第二十二話 ポチ(前半)

 ――彼はただ、主人の事が大好きだった。


 この世界において、犬は家畜として広く知られている。

 群れを重んじる彼等は馴らせば人に従順で、優れた嗅覚は狩りの供とするのに最適だ。

 しっかりと教えれば魔物の匂いも嗅ぎ分け、遥か遠方から迫る脅威を事前に吠えて教えてくれるようにもなる。

 いつどこで魔物に襲われるか分からないこの世界において、犬は人にとって手放す事の出来ない存在だった。

 故にこの生物が軍事利用されるのも当然の成り行きで、魔物を嗅ぎ分ける為に訓練された犬がどの小隊にも一匹は配備される。

 彼もまた、そんな軍用犬になるべく訓練を受けた子犬のうちの一匹だったのだが……残念ながら、他の犬と比べて成績はそこまで振るわず、正式採用に届かなかった彼は捨てられる運命にあった。

 残酷な話だが、犬の餌代も無料ではない。

 魔女と魔物達が荒らし回るせいで食料が足りずに毎日餓死者が出るような世界において、使わない犬をわざわざ手元に残す意味などないのだ。

 今でこそ、聖女エルリーゼがジャガイモや大豆といった荒れ地でも育つ作物の価値を見出して世界中に広めた事で食糧難は緩和されているが、当時は誰もが切り詰めてギリギリの中で生きていた。

 これも、エルリーゼから見て二代前の聖女が使命を果たせずに死んでしまい、暗黒期が長引いたせいだ。


 そのままならば捨てられる運命にあった彼を救ったのは、当時の聖女――アレクシアであった。

 彼女は言った。自分だけの犬が欲しいと。

 これに対し、当時の筆頭騎士であるディアスはもっと優れた犬がいると答えたが、彼女はそっと小さな犬を抱き上げて、笑顔で話した。


『私は、この子がいい』


 それが、彼にとって最も強く……今でも色褪せない大切な思い出だった。

 撫でてくれたあの手の温かさを忘れない。

 抱きしめてもらえた時の喜びを覚えている。


 だから――だから……どうか、もう一度……。



 ベルネルとマリーが手を握り合い、互いの健闘を称える。

 その光景に生徒達が沸く中、それは突然に現れた。

 空に影が差し、二人の周囲だけが暗くなる。

 この異常にマリーが気付く前に、ベルネルは咄嗟に彼女を抱えてその場から跳び退いた。

 直後にリングを砕いて降り立ったのは、4mはあろうかという巨大な怪物だ。

 頭は犬で、首から下は黒い毛皮に覆われているものの人間に近い。

 その怪物はまるで散歩を前にした犬のように荒く呼吸しながら舌を出し、鼻先を動かして周囲の匂いを嗅ぐ。


「フゥー……聖女ハ何処ダ……聖女、殺ス……殺ス……。

オデ……魔女サマニ、褒メテモラウ……」


 怪物は今しがた殺しかけたベルネル達などまるで眼中にないかのように聖女を探し、そして特等席にいるエルリーゼへ視線を向けた。


「聖女……殺ス……オデ、褒メテモラウ」


 ズン、ズン、と音を立てて怪物が大股で歩き、進行方向にいた生徒達は慌てて避難した。

 怪物はエルリーゼしか見えていないようで、他の生徒の事など気にもかけていない。

 エルリーゼの危機にベルネルは慌てて剣を手にするが……彼が今持っているそれは試合用に刃を潰された物だ。

 勿論これでも殺傷力はあるが、魔物相手では頼りない。

 だがやるしかない。聖女の危機を前に何もしないのでは、それこそ騎士失格だ。

 だが飛び出そうとした彼の制服の裾を、マリーが掴んで止めた。


「待って……あれは多分、『大魔』……私達が勝てる相手じゃない」

「大魔? 大魔っていうと……授業で聞いた、複数の魔物を殺し合わせて作り出すっていう……」

「そう。行っても……勝てない」


 大魔は熟練の騎士でも一人で倒すのは不可能とされている。

 そんな相手に、まだ生徒に過ぎない自分達が……しかも、こんな試合用の武器で挑んでも無駄死にするだけだ。そうマリーは考えた。

 そうしている間にも怪物はエルリーゼへと近付いていく。

 対し、エルリーゼは逃げる素振りも見せずにただ座っているだけだ。

 エルリーゼはまず、怪物の全身の傷を見て、次に怪物の孤独な目を見た。


「ヤメロ……ソンナ、哀レムヨウナ目デ……オデヲ見ルナアアア!」


 エルリーゼの目にあったのは、ただ純粋なまでの哀れみであった。

 敵意も、恐れもそこにはなかった。

 だがそれが、この怪物には何より辛いのだろう。

 怪物は錯乱したように拳を振り上げ、咄嗟にベルネルは跳躍して怪物の顔に剣を叩き付けた。

 ダメージは、勿論浅い。少し怯ませただけだ。


「邪魔ヲ……スルナアアア!」


 怪物が激昂し、ベルネルに殴りかかる。

 だがその腕が氷漬けになった。

 それを為したのは、こちらに手を向けているマリーだ。


「……無謀。死んでもおかしくなかった」

「すまない、助かった!」


 マリーの援護で何とか命を拾ったベルネルは距離を一度取り、剣を構える。

 だが繰り返すが、これは試合用の玩具のような武器だ。

 こんなものでは、怪物には通じない。

 そこに、エテルナが駆け付けてベルネルの隣に並ぶ。


「エテルナ! どうして来たんだ!」

「あんたが一人で無茶しようとしてるからでしょ!」


 エテルナが愛用の武器である杖を手にする。

 彼女は元々、近接しての戦闘ではなく遠距離での魔法戦を得意とするタイプだ。

 それ故にこの闘技大会との相性はそれほどよくなかったが、前衛がいればその本領を発揮出来る。

 とはいえ、これでも三対一。この怪物相手には不足している。

 そこに、今度は弓矢が続けて飛来して怪物を怯ませ、飛び込んできたジョンが怪物の顔に一撃を浴びせて離脱した。


「へっ、お前一人にいい恰好をさせるかよ!」

「私達も戦う! 一緒にエルリーゼ様を守ろう!」


 駆け付けてきたのは、友人であるジョンとフィオラだ。

 どちらも試合用の武器だが、それでも臆する気配はない。

 騎士を目指す者が、眼前に迫った聖女の危機を前に何も出来ぬのでは名折れもいいところだ。

 勇敢である事は間違いないだろう。だが同時に無謀でもある。

 履き違えた者には死あるのみ……そう告げるように怪物が前に踏み出すが、そこに今度は岩が弾丸となって飛来し、怪物を痛烈に攻撃した。


「おやおや……何やら随分と盛り上がっているようだが、避難もせずに戦いを始めるとは感心出来んな。君達全員減点だ。

しかし聖女を守ろうと立ち上がるその勇気はよし。補習だけで手打ちとしよう。

正直、戦いなどという野蛮な行為は好きではないのだが……我が聖女を守る為の戦いとあれば見過ごすわけにもいかん。

微力ながら、私も手助けするとしよう」

「先生!」


 言いながら、魔法で植物の根を生やして怪物を足止めしたのは学園教師の一人でもあるサプリ・メントだ。

 軽薄な笑みを張り付けた男は眼鏡を妖しく輝かせ、何ら気負う事なく前へ歩み出る。


「それと、これは間に合わせだがよかったら使いたまえ。

試合用の武器よりは幾分かマシだ」


 そう言ってサプリは、ロングソードをジョンに。杖をエテルナに。そして矢をフィオラへと渡した。

 ベルネルの武器は……残念ながら大きすぎて代わりがないらしい。

 かくしてここに六人。役者は揃った。

 するとエルリーゼが手を翳し、地面から一本の剣が現れる。

 恐らくは今、まさにこの場で地面の様々な物質を材料にして剣を土魔法で創り上げているのだろう。

 たったの十秒で出来上がったそれは――ベルネルの為の剣であった。


「グオオオオオオオ!!」

「ベルネル君、使ってください!」


 ベルネルを噛み殺そうと怪物が迫り、エルリーゼが叫ぶ。

 咄嗟にベルネルはエルリーゼの創った剣を手に取り、そして薙ぎ払った。

 すると怪物の腕が宙を舞い、ベルネルは驚愕する。

 ……軽い。

 まるで金属とは思えない軽さだ。

 それでいて強く、簡単にこの怪物の腕を切断出来てしまった。

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