第五話 『復活の聖女は、仮面の下で嗤う』 その4
「ではな。バレるなよ?」
「……うん。それじゃあね。『ホテル・バルバロッサ』はいいところだから、しっかりと旅の疲れを取るといい」
「ああ。ではな、閉めるぞ」
「いいよ。良い旅を」
旅の成功を祈ってくれるシャーロンの笑顔に向かって、オレは石版でフタを閉じていくよ。地下酒蔵の入り口は、こうして閉鎖される。ああ、中からでも開けられるぜ。オレはシャーロンをこの墓みたいな場所に埋葬したいわけじゃない。
オレは立ち上がる。海から来る浜風を肺に吸い込んで、深呼吸をした。あの酒蔵は闇と血とカビの胞子に満ちていたからな。アルコールの残り香ぐらいでは、その邪悪さは清めきれない。
北海から来たる涼やかな風を吸い込み、肺の中に溜まり込んだ邪悪な空気を吐き出していたよ。少しは呪われた場所から遠ざかった気がする。
しかし。
シャーロン・ドーチェはまだこの下か。
あの悲惨な環境に放置して行くのは、心苦しさを伴うものだが……仕方がないさ。これもビジネスのためだからね。
オレもさっそく仕事をするよ。懐からフクロウの指輪を取り出して、それを指で握りしめる。さあ、準備はほぼ完了さ。あとは魔力を込めて口笛を吹くだけ。
それから、わずか二分後にフクロウがやって来る。呪術で労働に使役されるフクロウたちだ。青空を旋回したあとで、オレの差し出す左手に彼女は乗ったよ。
「いい子だ。シアンへの使いから、帰ってきてくれていたな」
『くええ』
フクロウは愛らしく鳴いた。オレは、荷物袋から干し肉を取り出した。それを歯で噛み、指で引き千切る。そして、興味深そうにしているフクロウに、その干し肉の切れ端を渡してやったよ。
彼女は喜んで、くちばしのあいだにその肉を受け入れていく。気に入ったのか、二、三度その餌付けは繰り返された。だが、その作業も終わる。彼女は十分な食事を得たのか、それ以上の肉は求めなかった。
オレは残った干し肉を口の中に放り込んで、しばらく噛んだ後で呑み込むことにする。干し肉を噛みながらだって、作業は出来るからね。彼女の脚に、シャーロンが用意してくれた暗号文の入った脚輪を取りつけるよ。
その直後、彼女は空を求めるように翼を広げた。オレは、彼女のために、腕を広げて、こちらへと迫る浜風を読み切ると、その風に合わせて腕を振り上げた。フクロウの翼が大きく広がり、風に乗ってはるかな高い場所へと上昇する。
なんとも軽やかな飛行をする生き物だろう。
竜の体重では、あの軽さは再現することが出来ないだろうな。それが悪いこととは言わないよ。それぞれの飛翔に良さがあるのだから。空を飛ぶという行いは、うつくしいものだね。
風に乗って高みに至ったフクロウは、その大きな翼で空を踊る。目指すのは、そうだよ北の果てだ。北海を飛び越えて、ロロカ先生の持つフクロウの指輪を目掛けて一直線だ。オレのフクロウは密書を抱えて飛んでいく。
「……頼むぜ。そいつを速やかに届けてくれると助かる」
さて。それでは、ちょっとしたマラソンの時間とするか……15キロ先の『オー・キャビタル』を目指し、軽めのジョギングで移動する。しばらく海上生活が長かったからな。陸地が懐かしい。
ゆっくりと走りながら、陸地に体を慣らしていくさ。ビールの飲み過ぎも気になるところだ。海賊と違って、地上戦がメインのオレは、鈍重なまでの体重は不必要だからね。さっきのハシゴを下りるとき、乙女みたいに重量を気にしちまった。
「さて。ダイエットと、地上戦の感覚を取り戻すために、ジョギングを始めるとしよう」
誰に言うわけでもないのに、そんな言葉を、このさみしい廃墟に残して、オレの脚は動き始めていたよ。
リズム良く、ペースを守る。
背筋は伸ばすんだ。
なぜかって?
こうすることで、胸腔の面積が広がるから。つまり、肺の体積が広がりやすくなる。もっと簡単に言うと、たくさん息が吸えるということだ。
ジョギングすると、肉体のコンディションが把握できるからいい。どこが鈍っているのかを、体に聞くんだ、軽い振動と負担を長い時間にわたってかけることでね。それに、15キロほどの軽めのランなら、ダイエットには持って来いだろうよ。
海岸沿いを走るというのも、景色があって良いことだ。
北の海はさみしげで、波が白い冠をかぶることが多い。荒れた海だよ。この海の果てからやって来る『霜の巨人』の大軍は、さぞや住民たちの恐怖であっただろう。その脅威は永久に失われた。
それは最高の出来事さ……その事実を知れば、皆、さぞや喜ぶ。
オレは走るよ。ちょっとだけ口元をニヤリとさせたままね。
脚は徐々に軽さを取り戻す。
大地を走ることを、肉体が思い出してくれている。
ヒトの肉体の適応能力とは実に素晴らしいものではあるが、海上生活に適応してもらったままではな。陸棲の獣に戻そうと、オレは加速と減速を繰り返しながら、肉体に戦場をかけるためのフォームを思い出させていくのさ。
走るということは、無心になれるからいい。
適度の疲れのせいで、思考能力は緩慢になる。
いいや、緩慢にさせるのさ。
深く物事を考えないことで、悩みを解消する。迷いを消すためには、汗を流すことだ。オレはその事実を、己の肉体で証明する。
敵は強く、策略家であり、残酷だ。
なかなかにシビアな事実であり、合理的な判断をして、自分の生命のみを最優先するのであれば……オレたちは戦いも使命も放棄して、逃げ出すべきだ。
だが。
オレたちはどうしてか、それが出来ない。
戦うことは好きだが、死を望んでいるわけでもない。
それでも。
それでも、オレたちには欲しい『未来』があるんでね。
どうにかして、世界の理屈をひん曲げてでも、勝利が必要なんだ。
疲れてくるとね、本質がハッキリと定まる。
雑念を削ぎ落とすと、本当に大事なことしか考えなくなるからね。
……そうだ。
オレは決めていたよ。シャーロン・ドーチェ・パナージュの提案に乗ろうではないか。ロロカ先生がフレイヤ・マルデルに伝えたら、フレイヤは即決するだろう。自分が生き残る確率を上げるためではない。
戦略上、シャーロンの『演出』で動くことは、オレたちを有利にするのだ。この半島に脅威がやって来た。そいつから、この半島を守れるのは……この半島のために戦い続けた、フレイヤ・マルデルだけだ。
『霜の巨人』の脅威から、アリューバ半島を永遠に救った、あの聖なる姫騎士だけだろう。他の者では、民はついて来ない。救国のヒロインは、フレイヤ・マルデルでなければならない。
だから、フレイヤ……過酷な道を、選んでくれ。
必ずや、オレたち『パンジャール猟兵団』が君のことを守ってみせるからな。
……そう決意すると。
雑念を追い払うために、オレは走ったよ。
悪い予想に、もう脳みそを使うことはない。ただ、効率的に大地を駆け抜け、戦場の空気を鼻に思い出しながら、洗練されて練り上げたペースで空気を呑み込んでいく。無敵の獣、猟兵を体現するだけだ。
小一時間で、オレは荷物と竜太刀を背負ったまま、その岩だらけの体にこたえるコースを走り追えていたよ。体が熱量を帯び、それなりに汗をかいてもいた。だが、迷いもない。魂が清らかになった気がする。
オレはその場にしゃがみ込む。道ばたに生える春の草たちをシート代わりに、大地に腰を下ろして、昂ぶっている心臓の律動を正常化させるために、大きな呼吸を使うよ。何度か、肋骨どもを上下に揺らしている内に、心拍数は完全に正常化していた。
器用なもんだよ、人間の肉体は。
どんな状況にも、適合させようという不思議な法則が働いてくれている。休むときは、休むように心臓がモードを選ぶのさ。
逆に呼吸を作ることで、心臓にモードを選ばせることも可能だ。武術や運動のさいに、肉体の制御に呼吸を用いるのは、そういう原理ゆえのことで―――。
「……くくく。小難しいコトは、どうでもいいや。いいカンジに運動して、気持ちいいってだけのことさ」
オレは両の瞳で、『オー・キャビタル』を見つめていたよ。
半島の先端部分にあるその城塞都市は、巨大な白い岩の群れで造られていたよ。最も奥にあるのが、総督府だろう。帝国海軍の指揮所でもある。そこは大きな岩壁に防御されているな。
海側は崖のようになっている……ふむ。総督府を守ろうとする仕組みか。
そこの『城下町』は、大きな発展を見せている。日中の活気は相当なものだ。軍港と隣り合わせになるように民間の貿易用の港と、積み荷を運ぶための巨大な帆船が並んでいる。大きな港だ。相当に大きな商業都市だよ。
軍港もデカい、造船所やドックとセットになっているからな。壊れた船はいなさそうだ……沖合には、海賊対策のためなのか、軍船たちが睨みを利かせるように泳いでいやがる。
ああ、なかなか大した戦力だ。
これに、プラス2万の増員がかかるというわけか。
あの惚れた女に告白することもままならない、ヘタレ野郎のジーン・ウォーカーが、どうにかしようと敵地の造船所の襲撃まで考えるわけだ。
もしも、そんな日が来てしまったら―――海賊たちはお終いだろう。
だからこそ、ジーンと『リバイアサン』も、ようやく本腰入れて帝国海軍の連中と戦うことを選ぶのさ。
さて……と。
すっかりと呼吸も心拍も正常化している。
オレは草のシートから尻を離して、両の脚で大地に立つ。商人たちの列に紛れて、とりあえず、『オー・キャビタル』の老舗の宿、『ホテル・バルバロッサ』に向かうとしようじゃないか。
しかし。
また、ホテルか。『ルードのキツネ/パナージュ家』という連中は、そういう職業に化けるのが、本当に好きだな……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます