9−8「思い出しと揺れ動き」
1Fの南階段には誰もいなかった。階段横の収納スペースには雑多に物が積まれ、それを隠すように1枚の衝立が前に置かれていた。
翼さんは警備員室にいた時と同じく階段の端に小さく腰掛ける。
『…12月のあの日。妹の様子が少しおかしかったの。私はドラマの撮影が終わって、次のドラマまで少しだけ期間が空いたからあの子の様子を見に行ったのだけれど、居間のところでリクルートスーツを着たまま、あの子はぼーっとしていて…私、てっきりまたオーディションに落ちたんじゃないかと話を聞いたんだけれど、どうも要領を得ない返事しか返ってこなくって…。』
形の良い眉根をひそめる翼さん。
『それで、妹が手に持っていた封筒には数日いた仕事先から大金が口座に払われるって書かれていて。私てっきり妹が何かの詐欺にあったのかとびっくりしちゃって、でも実際口座を見たらその大金はちゃんと振り込まれていて…私その時に思ったの。妹は何かに巻き込まれたんじゃないのかって。大変な目に遭ったんじゃないのかって…そして、その物流会社と同じロゴを私はこの場所で見たの。』
スッと僕の着ている防護服を指差す翼さん。
『あなたの着ている防護服。その服についているロゴマークは妹の持っていた物流会社と同じ封筒だったわ…ねえ、あなたの会社は一体何なの?ここで何をしているの?あの時、妹に何をしたの?』
真剣な眼差しで僕を見る翼さん。
僕は彼女の目を見て…何も言うことができない自分に気づく。
それもそうだろう。
僕自身、この会社が何なのか未だにわかっていない。
清掃業と言いながら常識では考えられないような出来事は起こるし、危険なことも日常茶飯事で具体的にその原因もわかっていない。
僕は、何も答えることができない。
主任やジェームズやカサンドラのように
そう、僕は…ただの下っ端の清掃員でしかなく…
だからこそ、僕はこう答えることしかできなかった。
「…ごめん、会社については僕もよくわからない。僕はただの清掃員で上からも何も知らされていない。知らない現場でこうして与えられた仕事をこなすだけしかなくて…でも。」
僕は翼さんの目を見て言った。
「君の妹さんは少なくとも傷つくような目には遭っていないよ。僕の上司が君の妹さんの来歴を知って、この職場よりも別の職場の方が向いているって判断して手筈を整えてくれている現場を僕は見たんだ。慰謝料はそのための花向けだと思っているのだけれど…」
だんだん言っているうちに言葉が尻すぼみになっていくのがわかる。
…半分は嘘だ。
慰謝料は彼女が現場を見た際に精神的ショックを受けたために発生したもの。
でも、主任が彼女の身の上を知って温情を与えたのは事実だし、記憶処理をした彼女に、再びあの辛い記憶を思い出させるようなことはあってはならないと僕は感じていた。それを、翼さんにもわかってもらいたいと思ったのも事実で…
そして彼女は僕の目を見て『…そう、わかったわ』と言った。
『すべては鵜呑みにはできないけれど、妹が一月後にオーディションに受かったのは事実だから。あなたの会社が何らかの根回しをしてくれたのは確かなのかもしれない…ごめんなさいね。私たち両親に先立たれてたった2人で生きていくほかなかったから。少し敏感になってしまっていたのかもしれない。』
『それにね、』と彼女は続ける。
『妹が言っていたの。その会社で働いていた時に理由は分からないけれど困った時に一人の男性に助けてもらったんだって、どうしようもなくなった時にその人が側にいてくれた記憶があるんだって。その時のことにいつかお礼を言いたいって、あの子は言っていたから…』
(それは、初日に僕が主任と彼女と一緒にビルから脱出した時の話だろうか…)
そんなことを思い出していると翼さんが僕の方へと顔を近づけた。
『その時、妹から名前を聞いたの。助けてくれた男性の名前…ねえ、答え合わせをさせて。妹が言っていた名前と…あなたの名前を。』
吸い込まれそうな黒い瞳。
僕は翼さんの近い唇にドギマギしながら口を開ける。
「ぼ、僕の名前は…」
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