春の片隅に犬は咲く

秋冬遙夏

春の片隅に犬は咲く


「私はお前より二歳も年上だ」

 目の前にかがみこむ小娘、コハルに向かって大きな声で主張する。だがしかし、その声は彼女には全く届かない。いや、届いたことがない、と言うのが正しいのだろう。

 因みにコハルというのは、この家の一人娘のことである。そして私はというと芝犬である。昔からこの家で飼われてる芝犬である。名は、何処にでもいそうだからという理由から「田中」と名付けられた。全く気に入ってはいない。

 彼女が最初にこの家にやってきた時、私はもうこの家に二年住んでいた。だから実質的にはコハルの兄なのである。それなのに「かわいー」とか言って撫でてくるから、鬱陶しくて仕方がない。

 最初に会った時の彼女は、赤ん坊の餓鬼であった。そのため夜は泣くは、私を追っかけ回すはで、私は無性に腹が立った。そこからだろう、「私はお前より二歳も年上だ」などと意地になって吠えていたのは。そして時の流れとは早いもので、その時から毎日のように吠え続けて今年の春で18年にもなるのだった。

 それにもかかわらず、私の声が「ワン」と鳴り響く喚きや号哭の一種にしか聞こえないらしいから、私はうんざりしているのである。そして私が喋ったことに対して、彼女は毎回のように頓珍漢な解釈をし、挙げ句の果てに「田中、うるさい」なんて言ってくるから、余計にうんざりしているのである。

 コハルは、本当にコミュニケーション能力が欠けている娘だ、そう思ったことが何度あったことだろう。


 今回だって同じことである。言いたいことなんて微塵も伝わらず、全く違った形で伝わってしまう。


「そっか、田中も私がいなくなるの寂しいかーよしよし」


 私は寂しいなんて一つも言ってないし、思ってもいない。それより頭を撫でるのをやめてほしい。

 そう言えば、コハルは四月から東京の大学に通う関係で、この家を離れて一人暮らしをするらしいのだ。さっきも言ったが、別に寂しくなんてない。


「よし、いくよ」


 よく見ると自分の首輪にはリードがついていた。「散歩にいくよ」と言いたいのだろう。私は重い腰をゆっくりと持ち上げて彼女の後ろをついていった。

 彼女が小学5年くらいの時だったか、私の散歩係がコハルになったのは。最初はイヤイヤ言っていたが、結局のところ朝早く起きて散歩をしてくれた。コハルの前はパパが散歩係だったのだが、コハルの方が自由気ままな性格だからか、いろんな場所に連れていってくれて楽しかった。


「うちが散歩するのも今日で最後やかんな」

 まぁ、そうだな。

「あ、言っとくと次の散歩係はじゃんけんで負けて、またパパになったから」

 またパパなのね。あと家族で散歩係を押し付けあうのは止めてほしい。結構、傷つくから。


 ふと、前を見ると藍色のスカートが揺れていた。最初の頃は着替えるのが面倒だから、と学校指定の体操服を着ていたコハルだが、いつからかお洒落になっていった。コハルに限らず人っていうのは変化が早いと思う。いつの間にか背丈も心も大きくなっていく。コハルには是非、良い変わり方をして欲しいと願う限りだった。

 前を歩く彼女の足が止まった。そしてポケットからメモ帳を出してペンを走らせた。

 コハルは高校生に入ってから「他にやることが無いから」という理由で小説を書いているらしい。そのため、こうやって散歩を中断してはメモを取ることが多々あった。きっとコハルのことだから、しょうもないことをメモしているのだろうと予想をしてるが、メモを見たことが無いから、そこはなんとも言えない。

 基本的に彼女が止まってメモをしている間はやることも無いので、彼女と同じように景色を眺めている。面白いことに改めて見ると、いつも見ていた景色だっていろんな表情があるのだ。

 今は暖かな日差しがアスファルトを温めて、花も虫も僕たち犬も生きやすい世の中だが、これが少し時間が経つと蝉にしか嬉しくない世界になる。今は地球の端っこまで見えるくらいに空が青いが、これも一日の最後には手元しか見えないくらいに暗くなる。


「田中、おまたせ。最後やし、せっかくやから遠回りしよっか」


 その言葉と同時に彼女は路地裏に入り込んだ。遠回りのルートに変えたのだ。彼女は楽しそうに笑っていた。いまだから言うが、私は彼女の笑い顔が好きだった。心の底から「笑い」が溢れ出してくるのが、えくぼに現れていた。


 私たちは、いつの間にか路地裏を抜けて、河川敷を歩いていた。いつも思っていたが、ここから見える景色はとても綺麗だ。そもそも川というものが綺麗だと思う。自分は犬だからこの水がどこから来ていてるか、などの難しいことは知らない。しかしずっと流れ続けているのは確かなことだろう。それが止まったようなこの街で、止まらないように足掻いてる感じがして、見ていて飽きなかった。そんな綺麗な河川敷からの景色を見て、コハルは言う。


「田中は覚えてる? 昔、こっから一緒に花火見たの」


 申し訳ないが、覚えてない。

 私も所詮は犬である。記憶力なんて人間に比べたら屑みたいなものだ。とは言ってもコハルの幼少期など、覚えていることはある。

 しかし何を忘れてて、何を覚えているか、自分でもわからないのが難しいところであるのだ。それでも彼女は私に向かって話を続けた。


「小さい頃、隣り町のお祭りに行きたいって駄々こねたんやけど、ママが行かせてくれんくてね。やけど、どうしても花火が見たくなって田中を連れてここまで来たんよ」


 隣りを歩くコハルの横顔は凛々しかった。首と彼女の手を繋ぐリードが小刻みに揺れていた。そして、まだ彼女は話を続ける。


「音も大きさも小さい花火やったけど、私の忘れられん思い出や。今はもう、そのお祭り無くなったらしいけどな」


 空に向かって笑い飛ばす彼女に、私はなんて返して良いか、わからなかった。ただ、コハルにとっての大切な思い出を覚えていなかったことを、謝りたいと思った。しかし、謝っても「ワン」としか伝わらないのだろう。ずっとそうだったのだから。この世は変わってほしいものは、一向に変わってくれないものである。


 その後は、お互いに何も喋らなかった。ただ、ひたすらに隣を歩いた。

 シャッターの閉まった花屋の前を通り、さっき通った路地裏を抜けていく。そしてまっすぐ歩いていくと「中野」という表札が貼ってある家が出てきた。

 この家がある場所は昔、空き地でコハルと一緒に秘密基地を作った場所だった。小さい頃よく遊んだ、あの秘密基地はきっと、大人の手によって数分で壊されたのだろう。コハルが何か月もかけて作ったのに。


「田中、もうすぐ家だよ」

 そんなの、わかっている。

「気になってるんやけど、私さ東京でうまくやれっかな」

 それは微妙だな。コミュニケーション能力低いし。正直、心配だ。

「まあ、私ならいけっか」

 そういうところが心配なのである。


 そして、私たちは帰路についた。変わらない我が家であった。

 コハルは流れ作業のように私を犬小屋に入れた。少し窮屈な部屋だが、とても落ち着ける部屋だ。そして彼女は蛇口を回して、私に餌箱一杯の水を差しだした。この水は毎日飲んでいるのだが、夏場に冷たいのが飲みたい時はぬるいくせに、冬に温かいのが飲みたい時は冷たいから、とても嫌いだ。まあ、美味しく飲めるのはこの季節くらいだろう。


「田中、寂しくなるな」

 さっきも言ったが、私は別に寂しくない。

「体には気を付けてや」

 そんなのお互い様である。それより私のことなんて心配しないで、自分のことを心配してほしいものだ。

「ほな、行ってくる」


 コハルは、そう言い残して、いっぱいの荷物を乗せた車に乗り込んだ。

 私は東京がどんなところか知らないが、できることなら彼女の好きな、お祭りが一年中やっているような場所であって欲しい。それから自分の好きな、川がどこまでも流れているのが見れるような、そんな場所であって欲しい。そして、秘密基地を作れるような空き地も近くにあれば、なお良いだろう。そんな夢みたいな場所にいれば、コハルはいつか立派な大人に変わっていけるだろうに。


 まあ、コハルが何処に行っても、どう変わっても、私はお前より二歳年上の兄である。要するに私は今年で二十歳なのである。不思議なことに犬と人間とでは違うようで、コハルは十八でまだピチピチしているが、私は二十でもう限界が来ている。散歩するにも、立ち上がるにも足が痛いのだ。本能的に、私が変わってしまうのも近い気がする。


 彼女を乗せた車がゆっくりと動き出した。私はその背中に向かって精一杯の声で吠えた。意味は特に無く、ただ吠えた。

 空はやけに透き通っていて、庭に咲いているガーベラはやけに鮮やかだった。きっとこの時期の世界はどこまでも暖かくて、優しいのだろう。そうでないとみんな、新しい生活に踏み出せないのだから。私はコハルだけじゃなく、優しい季節の中で変わっていく全員に向けて、叫んでいた。喉が潰れるまで叫んでも、人間には「ワン」という単純な響きにしか聞こえないのに。


「ワン」

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