序章 『雨の降る町で……。』 その10


 呼吸を静かにして、無音を目指す。沼地の泥に足首までをつけたまま、ゆっくりとぬかるみの中を進んでいくのさ。


 『呪い追い/トラッカー』は機能している。その敵へとつながっているのであろう『糸』は、ときおり雨や風に妨げられて消えてしまうし、フワフワと空中で揺れているのだが、ハッキリと方角だけは示している。


 このまま真っ直ぐ……沼地のより深みにオレたちが仕留めるべき『馬喰いの大蟹/ホース・イーター』はいるのだ。水の中から生えて、やわらかい土が受け止められずに曲がってしまった縦に長い木々のあいだを、我々は進む。


 オットー・ノーランが喜びそうな沼地だな。草や水の腐敗した臭いも、彼にはあまり気にならない。生粋の冒険家のみが心に宿せる、最高の好奇心が艱難辛苦を喜びに変えてしまうだろう。


 その心を見習いたいがね。なかなか、趣味というのは変えがたい。どうしても、沼地のぬかるみにブーツの底を掴まれると、楽しくないんだよ。


 死霊が漂う沼なんかでは、この土に邪悪な霊魂が宿り、いきなり脚を掴まれるらしいが……ここは古戦場ではないのだろう。


 灰色に沈む世界と、暗む沼地……そして、水に溺れ死んだように枯れた老木にまとわりつき、極めて小さな花を咲かした苔ばかりが視界に入ってくる。赤い茎をした、小さく地味な花だ。どこか、毒々しいね。鮮やかな赤は、この灰色の世界では、やや攻撃的すぎる。


 さて、暗いな。気持ちも萎えてくるよ。あの肥えた馬の幽霊でも現れて、ジャック・シモンズに生前の礼をしてりすれば、明るくなるのかな?……感動を愛する者は、少なくはないからね。


 ……我々は、ただひたすらに、この沼地を進んでいく。『豚顔の悪鬼/オーク』どもが住む沼地に比べれば、悪臭は少ない……沼の中にも、息を潜めたカエルと小さな小魚が泳いでいる。


 清潔な場所とは、とても言いがたいが……サバイバルをすることは、不可能ではないのだろう。帝国人に見つかれば、どんな目に遭わされるか、分かったものじゃあないだろう。しかし……その『狭間』の子供たちは、一体、どこから流れついたのだろうな……。


 ……気になる。


 だが、今は……ビジネスだな。正直なところ、ジャック・シモンズのことは、気に食わないところも多いが、オレは決めたことは貫くことにしている。彼は、オレに言わせれば典型的な帝国人であり、蛮族と亜人種と『狭間』を差別するクズ野郎ではあるが。


 ……帝国人の価値観では、至極、まっとうな存在ではあるのだ。


 働き者の手をしている。排他的で、マジメで、古くからの教えを守っている保守的で変わらない田舎者……『狭間』の子供たちを、こんな沼地に見捨てている行為は、まるで悪魔の所業のようにも思えるが……。


 おそらく、彼が言った言葉のいくつかは、この帝国人の土地では真実となる。『狭間』は呪われた存在などではない。だが、それでも、存在の成否や、善悪を判断するのは、理性でも科学でもない。ただただ、残酷なまでの感情だ。


 長い歴史に裏打ちされ、今では皇帝ユアンダートらが掲げる『人間族第一主義』とやらのせいで補強されてしまった、排他的な思考……そいつは、変えることの出来ない『正義』として、帝国人の心に君臨しているのだ。


 ……腹立たしい。


 だが、真実だ。


 もしも、その『狭間』の子供たちが……『ホロウフィード』の町の連中に捕まったらどうなるか?……考えたくもないことが起こるだろう。撲殺か、絞殺か……剣術が得意な者や、斧での処刑を嫌うことのない木こりがいれば、首を斬り落とすさ。


 ……うんざりしてしまうが、それが事実というものだ。その子供たちにとっては、この腐った水がはった、最低の沼地こそが……どうにか自分たちが生き残ることが出来る場所だった。


 ジャック・シモンズの言葉は、正しいんだ。保護しない方が、まだマシ。この沼地から連れ出せば、待っているのは……死だけさ。それは、困ったことにね……真実なのさ。なんとも残酷なことなんだけど。


 ……この沼地の探索を始めてから15分も経った頃だろうな。いまいち集中出来ない未熟者のオレは、ようやく気がついていた。


 おそらく、ガントリー・ヴァントは、もっと早く気がついていたのだろうが……その事実を教えてはくれなかったようだ。オレを確かめているのかね。


「……動いているな」


 久しぶりに発した言葉に、パーティーは反応する。


「何がですか、ソルジェ兄さん?」


「敵、近くにいるの?……私は、感じないけれど」


「……ど、どこだ!?」


「怯えるんじゃねえ、シモンズちゃんよ。このメンツに囲まれているんだ。蟹の爪がアンタの胴体を両断することはねえさ」


「ほ、本当だろうね……?」


「―――動いているのは、『馬喰いの大蟹/ホース・イーター』だ。かなり先だがな」


「……そうだ。ようやく、冷静になって来たみたいだな、兄ちゃん」


「気づいているのなら……いや、いい。とにかく、ヤツは、少し動いては、止まっているようだ。それを、何度も繰り返しながら、この沼地の奥に向かっている」


「バレないように、少しずつ移動しているってコト?」


「そうだろうな」


「我々の接近に、気がついているんですね……」


「ヤツは、本来は臆病なモンスターらしいなあ。膝から、新鮮な血の臭いをさせているエサが縄張りにやって来たというのに……どうにも、食いつきが悪いな」


「だ、誰のことだ!?」


 ガントリーは、蟹のモンスターとの交戦経験があるのだろうか?……なかなかのベテランだからな、あり得る。ノーベイ・ドワーフ族の土地が、沼地だらけの可能性だってあるわけだしな……。


「……おいおい、蛮族ジョークだよ、帝国人の旦那?」


「わ、笑えない……っ。私のことが気に食わないのなら、あやまるよ……だから、そんなにいじめないでくれ」


「いじめるつもりはないがな。まあ、兄ちゃんよう、ヤツは岩に似ているってハナシだ。どこに逃げ込むと思う?」


「……岩だらけの場所か」


「そうだ。『臆病者』の考えることは、モンスターだろうがヒトだろうが、同じさ。やり過ごすつもりだ。なあ、シモンズちゃんよ、蟹野郎の『巣穴』になりそうな、岩が多い場所はあるか?」


「あ、ああ……ここから、まっすぐ行ったところに、三本の大きな枯れ木があるんだ……町の者は、『妖婆の三つ首』と呼んでいる」


 美しくないランドマークだな。


 こんな沼地には、妖婆が出てもおかしくない雰囲気はある。子供をさらって喰らう、妖婆の物語は、そこら中にあるからね……。


 オレとガントリーは、雨にも枯れ木にも負けず、その『妖場の三つ首』を見つけていた。


「なるほど、比較的大きな木だなあ、兄ちゃん」


「ああ。白く立ち枯れしてから、長いようだな……白骨のようにも見えて、不気味な印象で佇んでいる」


「あ、アンタ、ここから、み、見えるのか?」


「……まあな。それで、あそこから、どちらに向かう?」


「う、うん。向かって右手だよ……そこに、小さな岩山があるんだ……沼地が、広がる前は……『ホロウフィード』の子供たちの遊び場だった」


 ……なんだか、イヤな予感がするな。小さな岩山……そこにあるかもしれない、『蟹』の隠れるための『巣穴』……?


「―――おい。そこに、洞窟はあるのか?」


「え?」


「雨風を防げる、洞窟か、穴があるのか!?」


「あ、ああ。ある。あるよ……っ」


 帝国人の表情が引きつったことに、オレは気がついた。


「何を、隠した?」


「え……」


「もしかして、そこが、『狭間』の子供たちが居る場所なのか?」


 その言葉に、後ずさりするのは、どうしてかな。


 ……竜太刀を抜いているから、怖がっているのか?


 だが、どうでもいい。知りたいのは、情報だけだ。


「答えろ!!」


「……あ、ああ!!た、たぶんだよ!!」


「他に、住めそうな場所はないの!?」


 ククルが怒った顔で訊いた。シモンズは、首を振る。我々の期待を裏切るように、横にな。


「な、ない……少なくとも、私たちは、知らない……あ、あそこだと、お、思うよ……」


 舌打ちする。そして、オレはこの好きになれないクライアントに背を向けた。見捨てるつもりはないぞ。この男を、危険な場所にひとりぼっちにすることはしない。


 だが、今は顔を見せられそうにないな。


 見られたら、逃げられてしまいそうだ。それでは、より厄介なことになる。


 ……無様なハナシだ。もっと、情報をこの男から聞き出しておけば、その『蟹』が、岩場から離れるような方角から、接近することも出来たというのに……ッ。


 この雨だ。


 長い雨が降っている。


 こんな雨に打たれることを、浮浪児どもが望むわけがあるまい。そんなことをしたら、痩せた体では、冷え切り、肺炎でも起こして死んでしまうじゃないか。経験則で知っているはずだ。


 何人いるのかは知らないが、その浮浪児たちが全員無事に、こんな不潔で寒い、沼地なんかで無事に生きていけるはずがない。


 知っているはずだ。雨を避けねば、子供の体では、死んでしまうという事実を!!残酷な、『経験』というものに裏打ちされて!!


 だから。


 その浮浪児たちは、何が何でも、雨をしのごうとするはずなんだ!!……そこしか、隠れる場所がないというのなら、そこにいるだろうよ!!


 そこに……オレたちが怯えさせてしまった『馬喰いの大蟹/ホース・イーター』が向かったのかもしれないのか!!


 何という、失態か!!


 イヤな予感がするぞ。見たくない光景を、見てしまいそうな予感だ。浮浪児たちが叫べば?……オレたちに見つかりたくない、『ホース・イーター』は、その声を『止める』かもしれないだろうがッ!!


 その馬すらえぐる、大きなハサミで、二度と声が出ないように、引き裂いてしまうかもしれない……ッ!!


「先に行くぞッ!!」


「ソルジェ兄さん、私も行くよ!!ククル!!ガントリーさん、あと、お願いね!!」


「ちょ、ず、ずるい!!」


「ハハハハーッ!!ああ、沼地の怪物に、弱っちい帝国人の農民が食い殺されないように見張りながら進むぞ、賢い嬢ちゃん!!ほら、とっとと走れ!!帝国人!!」


「わ、わかったよ!!尻を叩くんじゃない、この蛮族のドワーフめッ!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る