第20話 血

「なっ」


 耳を劈いた爆音に、ハルメリオは咄嗟に周囲を見渡した。音の発生地は、先ほどシスルとメリーが消えていった廊下の奥――即ち、調律室。

 調律室は、アンドロイドを調律するための機材や重要な資料が保管されている。故に防犯システムが多数重ねられ、魔法も大きく制限される部屋だ。あそこは、爆発から最も程遠い場所のはず。それなのになぜ、鼓膜を大きく揺さぶる爆音が聞こえてきたのか。


「い、今のは……?」

「調律室からだ。……この方角は、シスルの部屋じゃないか?」

「ふ、副隊長! 今、そこには隊長がいるはずです!」

「うちのアンドロイドとシスルもな。部隊の機能停止を狙った襲撃かもしれない。気を引き締めていくぞ!」

「はい!」


 ハルメリオは、ラトの返事を聞く前に床を蹴り上げていた。爆音でちらほらと他の部屋から顔を出し始める隊員や調律師たちを横目に、長い廊下を駆け抜ける。ハルメリオの予測通り、先ほどの爆発は、シスルの部屋で起きたものらしい。廊下の最奥にあるその部屋の扉から、黒煙が込み上げていた。

 焦げ臭い匂いに鼻孔を擽られた途端、ハルメリオの脚は竦みそうになる。立ち止まりかけた脚を無理やりに動かして、ハルメリオは剣の柄に手を掛けた。

 あの日もそうだった。あの日も、家族で食事をしている最中、突然こんな爆音がして、焦げ臭い匂いが鼻孔を擽ったのだ。

 嫌な記憶が蘇る。鮮烈に蘇った両親の遺体に、友人や兄の姿、そして、無残に破壊されたメリーの姿を重ねてしまい、ハルメリオの背筋に悪寒が走る。それに伴って騒がしくなった心臓を宥めるように、ハルメリオは呪文のように独り言を繰り返した。


「兄上がいる。兄上がいれば平気だ。兄上は強いから……俺なんかより、ずっと……だから大丈夫」


 縋るような独り言を聞く者はいない。爆音に釣られてやってくる無数の足音の先陣を切って、ハルメリオは調律室の前に立つ。その瞬間に、分厚い扉の向こうから、何か物音が聞こえてきた。


「ッ、なんで、君が!」


 それは、振り絞るようなレイの声だった。いつもの穏健さは失われ、何処か取り乱した様子がその一言で察することができた。あまりにも苦しそうな兄の声を聞き、ハルメリオは自身の顔から瞬時に血の気が引くのを自覚した。


「兄上!」


 レイに何かあったのでは、と思うと、立ち止まっている暇などなかった。ハルメリオは慌てて扉のセンサーに近づく。センサーの感度が悪いのか、それとも爆発が影響を与えたのか、扉の動作は酷く緩慢だ。それが、今は腹立たしくて仕方がない。

 まるでハルメリオに内部の状況を見せつけるように、扉はゆっくりと左右にスライドしていく。

そこから覗ける部屋の内部は、酷い惨状だった。

 部屋中に設置されていた精密機械は大きく大破し、故障を訴える奇妙な高音を絶え間なく鳴らしていた。黒煙は、故障した機械達から上がっていたのだ。照明器具は粉々に粉砕された上にブラインドが閉め切られているせいで、部屋中が薄暗い。それが、酷く不気味な雰囲気を醸し出していた。また、シスルが仕事をする途中で床に放り投げていた様々な部品は、以前にも増して床中に飛び散っている。何者かが暴れたとしか思えない有様である。

 しかし、そんなものよりも、ハルメリオの視線を惹くものがあった。

 血。

 床に飛び散るように付着した血飛沫が、ハルメリオの指先を凍らせる。


「……兄、上……?」


 部屋の真ん中で、レイは静かに横たわっていた。――その周囲には、夥しい量の血が床を濡らしている。

 レイの顔面は、ハルメリオ以上に蒼い。どう見ても出血多量である。既にレイは意識を失っており、ハルメリオの声には何一つとして反応を零さない。

両親の遺体と、重傷のレイの姿がぴったりと重なった。このままでは兄が死んでしまう。そう悟ったのに、ハルメリオがすぐにレイの元に駆け寄らなかったのは、そんな光景と同じ位衝撃的な光景がもう一つあったからだ。


「……ハルメリオ、様……」


 動揺を露わにした少女の声は、機械らしからず震えていた。ハルメリオはいつだって彼女の顔立ちを『整っている』と認識していたが、今だけは、そうは思えない。彼女の白い頬には、べったりと鮮血が付着していた。


「……何やってる、メリー」


 呆然としたハルメリオの声に、メリーが肩を大きく揺らす。そんな光景も、ハルメリオの目には入らない。

 メリーの少女らしい手は、ナイフを握っていた。そしてそのナイフは、レイの上半身を突き刺している。恐らく、その残虐な刃はレイの身体を何度も貫いたのだろう。黒いマントに隠れて分かりにくいが、目を凝らせば傷口が一つや二つではないことが分かった。それらから溢れる血が、床に滴り、真っ赤な水溜りを作っている。

 頭が真っ白になる、というのは、このことだ。

 つい先ほどまで会話をしていた相手が、最愛の兄を瀕死に追いやっている。

 悪夢としか思えぬ光景に、ハルメリオは、ふとこんな言葉を思い出した。

 アンドロイドは、魔法使いにとって最適な労働者である。

 幼い頃に読んだ本の一文だ。あの日の記憶と共にハルメリオの脳裏に沁みついたその言葉を、ハルメリオは、今、強く否定した。

――否。アンドロイドは、憎むべき存在だ。

 両親を殺し、家に火を放ち、家族の思い出が詰まったあの家も居場所も奪った人間の姿を模っただけの化け物。それが、今度は兄までも奪おうとしている。到底許せるはずもない。


「……少しでも、アンドロイドに特別を見出した俺が馬鹿だったな」


 思いのほか低くなったハルメリオの声が、狂った機械音が満ちた部屋に落ちる。メリーは目を見開いて、瞬きを繰り返しながら、ハルメリオの顔を凝視していた。

 その紫の瞳がただの硝子であることを、いつから忘れていたのだろう。


「ハルメリオ様、これは」

「すぐにお前の心臓を砕く。証拠品だろうが何だろうが知った事じゃない。俺は決してお前を許さないぞ」


 指先の凍てつくような感覚は、全身を覆っていた。それでもハルメリオが剣を落とさなかったのは、メリー、否、目の前で最愛の兄を奪おうとする化け物への憎悪があったからだ。


「お前達は例外なく俺の敵だ! 俺を殺すというのなら殺してみろ。その前に、俺がお前を殺してやる!」


 ハルメリオは、十八年間の人生で最も声を荒げた。光の纏った剣をメリーに突きつけると、彼女の硝子の瞳がその光を強く反射する。それが、彼女が人間ではないことを証明していた。

 彼女の容姿が憎い。いや、容姿だけではない。声も、瞳も、喋り方も、身体も、髪の毛も、全てが憎くて堪らなかった。

 そして、それらを一度でも美しいと思ってしまった自分が腹立たしい。その自分を記憶ごと拭い去るようにして、ハルメリオはメリーを睨み付ける。どれだけ長い間見つめ合っても、心が穏やかになる時は、訪れなかった。

 メリーは何かを言いたげに唇を開いたが、そこから零れる声は一つとしてない。虚しく積み重なる無音すら、今のハルメリオにとっては煩わしい。


「兄上の上から退け!」


 空気を振動させた叫び声に、メリーは大きく肩を揺らす。髪と同時に黒いリボンが揺れるのが、非常に不愉快だった。

 気迫に押されたのか、それとも、斬り捨てられることを予測したのか、メリーは素早くその場から飛び退く。彼女が持っていたナイフは虚しい音を立てて床に落下し、レイの鮮血に濡れる。

 次の瞬間、メリーの足元で、何かが蠢いた。ハルメリオはそれを静かに睨みつける。

 部屋中に落ちた黒い影――それが、メリーの足元に凝縮しているように見えた。暗黒は、自分の形を探すように蠢く。それは徐々に質量を増して、空間ごとメリーを呑み込もうとしていた。

 その無形の暗黒から伝わってくるのは、殺意を秘めた圧倒的な魔力である。闇の靄は飛び退いたメリーを丸々と呑み込み、やがて影に馴染むように薄くなって消えていく。


「クソッ、逃がすか!」


 それが対象を何処かへ転移させる魔法であることは予測がつく。ならば、その魔法ごと叩き斬ってしまえばいい。

 ハルメリオは、剣に目一杯の魔力を込める。部屋全体が薄暗い上に煙が邪魔をするせいで、剣の輝きは先ほどよりも色褪せていた。僅かな眩さを灯した剣で、ハルメリオは目一杯靄を斬り捨てる。

 一瞬、刃の先に硬い手応えがあった。それは、アンドロイドの身体を真っ二つにする時と全く同じ感触であった。

――捉えた!

 そんなハルメリオの確信は、次の瞬間裏切られる。

 黒い靄に触れた瞬間、ハルメリオの剣は突然輝きを失った。

 魔法が奪われた。そんなことは、今までに一度も起こったことがない。しかし、何度疑っても目の前の光景は決して覆らなかった。

 普通の剣では、鋼鉄を斬り捨てることはできない。どれだけ腕に力を籠めようとも、その剣はびくともしなかった。

 そうこうしているうちに、靄は完全にその姿を消してしまう。同時に刃の先に感じていた手応えは消え、メリーの姿も完全に見えなくなった。ハルメリオを嘲笑うように、周囲の機械たちが騒がしく故障音をまき散らす。


「……ハル、メリオ……?」


 その音に混じって、弱弱しい声が聞こえてきた。ハルメリオは、咄嗟にそちらを振り向く。

 そこには、壁際に背中を預けて座り込んだシスルの姿があった。入口からは影になった場所で、彼は浅く息を繰り返している。その顔は、酷く苦しそうだった。

 シスルは、左腕に大きな傷を負っているらしい。一瞥するだけで痛々しい傷口から、大量の血が零れている。どうやら、左腕を深くナイフで突き刺されたらしい。


「シスル、これは何だ、何が起こってる!」

「……調律をしていたら、メリーが突然暴走を」

「アイツには攻撃的なプログラムは仕組まれていないんじゃなかったのか、なんでこんな、今更」

「彼女、言ってたんだ」


 取り乱したハルメリオの声を遮って、シスルが呟く。蒼褪めた彼は、真っ直ぐにハルメリオを見据えて、何処か感情が抜け落ちたような声で言葉を綴った。


「大事な人を奪ったお前達を、絶対に殺してやるって」


 ハルメリオはそれを聞いて、一瞬幻覚を見た。

 燃え盛る炎の中で、両親とレイとシスルが倒れている。幼いハルメリオが泣きながら駆け寄ろうとすると、一つの影が立ちはだかった。

 メリーである。全身に返り血を浴びて、鋭く光を反射させるナイフを握ったメリーは、静かにハルメリオを見て微笑していた。

 灼熱の炎で、彼女のボディはどろどろと溶けていく。人間的な姿をあっという間に失っていく彼女は、最期の瞬間、塗料が溶け出して白くなった唇を、ゆっくりと見せつけるように動かした。



 お前達を絶対に殺してやる。



 殺意を語るにはあまりにも穏やかな顔で、メリーは炎の中に姿を消す。次の瞬間、ハルメリオの意識は現実に戻っていて、炎も、三つの遺体も、何処にも見当たらなかった。

 シスルは先ほどの言葉を最後に気を失ったらしい。壁に凭れかかって目を固く閉ざす姿を見て、ハルメリオは静かにその場に立ち尽くす。心臓は騒がしいのに、全く生きている心地がしなかった。

 その直後、ハルメリオの後を追って突入してきたラトの迅速な行動で、二人は直ぐに医務室へと運ばれた。ハルメリオの治療に必要とした医者の、さらに倍の数が医務室に駆け込んでいく。その中で誰かが言った「死ぬかもしれない」という囁き声が、ハルメリオの心から離れなかった。

 その後、取締部隊は総動員で街中を捜索したが、メリーは見つからなかったそうだ。

 彼女の存在は、最初から無かったかのように闇に吞まれて消えた。ただ、メリーが残した爪痕だけが、彼女が確かにここにいたことを物語る。

 夢だったならどんなに良いことだろう。ハルメリオは真っ白になった頭で、幾度となくそう思った。

 しかし、悪夢のような現実は、一向に覚める気配が無かった。


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