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 帝都には、いくつものがある。

 それは、数えるのも億劫なほどの汚職や収賄、密約、はたまたもっと悍ましい何かを隠すための場であったり、それを為すために必要な職業人たちの住まいであったり、あるいは表社会から爪はじきにされたものたちが身を寄せ合う砦であったりする。

 その中でも、最も下層で、最も小さく、最も日の当たらぬ場所。

 それが、孤児たちのコミュニティだ。


 親に捨てられたもの。

 親を捨てたもの。

 そもそも親のいないもの。

 そんな子供たちがいつしか寄り添い合い、互いを守るために結束し、生きていくための群れをなすようになった。


 “樽なしの瓶ボトル・ベビー


 樽という生成過程を経ずに生まれた酒瓶。

 一体誰が考えたのか、いつしかそう呼称されるようになった彼らは、この帝都における最底辺の存在だった。

 落ちぶれた大人たちですらが厭う汚れ仕事で僅かながらの日銭を稼ぎ、それを悪戯に搾取される。誰に虐げられたところで、寄る辺もなく、庇護者もなく、その日一日を生き抜く以上のことを考えることなどできるはずもない。

 当然まともな健康状態など望むべくもなく、大人になるまで生き残ることができた例は、非常に稀であった。


 定期的に住まいを変える彼らのコミュニティに、およそひと月ぶりに私が足を踏み入れたのは、もう陽の傾きかけた時分のことだった。


「59…………60…………61……」


 その時の衝撃は、とても忘れられそうにない。

 現在のボトル・ベビーたちの拠点となっているそのあばら家の前で、裸の大男が逆立ちをしていた。


 それは、数分前に私の腕の中から少女を奪い去り、街の建物の上を疾駆していった男に違いなかった。

 それが、何故か局部のみをかろうじて隠す腰履き一つを身に着け、逆立ちのまま両足を水平に開き、その上に左右一人ずつ子供を乗せた上で、両腕で屈伸運動をしていたのである。

 何を言っているか分からないかもしれないが、私も自分の見たものが何であるのか、咄嗟には測りかねた。


「おうソノ子67! ……メイドは68! ……見つかった69! ……みてえだな70!」

「あ、ねーちゃん」

「ねーちゃんだ。久し振りー」

「見て見てー。これ凄くない? キモくない?」

「キモいでしょ。あはは」


 足に乗っている二人以外にも、無邪気に笑う子供たちがそれを囲んでいた。

 私は眩暈を起こしそうになりながらも、辛うじて私の半歩前にいる黒髪の少女に問いかけた。

「あの。あれは一体……」

「見て分かんないの? 変態よ」

「そうとしか見えなかったので念のため確認したんですが、変態それで宜しいんですか?」


 上に乗った子供が時折ふざけて体を揺らしたり、周りの子供が男の体を小突いてもまるで意に介した様子もなく、男はひたすらに両腕の屈伸を続けている。

 一体どれほどの筋力とバランス感覚があればそんなことが可能なのか想像もつかなかったが、その身に唯一纏った腰履きは屈伸運動と子供たちの悪戯によってずれ始めており、悍ましい中身がちらちらと見え隠れしていた。画だけを見ればただの変態であるのは間違いない。


「あ~。ソノちゃん、お帰り~」


 そして、あばら家の脇に藁やぼろ布を敷き詰めた小山の上で、一人の男が寝転がっていた。

 

「おい、レンタロー。いつまで寝てんだよ。そのボロと藁使いてーんだけど」

「日の入りまでに家のネズミ穴詰めたいんだよぅ」

「ん~? ああ、大丈夫、大丈夫。シオ君がネズミ避け置いといたから」

「お、おぅ。じゃあ、いい……のか?」

「僕はね~。こうして夕方にだらだらするのが大好きなんだ。これが人の求める幸福の姿なんだ」

「え、ええっと……」

 子供たちをあしらい惰眠を貪ろうとするその男の表情は、雑貨屋で最初に見えた時の、あらゆる人の特徴を抜き去った無貌のものでもなければ、病弱を装った人当たりの良さそうな青年のものでもない。

 粗雑なベッドの上でなお最高の寝心地を追求するように、頭や体のあちこちに布を当てて寝そべるその男の表情は、ひたすらに無垢であった。


 なんだ、この男たちは……?


「ちょっと、ぼさっとしてんじゃないわよ」

 呆然とする私に、黒髪の少女が歩みを促した。

 慌てて足を動かした私の前を行く少女は、先に見た、いかにも裕福な家庭の子女かのような身ぎれいな衣服ではなく、この場において何の違和感も抱かせない、ボロボロの布地を幾枚か着重ねて身にまとっていた。


「こっちよ」

 こちらを振り返るでもなく、子供たちが寝起きしているだろうあばら家の裏の、いずくにかの馬車の幌を剥ぎ取ったものと思しき布で作ったテントへと私を導いた。

 彼女がその薄っぺらな布を広げて見せると、光の殆ど届かぬその暗がりの中に、小さな影が横たわっているのが見えた。


 その、顔のそこここに青黴のような痣を浮かび上がらせた鳶色の髪の女児に、私は膝をついて声をかけた。


「パンジー。来ましたよ」

「……ぉ……ぇ」


 虫の羽音のような声が、乾ききった唇から漏れた。

 瞳だけが濡れたように潤み、焦点の定まらぬ視線を、懸命に私に合わせようとしている。

 

 それを、いかにもつまらなそうな顔で見やる黒髪の少女。

 彼女が先ほどの出会い頭に私に告げた言葉が、頭の中に反響していた。



『今にもくたばりそうなガキがいるのよ。助けるから力貸しなさい』



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