第361話 人間性とは

 今回は前日の信一さんの論文についての本来の日本語での文章を載せます。英文では途中までだったんですが、信一さんのJiarthサイトが消されてしまったためこの場を借りて載せさせていただきます。


  人間性とは             小幡信一


 人間性とは、他の有機体の動物とは違った、人間独特の特徴や性質のことであり、人間として生きるうえで最も必要なものです。人間性は人間本来ある欲求の中から見出された価値観により身につくものです。そして、価値観は人間が行動する上での基準となります。

 人間が本来ある欲求とは、得られることにより満足するものです。どのようなものが満足するものであるか、例を挙げてみると、愛、理解ある人物、理想、誇り、自己表現、自己の居場所、社会での承認、多種多様な存在に対しての知識や理解、美、食物、資源、物、喜び、快楽、幸福などといったものです。欲求を得るために手段を選ばないとすれば、社会は混乱状態に陥ります。そこで、何を大切にすべきか、何に対して価値のあるものとするのか、ということが人間性を築くに当たって問題になってきます。


* 大切にすべきもの・価値のあるもの

 大切にすべきものとして最優先な者は、人類の幸福、つまり自他の幸福でしょう。幸福になるためのものでなくては意味がありません。ゆえに、人間の持つ価値観は幸福のためのものでなくてはなりません。

 価値観は、人間が行動する基準です。つまり、お金に価値があると思うならお金のために行動するし、人間の絆に価値があると思うなら絆のために行動するし、自らの夢に価値があると思うなら夢のために行動するということです。

 それでは、人間にとって一番興味深い、幸福のための価値観とはどのようなものであるか。

 これを論じるには、まず、人間は何を基準に行動をしているかというところから探る必要性があります。まずは基準となっているものとして、次のようなものが挙げられます。宗教・哲学といった理想主義、真実・現実・歴史といった情報・結果主義、物・お金・資源といった物質主義、友情・愛情・信頼・優しさ・思いやり・絆・笑顔・親友・感謝の心といった仁愛主義、詩・芸術・文化・自然、といった美楽主義、自分自身といった利己主義、といった様々な主義によるものです。これらは人間にとって基準となるものであるからすべて重要であると言えるでしょう。

 では、これらを踏まえた上で、それらの重要性と方向性について確認していきましょう。


* 理想主義

 人間の理想を掲げているものは、現在では宗教や哲学が、これに当たります。その宗教や哲学は自らの不幸を避けるために作られたものであります。なぜなら、それらは人間が幸福になるために、あらゆるものを洞察・分析し、人間の考え方、心構えに対し、改良に改良を重ねて出来上がったものです。

 ここでいうあらゆるものとは、宇宙全体のマクロの世界から、原子・素粒子といったミクロの世界、プランクトンから人間といった全ての生命、人間に焦点を当てると、不幸の原因である孤独・破壊・損失・苦悩・地獄という世界から幸福の世界、生命の誕生から死、精神の世界、失敗から成功、矛盾から真実など、思い当たるもの全てです。

 宗教や哲学は、これらを究極的に追求したものであるため、人が生きていくうえでは、ヒントを与えてくれるものなのである。また、視点を変えると、宗教や哲学は、究極的に追求されたものなので、追及するという求道心がある人も、自分なりに、宗教または哲学を持っていることになります。

 しかし、ここで重要なのは、宗教や哲学は覚えたからといって、現実が変わるわけではありません。理想は不幸の現実を幸福に変えるためにあるので、宗教や哲学は覚えるのではなく、身につけるものでなくてはいけません。


* 情報・結果主義

 真実・現実・歴史というものは、一言で言えば事実です。事実はどんなに否定しても揺らぐことのないものです。たとえ事実に対して虚言を放ったとしても、どこかに矛盾が生じてきます。矛盾があれば、その事実は信用性がありません。事実は正確な情報です。ゆえに、事実は重要です。しかし、事実を重要視するからといって、それに縛られてはいけません。事実はあくまでも、過去から現在までの時間的経過により出た結果にすぎません。現在は自分に不利な状況だとしてもあきらめるのは愚かです。なぜなら、未来の事実は作って出来上がるものだからです。しかし、過去・現在を背負った上で、それらを未来に対して自分に有利になるように考え・実行すれば、未来への道は自ずと開けるものとなるでしょう。

 とにかく、重要なのは、事実は人生で言えば確かに結果であると言えるが、事実は創りあげるものであることも忘れてはいけません。


* 物質主義

 物、資源、お金は、人間が人間社会の中で生活するうえで、必要となるものです。物・資源がなければ生活はできませんし、お金がなければ必要な物・資源が手に入らない、ということです。しかし、この主義に執着しすぎると人を大切にすることを忘れてしまう恐れや、お金があればすべて手に入るといった錯覚に陥る恐れがあります。


* 仁愛主義

 仁愛主義は、友情、愛情、信頼、優しさ、思いやり、絆、家族、笑顔、親友、感謝の心というものを大切にする、つまり、自分以外の他の人を大切にするというものです。利用されたり、騙されたりすることもありますが、そのたびに相手の本性を見抜くことができますので、決して損なことではありません。洞察力が増し、周囲の人間がどういう性格を持っているかが解るようになります。しかし、ただのお人好しでは自分が損するのみであるので、その辺は注意しなければいけない点です。この主義は自分自身に力が持てば持つほど効果的です。なぜなら、この主義のみでは頼ってくる人も少ないが、自分に様々な力が加われば、頼ってくる人が増えるからです。


* 美楽主義

 詩、芸術、文化、自然などというものは、人間が生活する中で心地よさや安らぎ、共鳴をするところから、人間の感覚を発達させ美を感ずるところに楽しさがあります。

 詩は、言葉に対して感性をひき出させ、美しい表現であらわしたところに、心に響き、感動を覚えることを楽しむものであります。

 芸術は、美術や音楽などといったものがありますが、美術は視覚を通した美しさ、音楽からは聴覚を通した美しさに何らかの意味を持たせ感性を豊かにするものであり、これらも詩と同様に心に響かせるものであり、感動を覚えるものを楽しむものでもあります。

 文化は人間がその時代の生活様式をあらわしたもので、過去の人々の生活の知恵の証といえます。さらに、発想や珍しさに美しさや感動を覚えるものを楽しむものでもあります。

 自然は草木や森、川、海などといった人間が技術的に手を加えないでそのままある状態のものです。自然は人類の出発点だという実感から、本能的に人間が自然と一体化しているような気分になるかのように、とにかく、心地よさ、安らぎを与え、存在自体に美しさがあり、その中にいる事に楽しさを味わうものでもあります。

 このようなものに価値を置いた考え方を美楽主義といいましょう。現実の中で、美しいもの、感動したもの、楽しいものなどは、誰もが壊したくないと思うでしょう。その思いからこれらを大切にしようと保護をするならば、美楽主義は生きてきます。しかし、現実の中に美や楽を見つけるまたは創るということをせずに、妄想上の美と楽を追求するのは危険です。なぜなら、そのような考え方を持っていれば、現実に美と楽を求めることをしなくなるので、現実から離れようとし、現実逃避をしてしまう恐れがあります。美楽主義は現実の中にあってこそ価値があるのです。


* 利己主義

 利己主義は自分のためを基準とする考え方です。生きていくうえでは自分自身は大切でしょう。しかし、自己中心になればいずれ人は自分から離れ、得をするどころかかえって損をしてしまいます。さらに、立場がある者がこの状態なら、その者に従っている者にはストレスが溜まり悪循環を繰り返すのみでしょう。

 ここで、利己的な考え方を変えてみるといいかもしれません。自分というものを広い意味でとらえるのです。つまり、自分以外のものを自分とみなすのです。自分にとって味方の人間なら、自分自身の細胞の一部ととらえ、大切にすれば、相手もそれなりの対応は必ずするはずです。また、敵は自分自身の病原菌もしくはウイルス、がん細胞ととらえ、抗体を作るか利用するかして自分を強くするまたは自分にとって有利な方向へもっていくと考えれば敵は頼もしい存在になります。

 つまり、広い意味でとらえた利己主義というものは言い換えれば自他主義ということになります。また、give and take主義ともいえます。

 さらに、人間は自分一人で生きているのではありません。子供の頃は親または保護者に育てられ、大人になれば社会の中の一員として他人と依存しあいながら生きているからです。どうせ依存しあいながら生きていくのなら人間関係は良くしたほうがいいにこしたことはありません。そのためには、自己中心では依存しあうどころか反発しあうだけですので、自分と他人を考えた自他主義でいれば利己主義も生きてくるでしょう。


* 人間主義

 以上人間にとって行動の基準になっている主義の内容と重要性と方向性について述べてみました。このような主義は人間である以上すべて重要ですので、その中で偏った主義を持たずに平等に同一視をした主義を人間が基準とすべきであるので、そうしたときの主義を人間主義とここでは言い切っておきましょう。


* 人間主義の中の欲求

 人間が行動をする基準である人間主義は、人間全体の中の個人としての行動基準であるが、実際は、人間が行動を起こす元になっているのは、主義よりも、欲求であります。

 とりあえず、個人としての欲求の中には、どういうものがあるかをあげてみると、知る・理解することへの欲求、承認されることへの欲求、自己表現への欲求、美楽的な存在への欲求、刺激に対しての欲求、夢・希望に対しての欲求、創造への欲求、愛への欲求、生理的欲求などがあります。

 これらの個人的な欲求は、使い方によっては、プラスにもマイナスにもなります。それでは、これらの欲求は、人間主義の中で、どのように生かしたらいいのでしょうか。一つ一つ掘り下げて論じてみましょう。


* 知る・理解することへの欲求

 知る、理解することへの欲求というのは、生命が本来持つ学習能力であり、逆に言えば人間は生きるために本能的に学習能力が備わっているので、この欲求があるのは当然のことであり、この欲求は、言い換えれば自己学習への意欲です。 自己学習することにより人は何を学ぶのか。一言で言えば、自分が生きるための他の存在との依存・共鳴の仕方や、人間などの存在するものそのものです。このようなものは、親・教師・友達などや、本・雑誌・テレビ・映画などや、自ら行った実験や経験などから得られた情報から入り、それらの情報は自分が生活をするうえでの知識として、また知恵として、必ず役に立ってきます。

 ここでいう知識は、先人たちが長い歳月をかけて生まれた知恵であり、知恵は自らが考えて生み出した発見や発明、方法です。

 知識が先人たちの知恵だということはどういうことかといえば、例えば、火の使用から見ても生物は本来は火を恐れて近づかないが、人間はそれを利用して外的から身を守るだけでなく、食生活にまで応用している。また、現代の人々がさりげなく使っている電気、機械類等も、いわば先人たちの知恵の証です。さらに、変化の中で生きる人間は、絶えず新しい生き方、つまり、効率の良い生き方を求められている中で、幸福のための揺らぐことのない不動の人間性の確立を考慮に入れながら生まれた生活観も、人間の知恵であるといえます。したがって、今ある知識は先人たちの知恵であるということです。

 このことからも、この欲求は、人間が行動をするに当たって、重要だといえます。なぜなら、今あるもの、つまり、存在するものを学ぶことにより、存在を分析し、分析力は知恵を生み、判断力を生みます。さらに、判断力に勇気が加われば、人は間違いのない行動ができるからです。この欲求は、人間主義にのっとったものに使えば、効果的でしょう。


* 承認されることへの欲求

 承認されたいと思う欲求は、一言で言えば、社会の中での自分の存在価値を見出したいという集団の中で生きる人間としての欲求です。認められたいと思う理由は様々です。例えば、自分の力を示したい、自信をつけたい、自分の力がどの程度か知りたい、認められれば立場が上がり自分の思うとおりに行動ができる、などといったものがあげられます。

 認められる要素としては、若い世代のうちは将来性、社会人の中では実用性、であります。

 将来性があるといえる要素は、具体的なものを挙げれば、勉学に対する意欲が旺盛、努力家、分析力・理解力がある、活動的、あきらめない、他と比べて能力的に秀でているものがある、というものです。

 実用性があるといえる要素は、迅速な判断力と行動力、つまり、処理能力と、創造力の源である奇抜な発想力と新しい構想力という、社会にとって必要とされる、役に立つという活用性のある力を持っているということです。

 また、認められようと思うなら、半分以上は認めさせるという気持ちも持つといいでしょう。認めさせるには、相手に感動を与える、相手を圧倒させる、などと場面ごとに様々な要素が要求されますが、少なくとも相手に対して、何らかの影響を与えることが大事といえるでしょう。

 とにかく、社会的に承認されれば地位がつくことになり、たとえ責任が重くなったとしても、自分が活動する上ではある程度自分の意志で自由に行動ができ、生活も約束されます。さらに、地位が増した上で、人間主義に準じた行動を取るならば、社会的承認が得られることに対して拍車が掛かることは間違いありません。

 しかし、社会的地位を得ているにもかかわらず、人間主義からはずれた行動を取るなら、身近にいた人も離れ、孤独に陥り、その地位は極めてむなしいものとなるでしょう。

 承認されないことに対しての不満については、原因を追究することです。不足部分や欠陥部分は必ずあるはずです。承認されるためにはどういう要素を持ち合わせればいいかということと、自分のどういう部分を承認されたいかということを再確認する必要があります。その上で、もう一度挑戦するか、無駄だとか、無理だとか思えばその場はさっぱりとあきらめることでしょう。恨みを持って八つ当たりしても何の解決にもなりません。そういう場合は方向性を変えてみるのが最適でしょう。


* 自己表現への欲求

 自己表現への欲求は、人間が集団生活する上でなくてはならないものです。なぜなら、意思の疎通ができなければ、相互依存関係にある集団生活をすることは、不可能だからです。つまり、自己表現の最大の目的は、自分の意思を相手に伝えることにより、人間の集団生活の中で、自分と相手が、同調することです。

 自己表現を行う手段として、言葉と映像があります。言葉はそれぞれの存在に対して、発音の組み立てにより、様々な存在を分類し、区別することで、異なる意味を持ち、また、文字は様々な存在に対して意味を持ち、発音と文字をあわせることにより、自分の意思を表現した言葉を目や耳から伝えます。映像は、目に映った光の反射から像や、その動きをとらえたもので、映像を使った自己表現の方法として、テレビ、写真、絵、ビデオ、手話などがあり、それらは視覚を通すことで、相手に意思伝達をすることになります。さらに、言葉と映像を相互に使うと、相手に対してより正確な情報を伝えられます。

 次に、言葉や映像を使って何を伝えたいかが重要になります。特に、苦悩・困難・怒りから生じた問題を提起する場合、また、疑問を追及する場合、感情のみを伝えるのは簡単ですが、その場合は、知りたい点、不明な点、矛盾した点、について明快にする必要があります。さらに、解決方法まで考えるとすれば、過程を踏まえた解決された状態の予測をイメージしなくてはなりません。そのように、伝えるものに対し、明確にするためには、伝えるものをできる限り知らなければいけません。つまり、自分の意思を相手に伝えるなら、まず、伝えたいものを知ることから始まります。そして、伝えたいものを知ることにより、何を伝えたいのかがより明確になるのです。

 この考え方は、人間が、個人として、団体として、人間全体としての繁栄のための、成長、発展・維持、開発・充実をする上でも重要になってきます。


* 美楽的な存在への欲求

 美しいものは感動を与える。感動は安らぎを生み、安らぎは人生の楽しさを覚える。自らが楽しいと思うものを嫌うものはいない。したがって、当然この美楽的な存在への欲求は個人の中に必ず持っているといえます。

 美楽主義との違いは、主義は人間にとって大切なものを行動基準とし、欲求は個人としての満足を行動基準とするものです。また、この欲求があるからこそ、この主義があるのだといえます。

 この欲求の重要性は、まさに美楽主義思想であります。つまり、この思想があると、美というものが大切にされ、それと同時に、美というものをいつまでも楽しむことができるので、美の存在により、人間の破壊行為が抑制されることは現実には数多くあります。

 先の美楽主義のところで述べたように、美は妄想上ではなく、現実の中にあって価値があるものです。現実の中にあるということは、自分の人生の中にあるということです。そして、人生の中の美とは、一言で言えば、感動する、すばらしいと思うところにあります。それらを見つけると同時に創造するところに価値があり、楽しさがあります。このような考え方で美を獲得するなら、この欲求は自分にとって有用なものになります。

 それでは、美というものに対して、現代の人間はどのような意識を持っているのでしょうか。

 一つ目としては、インテリ意識です。これは美というものに人間の多感多情さを表し、意味を持たせ、一般的に知識としてとらえた意識です。この意識は教養を得るには必要ですが、直接的に幸福へつながるかといえば、この意識を使って商売や仕事をしてお金が得られたとしても必ずしもそうであるとは限らない。

 また、芸術品などの美を獲得したとしても、美が獲得したからインテリ意識があるような気分があるだけで、獲得した美について名前だけ知っても、その意味や効果を理解していなければ、その美は得られた人にとってはその存在価値は半減してしまいます。

 しかし、逆に言えば、美というものに対し、意味や効果、つまり、その美がもたらす影響が解っていれば、美の存在価値というものが、人間として生きる上では深みが増します。

 二つ目としては、表面的な意識、つまり、視覚的な美しさです。視覚的な美しさは、姿・形に対して、自分が心からいいと直感的に思うものです。この意識は誰もが持っているので、人の心をとらえるには最適であると同時に判断基準になります。特に、表面的な意識と人間個人について少し述べてみると、美の表面的な意識による人の判断基準になるものは、おおよそ人間個人の肉体、服装、動作で、肉体は顔、体の色や形、服装は色の組み合わせ、動作は姿勢やしぐさにより、個人としてのイメージというものが出来上がります。しかし、当然のことながら、イメージと性格は直結しているわけではありませんが、心理的な部分が表面に現れることも否定できるわけではありません。

 さらに、心理的な部分というのは本来自分が持つ性格に自分自身の環境のあらゆる側面から影響を受けることにより身についた感情と混ざり合ってできた心理状態です。その状態の中から、その人それぞれの優しさ、誇り、考え方、聡明さ、強さ、やわらかさ、苦しさ、甘さ、わがままさ、忍耐強さなどが総合的に、特に顔に表情として出てきます。

 そういう意味では、心理的な部分からも、心の美しさというものも欠かせられません。その心理的な部分は表面的な意識というよりは内面的、つまり、ここの人間性でありますので、ここでは省略します。

 以上に述べられた美についての意識から、人は美を獲得しようとするところにこの欲求が存在します。美を獲得することにより、自分にとって有利な方向へ展開させることができることに変わりはないからです。

 美の獲得方法としては、まず一つ目は、芸術品、アクセサリー、化粧品、服などといったものを金銭により獲得する方法です。

 二つ目は、美を自ら作るということです。芸術を自分で作る、顔に関していえば、鏡の前で常に今の自分にとっての一番いい顔を研究し、なるべくいい表情を作る、ということです。

 さらに、美の使い方によっては価値の度合いも変わります。例えば、さりげなく美を使うことにより雰囲気を漂わせ、相手を自分のペースに引き込ませる。見せびらかしたり、自慢することによって自己満足に浸る、などがありますが、どのように使ったほうが得かは考えて、自分に一番ぴったりな使い方をするのが一番いいでしょう。

 しかし、目立つ美しさにも心をひくものがありますが、質素の中の美しさにも心をひくものがあるのをきちんと分かっているのもいいでしょう。


* 刺激に対しての欲求

 刺激に対しての欲求は、若い人間に多く見られる欲求で、一言で言えば、冒険心です。若い人間に多い理由として、一つ目は冒険心により、刺激されることに対しての恐ろしさを知らない。むしろ楽しむ傾向が強い部分です。特に、未知への世界や、危険な世界へ入ることの元となる感情は、刺激される中で自分を試したい、変化のない生活に飽きた、自分が井の中の蛙だと思った、そういった世界に魅力を感じた、ただ楽しむ、などといったものです。

 二つ目は、矛盾があり、なおかつ規制された社会へのストレスや反抗意識でしょう。意味のない矛盾した規制、一部の人間のための不平等な規制や権利が、社会の中に蔓延ることにより、開放的でなく、また自由でないところからこのような意識が生じます。また、家族や学校の中での納得のいかない規則や説得、不理解・不信感から、今、自分がいる世界を嫌がり、違った世界へ足を伸ばしたいという感情から、このような意識がでてきます。

 とにかく、この欲求は様々な経験をするという意味では、自分の人生に役立ちます。さらに、経験をすることにより、人は人間の多面性を知ることができ、それを分析することにより、これからの先の人生に対して予測を立てた挑戦ができるようになります。

 しかし、そうした経験は得られるだけでなく、当然、失うものも数多くでてきます。そのことにより後悔することもあるでしょう。そうした意味では、ある程度の覚悟はしておかなければなりません。また、後悔した場合は自分の行動は自分で責任を持たなければならないし、自分が力不足である点を学ぶ必要があり、悩むこともあります。しかし、逆に言えば、人はあらゆる経験から、悩みながら成長をするということです。つまり、経験は、何が大切だったか、何が不足だったか、何を失いたくないか、などということを、自分に問いかけるきっかけを作り、自分のこれからの人生に役立たすものであるということです。

 このような冒険心はなぜ人間に存在するのかと言えば、人間が本来生存するためにあらゆる経験から学習しようとする本能からくると考えるのが一般的でしょう。


* 自尊心への欲求

 自尊心。それは人がそれぞれ持っている誇り、プライドです。自分を傷つけられると怒ったり、悔しかったり、自分の力はこんなものではないなどと感じたりする人には、自尊心というものがあり、自分は自分でいたいと思う心にこの欲求があります。

 自尊心にはどのような種類があるのだろうか。いくつか例を挙げてみると、相手より常に上でいたい、これだけは誰にも負けられない、これだけは譲れない、強くなりたい、よく言われたい、誉められたい、自分はこれ以外の何ものでもない、などというものがあります。

 この欲求は自分に求める、また、自分を高めるものであれば、自分らしさを引き出す、強さを引き出すには自分自身にとって有用な力になることは間違いないでしょう。なぜなら、この欲求が強いことにより、恐怖とかという感情が起こりにくく、行動的になるからです。行動的になる理由は、率直に言えば、自尊心の維持でしょう。

 ここで重要になるのは、自尊心の維持についてです。そうする方法を人間がする方法としては二つあります。一つは自分を高める。もう一つは相手を落とすということです。後者の方法をとる人間の心は、相手より上でいたいがために相手を落として、自分が相手より上に見せようとする魂胆です。こういうことをしたからといって自分の立場が上がるわけでなく、かえって醜さを露呈します。また、自分より相手のほうが上で、自分の力が相手に及ばないがゆえにこういう行動を起こすともいえます。なぜなら、自分の力が相手より上回ると思えば相手を落とさずとも自分に力を求めて自分を成長させればいいからです。ですから、自尊心を維持するなら、相手を落とさずとも、自分の力を上げれば自然と相手を上回り、相手が自分を落とそうとしても、相手が勝手に自分で自分の立場を低くするだけですので、要するに自分を成長させながら自分を保ち続けていけばいいわけです。もう少し掘り下げると、相手の立場を下げるために使った手段というのは、真実を非難するには効果があったとしても、嘘、偽りを作っても意味がありません。誤解が解ければ、他の人に迷惑をかけたり、混乱させたことになるので、自らの立場はますます下がり、相手が自然と上がるということになり、無駄な行為であるといえます。

 相手を落とすやり方は、表面的に言えば、醜く、評価は得られても、一時的なもので、そういうものは後になって失敗することは、歴史上でもよくあることです。また、魅力という面から見ても、自分の魅力が上がることはまずありません。

 自尊心を維持し続けるならば、自分に力を求め続けることが重要ではないでしょうか。自分に力があれば自尊心を失うことはまずないからです。と、同時に、自尊心の基準は相手が自分を認めるというよりも、自分で自分を認める方が大事です。なぜなら、環境に左右されやすいからです。

 また、今自分が持っている自尊心が、あまりにも無意味だと感じた場合は、あっさりと切ることも大事です。なぜなら、自尊心により自分自身を見失ってしまうからです。


* 所属(自分の居場所)に対しての欲求

 所属しているところ、自分の居場所というものは、人間個人にとってどういう場所なのでしょうか。そのような場所は、大きく分けると二種類あります。一つは自己の存在価値のある場所、もう一つは自分が心休まる場所です。

 前者を具体的にどういう場であるかを挙げて見ると、自己の力が発揮できる場、社会に奉仕できる場、自分が必要とされる場、承認してくれる場が、主です。このような場は、社会人では事業団体および組合、学生は学校、クラブ、などにあたります。

 後者は言い換えれば、落ち着く場、安心できる場です。集団の中の場といえば、家族や、趣味を分かち合うサークル、ともに遊べる仲間などと、個人的に一人でいると落ち着く場所として、静かな場から賑やかな場まで様々あると思います。

 後者については、ある面は本能的であり、個人の人間味でありますので、他に迷惑さえかけなければ、特に注意を払うところはないでしょう。それに比べて、前者のような場を求める場合は、ある程度考えておく必要があると思います。

 自己の存在価値のある場を求める場合の裏側にはたいていは次のようなことを考えているでしょう。自分の力を発揮したい、承認される場がほしい、何かをする場がほしい、というものです。

 そこで、それを求める際、当然のことながら、自分というものを考えていなければなりません。つまり、自分は何を求めているのか、自分は何をしたいか、自分の力をどう生かしたいか、ということを見つめた上で、そのような場を求める必要があるということです。

 このように、自分というものを考えている場合は安全なのですが、考えていない場合は、所属する団体・組織の本質を見ることを失いますので、所属する団体が、社会にとって、自分にとって、幸福となるならそれにこしたことはありませんが、害になる存在だとしたら、最悪であることは火を見るより明らかでしょう。さらに、必ずどこかで自分というものを確認しなければならない時が来ますが、そのときはすでに遅い場合がほとんどですので、早いうちに考えることが重要です。

 とにかく、その所属、及び、自分の居場所を求める場合、自分を知る、知ろうとした上で、自分にあった場所がいいということです。


* 夢・希望に対しての欲求

 夢・希望は、自分の人生の方向性でもあるといえます。自分がしたいと思うこと、自分がこうなりたいと思うことが、夢・希望でありますので、この欲求は重要です。

 夢や希望は、若い世代では、憧れという意識から始まるのがほとんどでしょう。有名人や偉人に対しての憧れです。そして、世代が高くなるにつれ、豊かさ、安らかさ、といった安定した生活、ゆとりのある生活に視点を置くか、または、地位・名誉・名声に視点を置くのがほとんどでしょう。

 当然のことながら、夢・希望が高ければ高いほど、努力と忍耐が必要です。夢や希望を達成させることは、自己の育成と挑戦にほかなりません。そういう気持ちが一番大事でしょう。


* 創造への欲求

 創造への欲求というのは、自分が何かを作りたいという感情が根本です。作った結果が自分の力の証でもあり、生きてきた証でもあります。

 それでは、人は現実に何を創造しているのでしょうか。それは、空想した美、娯楽、人間社会、理想の自分自身などです。これらを人間との関係を踏まえた上で、それぞれの特徴や方向性を論じて見ましょう。

 空想した美は、今現在人間によって作られた美も、過去の人間が空想したものを基に出来上がっています。ですから、人間が創造した美、これから創造しようという美をまとめて空想した美としましょう。美については美楽的な存在への欲求で論じましたが、ここでは、美を創造するということにスポットを当てます。美を創造する理由はたいていは脳裏に描いた美しさを表現したい、自分もあのような美を創りたいという感情からきます。そして、実際に創ることにより自分自身に感動と素晴らしさを覚えます。さらに、新しい感動を見たい、生み出したいと思うことにより、再び創造しようとする欲求を生み出します。

 娯楽は趣味や遊びといったものです。人間は人生を生きる限り、楽しむことをしなければ人生が有意義に過ごせず生きることが虚しくさえ感じます。そういった意味では趣味や遊びといった娯楽を創造するということは人間味を出すのに重要であります。しかし、自己中心の利己的な娯楽は帰って自らを滅してしまう可能性があります。それについてここで少し論じてみましょう。

 自己中心的な場合、相手に反感を持たせるということになると、相手とともに趣味をする、遊びをするということができなくなります。どうせなら当然のことですが、自他で楽しむといったほうが楽しさも倍加し、長続きします。

 人間中心の場合、確かに楽しむのは人間ですので、娯楽はやはり、人間が基準となりますが、同時に生態系を考えた娯楽でなければなりません。大量な自然破壊などもってのほかです。種が絶滅します。生態系が崩れることにより環境が変化します。そのことにより人間の生活に支障が出てきます。自然破壊をする娯楽といえば様々ありますが、多少のことは目をつぶったとしても、つぶせないものがあります。ゴルフ場の建設です。18番ホールも造りますので、大変な自然破壊の量になります。できてしまったものは仕方ありませんが、これ以上は必要ないでしょう。どうしてもこれ以上造るとするならば、砂漠にゴルフ場を作ればいいのです。辺り一面バンカーというのは当然のことながら面白くはありませんが、バイオテクノロジーを使って緑林を造るれば、文句を言う人間はまずいないでしょう。

 つまり、自己中心的でいくならば、すべてのあらゆる存在を自分とすれば何の問題もありません。面倒ではありますが、後になったときの面倒ほど厄介なものはありませんので、その方向性のほうがいいはずです。

 次は人間社会についてです。人間社会の創造の目的は簡単に言えば、安定・維持・発展です。そのためには、当然、平和的、自他的でなければなりません。自他とは個人レベルで言えば、自分と他人、団体レベルで言えば、所属団体とそれに影響される人々、人間レベルで言えば、人間と環境です。そして、理想的な方向性は、自他共の利益と幸福です。利益がなければ幸福とはいえません。また、幸福になるともいえません。では、利益とは何であるかを論じましょう。

 利益は大きく分けると三つあり、それは、経済的利益、向上的利益、生命的利益が挙げられます。

 経済的利益とは物質・金銭などの自らが生きるための生活を支えるものに対しての利益です。

 向上的利益とは、あらゆる経験から、理解、発見、鍛錬などによる活動能力の向上に対しての利益です。

 生命的利益とは、安心感、楽しさ、嬉しさ、活動を得られることにより自らが生きようとする、生きていたいと思うといった生きる力、生命力を強めるものに対しての利益です。

 このことからも、利益は幸福になるためには絶対必要条件であります。これらの利益は開発、発想、鍛錬、達成感、成功、人徳や愛情に触れることにより得られます。このうち、人徳や愛情に触れるということが最も難しいでしょう。なぜなら、世の中が混乱しているときほど、逆境に立たされているときほど、人徳や愛情を大切にしなければならないはずが、逆にそれらを見失ってしまうからです。それらを見失わないためにも、人間は人間性への追求、つまり、理想に人間像への精神革命を個人が行うこと、個人が理想の自分自身を創造することが重要です。

 理想に自分自身の創造について述べる前に、理想の人間というものはどういう人間かを考えて見ましょう。理想の人間は一言で言えば、魅力のある人間です。どういう人間が魅力のある人間なのでしょうか。親しみがある、理解がある、友情に厚い、愛情がある、美しさを持っている、楽しい、面白い、思いやりがある、知恵がある、優しい、強い、活動力がある、積極的、真剣である、判断力がある、差別がない、あきらめない、逃げない、人間味がある、丁寧、言語明瞭、自分というものがある、などといったものを持っている人間が魅力があるといえるでしょう。また、その魅力の裏づけとして、つまり、魅力の基となっているものは、次のものが挙げられます。分析力がある、努力家、忍耐力がある、自分の意志を持っている、悲しみを知っている、辛さを知っている、勇気を持っている、慈悲の心を持っている、寛大である、知識がある、自分がされて喜ぶことを相手にもしてみる、などというものが挙げられます。理想の自分自身を得ようとするならば、これらを他人になんて言われようが、自分に求め続けることが重要です。


* 愛への欲求

 愛と聞くと人々は美しく聞こえます。愛というものに対し、人々は一度は得たいと思うはずです。しかし、愛の正体についてはわかっているようでも曖昧であることは否定できません。また、人それぞれ解釈も違います。一体愛とは何でしょうか。

 とりあえず人々が一般的に持つイメージというものを表現してみると、お互いに思いやりがあり、信頼ができ、認めあい、励ましあい、甘えることができ、安心ができ、落ち着くことができ、差別がない、慈悲がある、というものが解答に近いと思います。性行為を愛とつなげるならば、甘える、落ち着くというものが妥当でしょう。しかし、性行為は愛情表現の手段としても愛があるという認識は必ずしも正しいとは言えません。その辺については後で述べるとしましょう。

 ところで、愛を獲得するにはどのようにすればいいのでしょうか。このようなことを考える場合、どういうときに愛を得たと感じるか、異性間のみならず、人間愛という視野で見てみると、愛情を得たと感じる場合は、誰かから愛というものが得られた、与えられたといったと感じる時で、逆に言えば、与える人がいなければ愛は得られないともいえます。そして、与えられた場合は、それに答えようと、愛情を与えてくれた人に返します。つまり、愛情の獲得はそれの繰り返しなのです。

 次に、異性間の愛も要素的には人間愛と同じでありますが、それに加えて性的なもの、接触的なものも入ってきます。それらを考慮したうえで、異性間の愛の代表である恋愛ということについて考えてみましょう。

 恋愛について考えるには、恋と愛はどう違うのであろうか、少し簡単に述べてみましょう。

 一つ目は、恋の実態は表面性が強く、好きになるのに理由さえない時があります。その反面、愛は先に述べたようなものを感じた場合によりにより好きになるという内面性が強いという傾向があります。

 二つ目は、恋は遊びと考える人間もいるでしょうが、愛は楽しんでも遊びと考える人間は少ないでしょう。

 三つ目は、恋には重みはありませんが、愛には重みがあります。恋に場合は重みは背負う気持ちにならないが、愛の場合は重みを背負おうとするところがあります。

 このようなことも考えながら、基本的な恋愛感というものを性欲も頭に入れながら、確認してみましょう。

 当然のことですが、まず、第一印象で好きになることが一般的でしょう。そして、二人で話をして、自分と似ていると思ったり、二人でいるとなんとなく落ち着いたり、相手といる自分が好きになるなどといった理由から、恋愛が始まるといっても過言ではないでしょう。

 しかしながら、他人と好みが重ならないとも限りません。つまり、自分がいいと思った人間であるなら、他人もいいと思う可能性はあるということです。このような場合、なるべく平和的な方法で一般に言われている方法は、相手に決めてもらうことが一番よいということです。恋敵へ攻撃するよりも、相手に対し魅力を見せるほうがいいということです。

 また、複数の人間が好きになってしまった場合について少し述べると、長い人生を歩む中で、異性との出会いは一人や二人ではありません。当然、好きな人間は一人だけという確率は極めて低いといえます。したがって、複数の人間が好きになることは必ずしもいい加減とはいえません。ただ、人は口にはしないだけでしょう。しかし、たとえ複数の人間が好きだったとしても、その中でも優劣があるでしょう。つまり、自分にとって一番合う人間とさらに深く接すればいいということです。しかし、混乱しないように、関係は明確にしたほうがいいにこしたことはありません。友達は何人いたとしても、彼氏・彼女は一人であれば、別に文句はないでしょう。したがって、複数の人間が好きになってしまっても、たいした問題ではありません。

 次に、性行為が愛であると感じやすいのは何故でしょうか。おそらく快感をえることがそう感じさせるのでしょう。つまり、快感をおぼえることがお互いを引き合わせやすくなるわけで、性行為自体は、本物の愛というよりか、錯覚した愛といえるなではなかろうかと考えたほうが、納得しやすいでしょう。

 とにかく、愛というものは、与えあうことにより得られるものであるといえるでしょう。


* 生理的欲求

 生理的欲求は人間として生きる欲求というよりは、動物として、生物として生きる欲求であります。主な欲求は食欲・睡欲・性欲です。食欲がなければ活動はできません。睡欲がなければ休むことができません。性欲がなければ種族維持ができません。つまり、生理的欲求は絶対的に必要なものなのです。

 食欲、睡欲に対しては当然でありますが、人間が個人として生きるうえで否定するものはいません。しかし、性欲というものに対しては個人個人の中で考え方が違います。性欲というものはどういうものか簡単に述べてみましょう。

 性欲とは性行為により快感を得ようとする欲であります。何故性行為が快感をひきたたすことになるかといえば、快感は性行為をしやすくさせるための人間の感覚で、性行為をしやすくさせる理由は、性行為により種族を維持させるという生物自体の本質なのです。逆に言えば、もし、人の体の性質が性行為をすることにより不快になるのならば、誰も性行為をしようだなんて思いません。しようと思わなくなればもちろん種族維持はできませんつまり、それは人間である限り否定はできない、というよりか、否定することは人間を否定することになるのです。

 しかし、性欲の獲得の仕方には、人は注意すべきだとは思います。ここでは注意すべきことは述べません。ただ、問題のない性欲の満たし方は、恋人同士でする、満足したいもの同士でする、といったものでしょう。しかし、納得のいかない性行為だけはしないほうがいいでしょう。


* 人間性―総論

 このように、人間に対しての基本的な欲求や主義は人間が生きるうえでの行動基準であることは間違いありません。これらを総合させたものが人間性でしょう。


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