第89話:声援を背に

 8回裏。明秀高校の攻撃。


 初回から誰にも譲ることなくマウンドに立ち続ける俺―――国吉悟史―――の球数はすでに100球を越えている。監督に直訴したのだ。この試合は俺に投げさせてくれと。たかだか練習試合でなにをこだわる必要があるとキャッチャーの益子には言われたがこの試合は俺にとってはプライドを賭けた一戦。だから、誰にも譲るつもりはない。


 点差は3回から動いておらず、依然として0 対 6のまま。恋人である恵里菜をこっぴどく振ったという幼馴染で元彼氏の明秀の一年生エースの今宮は6回被安打、死四球ともに0、奪三振11という圧巻のパーフェクトピッチングを披露してマウンドを降りた。その後は外野の守備についている。


「投げるだけならまだしも……打者としても一級品。二刀流とかふざけんなよ……」


 俺は思わず自嘲した。今宮晴斗という男は打者としてもすごかった。ここまで4打数4安打4打点1本塁打。三塁打がでればサイクルヒット―――1試合のうちにヒット、2塁打、3塁打、本塁打すべて打つこと―――達成となる。


 死球で交代した三番バッターも凄まじかったが、今宮もそれに引けを取らない。むしろ彼が途中交代してから別人のようにスイングが鋭くなった節さえある。


 そして。この日もう5度目となる今宮との対戦が始まろうとしていた。


「悟史さん! あと一人、あと一人ですよ! 頑張って!!」


 恵里菜の声援が飛ぶ。これも初回から変わらない。だがそこには涙が混じっていて悲痛な叫びにも聞こえる。元彼氏である今宮はそんな彼女の声を聞いても表情一つ変えることなく静かに打席に立つ。それどころか―――


「はるとぉ―――! スリーベース打ったらサイクルだぞ! 頑張れ―――!!」


 校舎からたびたび聞こえる今宮への声援は、試合前に一緒に居た女性のもの。その声が聞こえた時だけ今宮は表情を和らげる。


 好きの反対は嫌いではなく無関心。もう恵里菜には何も思うところはなく、年上の美人女性と新しい恋に花を咲かせている。だがそれは今宮に限ったことではない。恵里菜も同じだ。


 試合前に話したとき。今宮は唇を噛み締めながらこう言っていた。


 ―――どうしてあいつがあんな風になったのか。何があいつを変えたのか。それは俺にもわかりませんよ――


 俺は恵里菜からしか今宮のことは聞いていない。だが彼のあの顔を見る限りでは彼女が言うほどひどい男には思えない。ほんのわずかな時間、話しただけだがそんな印象を持った。


「…………」


 今宮が打席に立つ。1打席目を除いてこれで4回目。バットの先を俺に突きつけてくる。だが彼の表情からは俺を嘲る様子一切感じられない。むしろその瞳からは極限まで集中を高めている雰囲気を感じた。


 上等だ。投手今宮晴斗には2打席連続で見逃し三振に抑えられた。打者今宮にはサイクルヒット一歩手前まで打たれた。だが、この最後の打席は何が何でも抑えて見せる。


 それが、エースの意地だ。



 *****


 8回裏2アウトランナーなし。この試合最後の打席が俺に回ってきた。


 あの女は絶えず声援を国吉さんに送り続けている。俺が満塁ホームランを打って以降、回が進むにつれてその声音に涙が混じり出し、今ではいつ泣き出してもおかしくない状態だ。


 俺と一緒に居た時にはそんな必死な応援なんてしなかったのに、環境が変われば人は変わるものだなと心の中で皮肉を口にしながら俺は打席に立つ。


「はるとぉ―――! スリーベース打ったらサイクルだぞ! 頑張れ―――!!」


 早紀さん俺がマウンドにいた時は回の初めと終わりに。あとは打席に立つたびに声援を送ってくれる。少し恥ずかしくて校舎の方は向けないが、この応援は何よりの励みになる。それに、大好きな人から頑張れと言われたら、100%以上の力を出して頑張ろうと思うのが男というもの。それはきっとマウンドの国吉さんも同じはず。


 マウンドからはすでに降りた。悠岐が退場した無念はすでに果たした。だが国吉さんは未だに心折れることなく頂に立ち続け、幾度となくピンチを迎えてもギリギリのところで踏ん張ってきた。


 3回以降、得点はできていない気持ちの悪い展開。あと一本が出ずに煮え切らない試合に最後の最後で喝を入れる。


「…………」


 ふぅと深呼吸をしながら。俺はバットの先を国吉さんに向ける。これが最後の戦い。夏の亡霊を払い消して、早紀さんと一緒に前に進んでいくために行う最後の勝負。


 互いの集中はこの試合の中で一番の深度。


 国吉さんが初球に選んだのはストレート。終盤で球数も100球を越えているにもかかわらず唸るような直球がアウトコース低めに突き刺さる。


「ストラ――――イク!」


 サイドスローから繰り出される外角低めはいつも以上に遠く感じる。気付けば国吉さんのマウンドでの立ち位置は三塁寄りになっている。より角度を付けて外角に投げ切るために変更した。


「―――あの野郎」


 つい口が悪くなったのはこの場面で国吉さんが選択したことに対する称賛の意味合いが強い。


 普段と違う場所に立って投げることはそれだけリスクが伴う。例えば今の国吉さんの場合、三塁寄りに立つことで確かに右打者の俺に対してアウトコースは角度がつけやすくなるメリットはあるが、反面内角へは角度がなくなり投げにくくなる。


 だから当然。コースは外角に目付を行い、球種はストレートかスライダーのどちらかに俺は的を絞る。立ち位置の関係から内角にストレート、および右打者に食い込みながら落ちていくシンカーは投げずらい。内を使うとなれば場外まで運んだ内から曲がってくるスライダーくらい。


 外か。それともフロントドアのスライダーか。甘い球が来れば確実に狙い打つ。ぎゅっとグリップを握り締める。


 そして投じられた二球目は。


「―――っく!?」


「ストラ―――イク!!ツー!!」


 ズバッと内角にストレートを投げ込んできた。完全に俺の予想を上回り、そしてこの試合最高のインコースだった。俺は全く反応することが出来なかった。


 簡単に追い込まれた。この二球目でストライクをとれたことでバッテリーは断然優位に立った。俺は狙い球を絞るのが難しくなった。


「だけど……それでこそエースだ」


 俺は自然と笑う。国吉さんも笑っている。


 何を投げてくるかはさっぱりわからない。


 だけど遊び球はない。三球勝負で来る。その確信だけはある。


 打席の中で深呼吸をして、その時を待つ。国吉さんが二度首を振ってから頷いた。


 三球目。戦いを決する最後のボールが放たれた。

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