ、その刃に、彼女は口づけを捧げるのだから―――刃は鋭く研がれているから、彼女の柔らかな唇の皮は、わずかに触れるだけでも裂けていた。


 処女の刃が血で汚れてしまう。


 恋人からのプレゼントに、彼女は愛を捧げると。


 麻痺の毒が消えた脚で、『渇きの湖』の固まった湖底を歩いて行く。恋い焦がれた男に初めてのデートにでも誘われた乙女のように、彼女は笑顔だったし、その歩調は軽やかなものだったよ。


 彼女の獲物は、怯えることはなかった。


 赤い瞳を動かして、ヴェリイ・リオーネを見あげている。戦鎌と両手を失い、シアンの打撃を二連続で喰らった『首狩りのヨシュア』の体は、逃げ出さない。無意味だと悟っているから?……そうじゃないだろう。


 出血が、かなりヒドい。


 右手に関しては、手首のあたりで叩き斬られてしまっている。血は止まらない。蹴り壊されてしまった肺周りのダメージのせいで、ロクに呼吸もままならない。体は、酸欠状態になろうとしているのさ。シアンは、強敵相手にそれを成し遂げたというわけだ。


 時には酒代にすら困っていたガルフ・コルテスが、投資を惜しまずに医学書を集めて来た甲斐がある。オレたち猟兵は、そのおかげで、武術に医学的な根拠も帯びさせられる。


 雑な戦いにも役に立つが、こういう難易度のある仕事のときにこそ、非情なまでに実用的だよな。


 そうだ。オレたちは仕事を成し遂げた。


 ヴェリイ・リオーネの前に、『首狩りのヨシュア』を差し出した。彼女の恋人を殺し、彼女が恋人との子を流産するキッカケになった少年……そいつを、半殺しにはしているが、生きたままプレゼントした。


「……これでいいか?」


 ヴェリイには訊かなかった。彼女に訊いたら、ええ!としか言わないに決まっているからな。オレが質問をぶつけたのは、オレとヴェリイのあいだで彼女を見守りつづけている男に対してだ。


「……はい。最高の、形ですよ」


 ニコロ・ラーミアの紳士な声は、そう返事して来た。


 さて。オレは、一体、何を聞きたかったのだろうかね?……もっと、意外性のある言葉だろうか。ヴェリイ・リオーネの、あの痛ましいまでの狂喜を見て、オレはこの結末の正当性を疑っているのだろうか?


 分からない。


 ……だが。仕事は果たした。そして、彼女の復讐も終わるだろう。命を賭けて来た、この復讐もな…………ああ。そうか。オレは、このニコロにも言っておかなければならない言葉があるのか。


「ニコロ」


「……なんですか?」


「ヴェリイが、ヤツを殺した後、自殺しないように見張れ」


「……ええ。分かっています。そして、大丈夫ですよ。彼女は、そんなに弱くはありませんから」


「……君が、そう断言するのなら、安心できるよ」


「いえ。ありがとうございます、ソルジェ・ストラウスさま。ヴェリイさまを、心配して下さって」


「当然のことだ。彼女は、オレの―――」


「―――ビジネス・パートナー?」


「いいや。そうである前に、ただの友人だ」


「……いい言葉です」


 さて。そろそろ黙っておこう。今は、ヴェリイと『首狩りのヨシュア』の時間だ。この時間を作るために……皆が多くを支払ってきた。邪魔は出来んさ。シアンなんて、ヴェリイに駆け寄ろうとしているアレキノのことを羽交い締めにして押さえてくれている。


 ……まあ。


 この場で、ヨシュアに殺される可能性がある者は、アレキノだけだしな。他は、彼の暗殺の技巧を防ぐことが可能な者たちばかりだ。ヨシュアが、『お師匠さま』の言うことを聞いて、敵戦力を少しでも削ごうとするのなら……アレキノを狙う。


 アレキノを、ヨシュアの側に近づけさせるワケにはいかないさ。ヤツの死体にだって、近寄って欲しくはない。


 アレキノは……可能ならば、あの頭の中に埋め込まれている霊鉄を、取り外してやるべきなんだろうがな……これ以上、『オル・ゴースト』の亡霊には近づくべきじゃないさ。


「―――さっきは、よくも殴ってくれたわね?」


 復讐劇は、その言葉で始まっていたよ。


 殴られた顔を、彼女はさすりもしなかったがね。正直、どうでもいいことなのだろう。今の彼女は、とても笑顔だったから。


「……命令だったからな……」


「そうね。そういう道具なのよね、『ゴースト・アヴェンジャー』の壊れた子たちは」


 ……壊れた子たち。それに、オレたちのキュレネイ・ザトーも含まれるのだろうか。否定は出来んな。キュレネイは、笑ったこともない子だ。3年のあいだに、一度も見たことはないぜ。


 それより前は?


 笑ったことは、あるのだろうか……。


「あなたは、道具に過ぎない。テロリストどもに、ただの道具。それは、正直、分かっていたけれど。それでも、許せないことなのよ。恋人を殺されたことってのはね」


「……そうか。そう、なのだろうな……」


「罪悪感もないのね。可愛そうな人形のアンタには」


「……アルト・ワイズマンに関しては、どうでもいい……だが」


「だが?」


「……お前が、流産してしまった赤ん坊には、悪いことをしたな」


「……へえ。人形も、そんなことを思うのね」


「命令には、ないことだった。『暗殺巫女』の血筋は……守るべきものだった。オレは命令を守れなかった……命令を、守れなかったことは、他にない。なのに……お前に関わると、おかしくなる……あの日も、今日も……狂ってしまった」


「……そうねえ。相性が悪いんでしょうね、私とアンタ」


「……間違いなく、そうだろうな……」


 ヴェリイ・リオーネは、笑顔でなくなっていた。冷たい殺人者の貌になり、彼女は大地に倒れる獲物の上にまたがる。あの刃を逆手に握り、彼女は、小さな声で自分の顔のすぐ近くにある少年の顔に告げていた。


「今から、殺してやるから」


「……そうか……好きにしろ」


「何か、言い残すべきことはあるかしら?」


「……いや……ないな…………『アルステイム』の暗殺者は、そう訊くのか?」


「『やっぱり』、アルトには、そう訊かなかったのね」


「……ヤツは、すぐに気絶させて……縛り上げた……それから……すぐに首を刎ねた」


「そうでしょうね。いいかしら?……ヒトを暗殺するときは、さっきみたいに訊くべきなのよ。そうでなければ、二流の暗殺者のままだわ。アンタは、ヒトもどきの人形ってだけじゃなく、道具としても二流だったのね」


「……らしいな…………残念だ」


「もう一度、訊いてあげる。言い残すことは、本当に、無いのかしら?」


「…………探しても……見つからないな」


「それは、あなたが無価値だったことの証よ。残念ね」


「…………何を、言うべきだったんだ?」


「聞きたいことは、何もないわ。でも、出来ることなら……私に、アルトの最期の言葉を伝えて欲しかったわね」


「…………言葉は……ないが…………オレが……襲うまでは……」


「……襲うまでは?」


「…………笑顔、だったな…………たぶん、笑うべき理由が……あの男には、あったんだろう……オレたちみたいなものには……ないのに……」


「…………そうね」


「…………どうして」


「…………なによ?」


「…………どうして、お前は……泣いているのに、笑っているんだ……?」


「…………あなたが、知るべきだったことのせいで、こうなるのよ」


「…………そうか……」


「…………全ては、手遅れよ。それでも、祈りなさい」


「…………なにを?」


「…………『ルカーヴィの暗殺巫女』に殺されるのよ。より、いい命に、生まれ変われる日も、遠くはない」


「…………産まれ、変わる……か。嘘くさいが…………そうだな。今度は……今度は、お前が、泣いてて、笑っている理由が……分かる、ように……なりたい―――」


 ヴェリイ・リオーネの腕が、振り下ろされていた。祈るように強く絡み合った指たちが、アルトからもらったナイフを握りしめている。それは、固く、外れることなく。出血で疲れ果てようとしていた心臓を穿っていた。


 胸の肉を貫き、肋骨のあいだを、するりと抜けて。あまりにも手慣れた指に導かれて、ナイフの尖端は、初めてにして……おそらく二度と貫くことのないだろうが、獲物の心臓を的確に破壊していた。


「……戦神に、仕えた……狂った……戦の子よ…………戦神よ……戦神よ。次に、生まれる……その命に……笑顔と……涙の、理由を……教えたまえ…………」


 『暗殺巫女』は、祈ってやっているようだった。心臓を貫くナイフを捻り、殺しのための動きを与えながらも……。


 血を吐き、力なく咳き込みながらも、赤い瞳で青い空を見る少年は、ちいさく言葉を残していた。


「………………ごめん、なさい――――――――」


 『首狩りのヨシュア』は、残すべき言葉を見つけたのだ。


 その言葉を聞きながら、ヴェリイ・リオーネはあまりにも悲痛な声で、意味を帯びることのない叫びを、雲の少ない空へと放っていたよ。


 長く残響する歌だ。愛する者と、憎むべき者への祈りに満ちた歌を、戦神の地に広がる空は聞いていた……。

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