第8話 徒然に散歩しよう

 ジュンは散歩が好きだ。

 東京は散歩にとても適した街だ。

 長くない距離の間にほぼ人間の衣食住に必要な店がリフレインされる。


「神保町、ひさしぶりだな」


 文学部でかつ自宅生であるジュンはルーシーでのアルバイト代のほぼすべてを本代に使うことができた。ちょっとした特権階級だと満足すらしていた。


「さ。スタートはここだよね」


 三省堂書店のエスカレーターで各階を回る。文芸のコーナーには限らない。なぜならば執筆の発想は人間活動のすべてに起源するのだからあらゆる分野の極力一次資料に近い書籍をジュンは見て廻った。


 最初は医学書のコーナー。


「ふうん・・・パーキンソン病ってドーパミンの分泌量に関係あるんだ」


 ページを繰るとまた新たな発見があった。


「パーキンソン病は幻視・幻聴をともなうケースも・・・なんだかロマンティックだな」


 闘病している方々には申し訳ないと思いながらも、ロマンティック、と評した自分の感性が文学的だと好ましかった。


 次は経営書のコーナー。


「『デキる人の時間の使い方』『好きな仕事には本気になれる』・・・なんか違うなあ」


 ジュンはどちらかというと古典に分類される古い経営者たちの本に手を伸ばす。


「『辛苦よこい』『どん底からの再建法』・・・か」


 ジュンが後者にシンパシーを抱くのは好んで読んできた文芸の作家たちもどこか苦悩する人間をヒロインやヒーローとして描いていたように感じるからだった。


 すべてのフロアを回り、幾冊かの本を買ってトートバッグに滑り込ませる。


 次は本屋さんのはしごで東京堂書店へ。ジュンはこの書店の雰囲気がとても好きだった。並べられている本もこの店に関わるひとたちの意志でもって選ばれているような誠実さを常に感じていた。


 ジュンはこの書店では階段で移動する。階段のエリアの壁にはまるで小さなギャラリーの個展のように写真家たちのパネルやポスターや絵画が展示されているからだ。


 階段をゆっくりと登り、またゆっくりと降りてくる。


 書店を出てほどよい喧騒と外気に触れたジュンはお茶の水方面へ坂を登る。坂には楽器屋が並び、自分はギターも弾けないが、ギターケースを担いだ同年代の子たちが歩いている様子を見ると創作意欲が湧いてくるのだ。


 坂を上り切る、明治大学のキャンパスを少し過ぎた辺りの山の上ホテルの敷地にジュンは入った。

 土曜の午後、どうやら結婚披露宴があるらしく、幸せな顔をしたひとたちが喫茶ロビーでソフトドリンクを振る舞われ開宴を待っているようだった。

 あいにくの貸切でコーヒーを飲むことはできなかったけれども、おめでとう、と心の中でつぶやいてジュンはお茶の水駅の方へ歩いて行った。


 最後にジュンは神田明神を訪れた。


 いくつもの創作に登場するとても有名な神社。

 ジュンはそういう神社そのものにも敬意を払うけれども、実はお茶の水駅から続く数百メートルの道のりがとても好きだった。


 まるで都会の中に突然現れた谷のような場所を走る線路。


 大学の病院がそびえる交差点から見えてくる神社の敷地。


 そういうところを歩いていると、東京なんだ、と強くジュンは感じた。

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