第50話:君に話したいことがあるの

 ガチャンと扉が開いて締まる音を聞いて、私はようやく一息つくことができた。晴斗君が振られたときに話していた印象とはまるで違う、あそこまで身勝手な女の子だとは思わなかった。


「さすがにあのふり幅で演技・・をするのは疲れるなぁ」


 私は髪をかきあげながらもう一度深呼吸をした。これでようやく演者状態アクターを解くことが出来る。演技指導をしてもらっている先生から、演技の質を向上させるには基礎である表情・表現・発声を鍛えないさいと言われている。


 その中でも表情は喜怒哀楽なので日々トレーニングをしているが、その中でも怒りが中々難しく、趣味であるアニメや映画、ドラマを鑑賞して勉強している。今回はとある作品の女性マフィアを参考にしたが、幼馴染さんの反応を見る限り上手くいったようだ。その代わり、急激な感情変化で私も疲労したけれど。


「でもあの子だから、絶対に諦めてないよね……里美さんにも連絡しておかないと」


 今日は大人しく帰ったが、あの女の子のことだ。きっとあることないこと私のことを自分の家族に話すだろう。そうすればそれはきっと晴斗君のご両親の耳に入る。そうなれば里美さんにも火の粉が降りかかる。


 最悪の場合、私が晴斗君のそばから消えればそれで済む。その時は、美咲ちゃんに晴斗君のことを任せればきっと大丈夫だ。あぁ見えてあの子は芯が強い子だ。幼馴染にも屈することはないだろう。でも―――


「でも出来ることなら……私があなたを支えたいよ、晴斗君……」


 晴斗君が休んでいる寝室に入る。突然の幼馴染の来訪に彼は驚き、戸惑い、さらに私と彼女の話が彼の精神を一瞬で蝕んだ。ともすればトラウマになりかねない程の衝撃を受けて、彼の心は眠ることを選んだ。


「でも、私もあなたの隣にいる資格はないかもね……」


 打ち明けていない秘密。社長に相談して仕事の内容の変更と仕事そのものをセーブはしているが、それでも私のして女性コンパニオンいることの派遣業を知ったら晴斗君はきっと私を軽蔑するだろう。それこそ、あの幼馴染以上に尻の軽い女だと罵られるかもしれない。本当はそんなことない。この歳二十歳になっても誰ともキスすらしていない


 ベッドの横に膝をつく。スヤスヤと眠る彼の頬にそっと触れる。可愛い寝顔。守ってあげたい、優しく包み込んであげたいと思う年相応の大人になりきる前のあどけなさ。しかし一度マウンドに立てば別人のように凛々しくなり、他者を寄せ付けない程の圧巻の投球を見せる戦士の顔となる。


 そして、誰よりも真剣に、夢を追いかけている。その姿に挫けそうになっていた私は勇気をもらった。その純粋な心に、その優しさに、私は心を奪われた。


「あなたの隣にいたいよ。一緒に夢を見てほしいよ……どこにもいかないで……私のこと、嫌いにならないで…………」


 懇願するように、不安な気持ちを吐き出した。瞳から溢れた涙が、彼の頬にぽたぽたと零れる。止めようと思っても、止まってくれない。拭っても。拭っても。拭いきれない雫に私は晴斗君への思いを自覚する。


「晴斗君……晴斗君……」


「―――そんなに呼ばなくても聞こえていますよ、早紀さん」


 すぅと、彼の手が私の頬に触れて、流れ落ちる涙を拭い取った。


「どうして……早紀さんが泣いているんですか?」


「ううん……なんでもないの。ただ、晴斗君がどこかに行っちゃうんじゃないかって考えたらね。なんか勝手に涙が……ハハハ……おかしいなぁ。全然止まってくれないよ」


 苦笑いを浮かべながら私は必死に涙を拭くがとめどなく零れてくるから追い付かない。晴斗君は少し困ったように笑いながらゆっくりと身体を起こして―――


「早紀さん。泣かないでください」


 そっと私を抱きしめた。ベッドに座る晴斗君と床に膝をついていた私では高さに差があるので、私の頭は彼の胸元にすっぽりと収まった。


「大丈夫……大丈夫ですから…………俺は、どこにも行きませんから……」


 晴斗君は落ち着いた声で言いながら、優しく子供をあやすように私の頭を撫でる。


「里美叔母さんが前に言っていたんです。早紀さんのことを嫌いにならないであげてねって。その時はなんでそんなことを突然言ったのかはわかりませんでした」


「さ、里美さんが…………そんなことを?」


「でも……今ならわかる気がします。俺に話しにくいこと、話せば俺が軽蔑すると思っていることがあるんですね?」


「そ、それは……その……うん……で、でもそれは―――」


「夢のため、ですか?」


 私の言葉に先んじて、晴斗君が口にした。私は驚いて顔を上げた。目の前にはニコリと少し儚げにほほ笑んでいる彼がいた。その笑みが、ためらう私に最後の勇気をくれた。



「そう……晴斗君、私ね、夢があるんだ。私のお母さんね、もう死んじゃっているんだけど、舞台女優だったの。それなりに有名で、私が小さい頃はまだ現役だったの」


 私はその当時のことを。幼き頃に観たかっこよくて輝いていた母の姿を思い出しながら話していく。


「私がお母さんの舞台を観たのは一度だけ。でもそれがすごくかっこよくて、家ではどうしようもないくらいあわてんぼうで、料理もよく失敗してて、今思えばダメダメだったけど、舞台の上では別人で…………子供ながらに憧れたの」


 家では見せない顔をしていた母。おどおどしてばかりいて自信なさげにして謝ることが多かった母。それが、舞台の上では誰よりも美しく歌を謡い、誰よりも自信満々で、誰よりも光り輝いていた母。舞台が終わるとき、感動した観客がみな立ち上がって母に割れんばかりの歓声と拍手を送る。それに笑顔で応える母。


「私はね、そんなお母さんみたいになりたいって思ったの。舞台に立って、多くの人に感動してもらいたい。そして、お母さんが叶えることができなかった場所に立ちたいの」


「舞台、ミュージカルの本場。ニューヨークのブロードウェイ。そこに立つことが母の目標で、夢だったの。それがもう少しで叶うって時に病気になって……結局立てないまま……」


 晴斗君は何言わない。ただ黙って、私の背中を優しくさする。


「でもお父さんは反対しているの。そんな叶わぬ夢を追うんじゃなくて地に足付けて勉強しろって。食えないことに時間をかけるのは無駄だって言うの。自分だって昔は舞台俳優やってたくせに……おかしな話でしょ?」


 私が笑うと、晴斗君もそうですね、と笑って返してくれた。


「だから、私は大学入学を機に家を出ることにしたの。反対されたけどね。でもその代わり、部屋から何から全部お父さんが用意したの。学費も全部出してくれた。ほんと、過保護だよね。でもおかげで里美さんや晴斗君に会えたから感謝しているけどね」


「でもお父さんは私が舞台に立つために必要なことには一切お金を出さないって宣言したの。だから私は自分でお金を稼がなきゃいけない。それでね……わ、私は……」


 言わないと。ここまできたら言わないと。晴斗君に嫌われるかもしれないけれど、言わないと―――


 ヒュー、ヒューと呼吸がどんどん早くなる。心なしか頭がくらくらして、気分が悪くなってくる。このままだと倒れてしまう、そんな気がした。


 すると、晴斗君はポンポンと叩いた。また子供あやすように、落ち着くように、これ以上、無理をしなくてもいいんだと言うように。ただ優しく。


 やがて、今度は彼が話し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る