第92話:秋の訪れ。そして季節は流れて

「もしもし。あぁ、母さん? 俺だよ、久しぶり。ずっと連絡してなくてごめん」


 その日の夜。俺は約束通り早紀さんの家で一緒に夕食を食べた。気持ち的にはそのまま甘えたいところではあったのだがそこは心を鬼にして。俺は自ら実家に電話をかけていた。


 恵里菜との関係には円満と言えるかはわからないが区切りをつけることが出来たと思っている。あと残っているのは里美さんに頼ってばかりいたこの二人との溝を埋めること。


『晴斗! どうして連絡よこさなかったの!? メッセージを入れても無視するし……! やっぱりあなたを東京に行かせたのは失敗だったみたいね!』


 開口一番。母はヒステリック気味に叫んだ。その声量に思わず俺はスマホを耳から離したくなったのだがそこをぐっとこらえる。


『恵里菜ちゃんから聞いているわよ! あなた、隣に住んでいる女性とお付き合い初めたんですってね! だから恵里菜ちゃんに振られるのよ』


 そこから話さないといけないのかと俺は心の中で舌打ちをする。早紀さんのことは里美さんが父さんに何度か説明しているはずだがこの人には通じていなかったようだ。母の暴走は止まらない。


『私はね、晴斗。あなたを堕落・・させるために東京に行かせたんじゃないのよ。あなたがどうしても東京で野球がしたいってわがまま言って聞かないから、常華の金村さんに何度も頭を下げてご理解いただいて送り出したのよ? それなのにどうしてあなたは……』


 この人は自分の言っていることが破綻していることに気が付いていないのだろう。堕落してレギュラーになれるほど明秀高校野球部は甘くない。堕落している選手がノーヒットノーランを甲子園で達成できるほど野球は甘くない。


 さらに言えば。この人は俺が令和初のノーヒットノーランを達成した直後のテレビインタビューで、工藤監督の熱意に感動して東京行きを勧めたとカメラの前で話をしている。それなのにこの言いよう。怒りを通り越して呆れてくる。


『今からでも遅くないわ。晴斗。家に戻ってきなさい。今日の試合のことは金村さんからもうかがっているわ。あなたのこと、とても褒めていたのよ? 規則で一年出られなくても、あなたと一緒に野球がしたいっておっしゃっていたわ。だかね、晴斗。こっちに帰ってきなさい。野球なんてどこででも・・・・・できるでしょう?』


 限界だ。実の親なのに連絡を一切断っていたという後ろめたさがあって言いたいことを全部言ってもらおうと考えていたがそれにだって限度がある。俺は深呼吸をしてから静かに口を開いた。


「母さん。悪いけど俺はそっちには帰らない。ましてや常華で野球をする気はない。甲子園に出て優勝して、プロに入っていずれはメジャーに行く。その夢を叶えるために常華じゃなくて明秀を選んだ。この考えを変えるつもりはない」


『晴斗ならどこで野球しても活躍できるわよ! 金村さんだけじゃない、みんなあなたのことを天才だって……日本を代表する選手になれるって言っているのよ! 明秀にこだわることないじゃない! それともなに、明秀にこだわるのは野球じゃなくて新しい彼女ができたからなんじゃないの? その女に騙されているじゃないの?』


 ミシッと音が鳴ったのではと錯覚するくらいスマホを握り込む。言うに事を欠いて早紀さんの話を出してくるとは信じられない。恵里菜がどんな風に話したか知らないが、こんなことになるなら最も早く対処・・しておくべきだった。あと恵里菜にもっときつく言えばよかった。こんな面倒な爆弾を作ったことを泣いて謝らせるべきだった。


「……そう言えば。いつも父さんばかりで母さんは俺の試合にはあまり応援には来なかったよね。野球もあまり詳しくないし。だから一年間も公式戦に出られないことがどれだけデメリットがあるかわからないよね」


 俺は話を戻した。早紀さんのこと以前の問題をこの人はわかっていない。


 転校した場合、一年間の公式戦への出場が禁止となる。練習試合には出られるから最低限の試合勘は保てるが常華明城のような精々中堅クラスの高校に強豪校からの練習試合の申し込みが来るとは考えにくい。かといって地方に遠征に簡単に行けるほど野球に力を入れているわけでもない。


 勝てるレベルとばかり試合をしても気分はいいかもしれないが、いざ強豪校と戦うときになると心が脆くなり逆境を跳ね返せなくなる。そんなぬるま湯のような環境で俺は過ごしたくない。


「わからない? 金村監督が一年間公式戦に出られなくても俺に来て欲しいって言った意味。単純だよ。甲子園に行ける可能性が高くなるうえに優勝できるかもしれないからだよ。もし仮に俺が常華に行くってなったらもれなく天才が一人ついてくるからね」


 金村監督は俺を手にいるために両親―――特に母―――にらしくない・・・・・熱い言葉をかけたのかもしれない。そして俺が首を縦に振ればもれなく悠岐がついてくるのではないかと計算していたのかもしれない。


 俺達の加入はおそらく盛大に叩かれるだろうが常華明城にとって最大の補強となる。世間からバッシングされても一年間の出場禁止があるのでそれを禊とか言えばどうとでもなる。


 高校野球の監督として求められる最甲子園優勝という最高の結果を残すことさえできればそれでいい。そうじゃなきゃ一年間公式戦に登録もできない部員を欲しがるわけがない。


「だからね、母さん。何回も言うけど俺は常華に行く気はないよ。自分の名誉のことしか考えていない監督の下で野球はしたくない。それにね、恵里菜からなんて聞いたか知らないし、里美さんから話もあったとし聞いていると思うけど……早紀さんのことを悪く言うなっ!」


 最後に俺は唸るように語尾を強めた。親にこんな風に怒ったのはこれが初めてだ。母が驚いて息をのんだのが聞こえた。


『―――!? そ、そうよ! なんだかんだ言ってもその飯島早紀って子がいるから帰って来たくないんじゃないの!? 里美さんはいい子だって言っているけど、そもそも女子大生なのに高校一年生の男の子を口説くなんてちょっとおかしいわよ。どうかしているわ』


「……俺が恵里菜に振られて落ち込んでいる時に声をかけてくれたのが早紀さんだった。決勝のマウンドで緊張している俺に頑張れって声をかけてくれたのも、甲子園でノーヒットノーランができたのも早紀さんがいたからだ。母さんや、父さん、ましてや恵里菜じゃない! 早紀さんのおかげなんだよ! 早紀さんが一番近くで俺のことを応援してくれた! 支えてくれたんだ! そんな……俺の大好きな・・・・人を悪く言うのはいくら母さんでも許さない!」


 涙を堪えて俺は叫ぶ。


 あの日。恵里菜に振られてベランダで傷心している俺に優しく声をかけてくれて慰めてくれたのも。


 東東京予選の決勝戦。その終盤にマウンドに急遽立つことになって。緊張している俺に声援を送ってくれたのも。


 甲子園。痛む足を我慢して記録を達成できたのも。


 全部、早紀さんだ。この人がいなかったら、もしかしたら今の俺はいないのかもしれない。それだけ俺の心に早紀さんが住み着いている。


 もしこの場に俺が一人だったらきっと泣いていただろう。だけど俺は一人じゃない。


『晴斗……親に向かってなんてことを―――っえ、ちょっと、まだ私が話しているのに―――もしもし、晴斗。久しぶりだな』


「……父さん?」


 電話越しでひと悶着あってから聞こえてきたのは父の声。俺はあまりに突然のことに一瞬戸惑って言葉が出て来なかった。父さんがどこか申し訳なさそうな声音で話し出す。


『悪かったな、晴斗。本当に……悪かった。息子のお前の気持ちを一番に考えてやらないといけなかったのに……父さんたちはそれが全然できていなかった……』


 俺は父さんの懺悔のような告白を黙って聴く。


『里美から聞いたよ。夢を叶えるためにそっちでどれだけ頑張っているのか。じなきゃ一年生で甲子園のマウンドに立つことなんてできないし、ましてやノーヒットノーランなんてできるわけがない。それと……お前が思いを寄せている飯島さんが父さん達以上にお前を支えてくれていることも里美から聞いたよ。とてもいい人なんだな、飯島さんは』


『晴斗。お前の好きなようにやりなさい。これからは父さんもそれを応援するから。母さんのことは気にせず、東京で頑張りなさい。金村さんには私からちゃんと言っておくから安心しなさい。一年間お前が試合に出られないなんてことはあっちゃいけない話だ』


『頑張るんだぞ、晴斗。今年の夏は残念だったけどセンバツがある。このままいけば夏はあと二回チャンスがある。お前と坂本君なら二連覇だって夢じゃない。だから……頑張るんだぞ、晴斗。応援しているからな』


「父さん…………ありがとう」


 胸が熱くなって。涙がこぼれるのを必死に堪えながら俺は電話越しに頭を下げた。

『お前なら出来ると父さんは信じているからな―――っと、悪いがそろそろ切るぞ。いい加減母さんがうるさくてな。晴斗、身体に気を付けるんだぞ?』


「うん……わかってるよ。父さんこそ気を付けてね」


『大丈夫だよ。そうだ、最後に一つだけ言わせてくれ。すぐじゃなくていい。いつかちゃんと飯島さんを紹介しなさい。お前を支えてくれたお礼をしないといけないからな。』


「……わかった。いつになるかわからないけど、必ず紹介するよ。早紀さんはね。すごく美人で可愛くて。俺のことを誰よりも傍で支えて応援してくる人なんだ。俺にはもったいないくらいの自慢の彼女だよ」


 父から飛び出した言葉に俺は若干驚きながらも、しかしはっきりと返事を返した。目の前にいる当事者はダメダメと手を振っているのだが。


『ハッハッハッ。そうか! それは会うのが楽しみだな。それじゃまたな、晴斗』


「ありがとう、父さん。おやすみなさい」


 そうして短いようで長かった電話が終わり。母さんとの間の溝は埋まらなかったが、それ以上に父さんからその言葉が持つ意味以上の熱い思いを受け取った。これで心置きなく、雑音を気にすることなく野球に専念できる。それに―――


「ちょ、ちょっと晴斗!? 最後! 最後に言った、ご両親へ紹介するって本気なの!?」


 早紀さんが俺の肩をがっちりと掴んでがくがくと揺らしてくる。電話をしている間は正面に座ってずっと静かにしていたのだが、終わった途端に瞬間移動のように俺の隣に椅子ごと持って来てこの調子だ。その慌てぶりが面白くて、俺は少し意地悪することにした。


「本気ですよ? こういうこと早めに済ませて外堀を埋めたほうがいいって里美さんが言っていました。でも……そうですよね。まだ付き合い始めてひと月も経っていない男の親のところに行くなんてどうかしていますよね。ごめんなさい、早紀さん。父さんには俺から話しますね」


「あっ……その、嫌ってことはないんだけどね……ちょっと気が早いというか。私はいいとしても晴斗はまだ結婚・・できる年齢になっていないというか……それまだ付き合い始めたばかりなのにご挨拶だなんて……」


 急に俯きながらもじもじとし出す早紀さん。視線は上目遣いだから年上らしからぬ可愛らしい仕草に思わずぎゅっと抱きしめたくなる。


「お父様は大丈夫そうだったけどお母様が……ねぇ晴斗どうしよう!? って、なんでそんな余裕な顔してニヤニヤしているの!? 私達に早速訪れた一大事なんだけど!?」


「……早紀さん。落ち着いてください。冗談ですから。今すぐになんてことはありませんから。父さんも『いつかちゃんと』って言ってたし、俺もそう返しましたから。だから今は安心してください」


「へ……すぐじゃないの? 私はてっきり……」


 その事実を知って、早紀さんが呆けた声を出す。俺はぽんと早紀さんの頭に手を置いて、からかってしまったことに対するお詫びも兼ねて優しく撫でる。


「ごめんなさい。あまりにも早紀さんが可愛い反応するんでついからかいたくなったと言いますか…………あれ、早紀さん? どうしたんですか? なんでいきなりガシっと俺の手を握るんですか? っていうか力強い!?」


 頭を撫でていた手首はいつの間にか早紀さんによって掴まれていた。必死に解こうと試みるがまともに動かすことすらできない。俯いていた早紀さんがゆっくりと顔を上げる。その表情に笑っているようで笑っていない、まるで般若のようになっていた。


「……さ、早紀さん? あの……ほんと、調子乗ってすいませんでした。だからその……離してくれませんかね」


「いやよ? お姉さんのことをからかって楽しむ年下の男の子にはたくさん、たくさんお仕置きしてどっちが上かはっきりさせないといけないとね―――んっ……っちゅ」


 そして俺は早紀さんに引き寄せられて逃がさないとばかり抱きしめられるとそのまま唇を奪われた。甘く蕩けるような口付けに、俺の抵抗の意思は奪われていく。


「っちゅ……はぁ……晴斗……よく頑張ったね。約束通り。たくさん、たくさん、甘えさせてあげる。ほら。そんな蕩けた顔をしてないでベッドに行きましょう?」


 天使のような笑みを浮かべながら耽美の世界に誘う早紀さんに導かれる。そしてあっという間に寝室に到着してベッドに腰掛ける。


「晴斗。本当に……今日はよく頑張ったわね。あの子とも、ご両親ともしっかり思いを伝えてけじめをつけて……偉かったよ」


 そっとベッドに押し倒される。俺に覆いかぶり頬を撫でながら早紀さんは優しく言った。その表情からは般若はすでに失せ、俺だけの女神がそこにいた。


「大好きだよ、晴斗。あなたがもう少し大人になったら……なんてことを真剣に考えるくらいにね。気が早いなんてものじゃないかもね」


「早紀さん……それは俺もですよ。まだまだ子供ですけど……あなたとずっと一緒にいたいって心から想っています。早紀さん。陳腐に聞こえるかもしれませんが……俺は貴方のことを誰よりも愛しています」


「ありがとう……私もよ、晴斗。あなたのことを愛してる。今日はたくさん、甘えてね? 私の愛しの年下彼氏君?」


 少し肌寒くなってきた月夜の晩に俺達は身体を重ねて互いの温もりを感じ逢う。


 季節は秋。そして冬が来て、やがて春を迎える。


 そして俺は二度目の甲子園の舞台に立つ。夏の雪辱を果たすため。センバツのマウンドに立つ。

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