紅の歌姫(9)

 客席に着いたジェイルは舞台に目を向ける。学校内のホールではあるものの、専門校だけあって本格的な音響設備を有した施設。将来はそこを仕事の場と望む生徒が集まっているとはいえ、いきなりその中央に踏み出すのは度胸が要るだろう。


 照明が控えめにされて発表が始まる。序盤は本当に発表会の様相を呈していた。発声の練習に明け暮れる一回生による合唱が続く。

 昨年は生憎職務が立て込み観覧に来られなかったジェイルだが、ニーチェもこの合唱に参加していたと想像できる。素人にも拙い部分が感じられる合唱でも、そう思えば微笑ましく感じた。


 その後は選抜された生徒による個人発表に変わっていく。事実上、ポレオン音楽学校総合発表会の選考も兼ねた舞台となる。

 最初は二回生の発表から始まる。自信無さげだったり明らかに虚勢を張っていたりもするが、一様に強張った表情で舞台に進み出てくる生徒が大勢を占めていた。


(さて、ニーチェはどんな具合なんでしょうかね?)


 どうやら彼女は講師陣の覚えもめでたいようで、二回生の最後にと割り当てられていた。


   ◇      ◇      ◇


(あたしにとって人生で一番大事な初めての舞台だし)

 今日に賭ける意気込みは誰にも負けていないとニーチェは思う。


「緊張するのは仕方ないけど気負い過ぎないようにしなきゃね」

 沈黙を緊張だとイヴォンは受け取ったらしい。

「そうそう、いつも通りに歌えればニーチェが二回生で一番なのは間違いないのよ」

「肩の力を抜いて頑張ってねぇ」

 イザドラもヘレナも力付けてくれる。

「大丈夫。他の観客なんて関係ないし。パパだけの為に歌うんだもん」

「その調子その調子」

「あはは、通常営業だったか―」

 友人は少し拍子抜けしたようだ。


 ニーチェの名前がコールされて明るい舞台へと力強く踏み出していき、中央で一礼すると伴奏に合わせて声の調べを紡ぎ出していく。


♪ まだ見ぬ貴方はどんな方? 働き者かしら? 優しいかしら? 私がこんなに胸騒がせているのを知らないのでしょう もし、同じ星空を眺めているのだったらこの思いも伝わればいいのに 大切な人となる貴方へ


 彼女が課題曲の中から選んだのは『ナダトゥーリの花嫁』。人類がまだ空も制していなかった頃、村の間を移動するのさえ何日も掛かっていた時代。自分の住む村を出たこともない少女が、親同士の約束で決まっている別の村の婚約者の元へ嫁ぐ様子が切々と綴られている伝統楽曲。

 初めて村を出る喜び。時間の掛かる旅程への恐怖。知らない相手と人生をともにする不安。新しい村に馴染んで生活が立ち行くのかという懐疑。少女の抱く様々な感情を滔々と歌い上げていく。


♪ 冷たく澄んだ朝の空気 少しずつ開放的な気分になっていく私を貴方はどう思う? だって初めての経験なんだもの 許してくれるわよね 

  見えてきた見えてきた 色とりどりの屋根の波 あそこが私の新たな世界 これから生きていく私の場所 驚くほどにドキドキしてる


 ニーチェはその曲以外考えられなかった。曲中の花嫁の思いはジェイルに引き取られると決まった時の彼女の胸中に近い。

 不安と恐怖、そして僅かな希望。諦めと新しい世界への期待がない交ぜになる思いをニーチェは実感として知っている。その思いを歌へとぶつけていれば、完全に没入できる楽曲なのだった。


♪ ああ、なんて優しい方 胸に包まれるだけで幸せが湧き上がる 貴方に出会う為に私は生まれてきたのね 神様、感謝します 私はこの世界で一番幸せな花嫁でしょう 皆に祝福されて貴方と私、明日へと旅立ちます


 彼女が歌い終わって一礼しても観客席は静まり返ったままだった。誰もがニーチェが歌声に乗せた感情に溺れていたのだ。中には頬を濡らす婦人まで見受けられる。それで成功を実感できた。


「素晴らしいわ!」

「なんて見事な! 本当に彼女は二回生なのか?」

「これほどの逸材はなかなかお目に掛かれないぞ」

 立ち上がった一部の観客が褒めそやしてくる。

「光景が脳裏に甦るようだった」

「それに彼女の野趣が感じられる容姿が相まってこれほどの完成度」

「赤が本当によく似合ってる。さしずめ『紅の歌姫』ね」

 そんな声まで聞こえてきた。


 ニーチェの赤紫の瞳にライトが当たればほとんど赤に見えてしまうだろう。そこへジェイルが選んでくれた衣装が映える。グラデーションの先の透け感の強い赤。更にサッシュベルトの真紅が中心に据えられている。観客は魅了の赤に酔っているかの如く拍手を続けていた。


(パパは?)

 ニーチェは瞳を彷徨わせる。

(いた)

 ジェイルは立ち上がってはいないが、微笑みを浮かべて拍手をしている。

(良かった。こんなに気分が乗ったのも初めて。たぶん最高のパフォーマンスをパパに見せられたはず)

 ホッと胸を撫で下ろしてもう一度礼をする。


「新たな歌姫の誕生だ。彼女が卒業するのが待ち遠しいぞ」

「待て待て、『紅の歌姫』を初めに指名するのはうちだぞ」

「今のうちに渡りを付けておかねば。どこの家のお嬢様なんだ?」


(あれ? ちょっと予想と違う反応だし)

 技術的には評価を狙っていても、感情的には父へと向けて歌った楽曲が思いもしない方向性で反響を呼んでいる。


 ニーチェは戸惑いつつも舞台袖へと歩を進めた。

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