泣けない少女(5)

 その時、アナベル・ライナックは炭酸水で割った醸造酒を楽しんでいた。しどけなく横たわったソファーの前の低いテーブルには彼女が大好きなフルーツが所狭しと並んでいる。


 父が多額の献金をして事実上買い取ったライナック姓は、事業に多大な効果をもたらす。運営する交易商社はあっという間に分野別のランクに食い込み、収益は右肩上がりに増大。彼女の家を十二分に潤してくれた。


 事業を引き継いだアナベルも優秀な経営力を持つ見目も悪くない男を婿養子に迎え、この世の春を謳歌している。経営の大部分を夫に任せ、彼女は遊んで暮らすだけで良かった。

 今も首都ポレオンで少し噂になっている金管楽器奏者を私室に招き入れ、細く短い金属管で奏でられているとは思えない情感豊かな音色に身を任せていた。


「見事なものだわね」

 曲の途切れ目に杯を掲げて讃える。

「非才ながら、貴女様のお耳を喜ばせられたのならば光栄に存じます」

「噂になるのも無理ないわ。呼んだ価値があったというもの」

 女性奏者は腰を折る。


 彼女の後ろにはマネージメントもしているという夫が付き従っていた。微笑を湛えて妻の演奏を見守っている。

 この時代、楽器演奏も機械化が進み、どんな技巧的な伝統楽曲や最新のアップテンポなポップスでさえ人の手による演奏を必要としない。生演奏でもメロディは寸分の狂いもなく再現されるし、録音されたデータはほぼ劣化しない音色を紡ぎ出す。

 それでも人間の奏者の紡ぐ、個々に癖のある情感豊かな音色だけは再現できないとされている。それを解する耳は必要だが、一部の高級志向の人の間では演奏者は重宝されていた。


(これが分かるのはわたくしだからこそなのよ)

 アナベルもそう思っている。


 ビジュアルを重視したアイドルはともかく、本格的な歌手や楽器奏者の需要が低くなると同時に目指す者も減少。相応の技能が無ければ職業として成り立たなくなっている。彼女も売り出し中ではあれど希少な奏者の一人であった。


「アナベル様」

 次の曲を促そうとしていたら後ろから秘書の声。

「船団が反政府組織の襲撃を受けたそうです。現在は詳細を確認中です」

「な……んですって!」

「通報は残存した商船からですので、軍の警備隊はほぼ残っていないものと思われます」

 警備隊が壊滅させられるほどの規模の襲撃であれば積荷は絶望視するしかない。

「何ということ? 大損害だわ」

「調査が済み次第、保険会社への申請を行いますので」

「でも、あの船団にはわたくしの取り寄せた麻薬が……」

 秘書が「そちらは……」と制止する。


 金管の笛が小さなステージの床で甲高い音を立てる。どうやら奏者が取り落としたようであった。


「麻薬? 麻薬ですって!?」

 激情に駆られた声がする。

「あなたは何てことを!」

「黙りなさい! ギャランティははずんであげるから、この事は他言無用」

「要りません、そんなもの! 私はそんな汚れたお金を得るために音符に命を吹き込んでいるのではないんです!」

 女性奏者はものすごい剣幕で噛み付いてきた。

「わたくしを前にそんな好き勝手を言って許されると思って? 黙って従いなさい」

「そんなことをすれば自分が許せなくてまともな演奏ができなくなってしまう。帰りましょう、あなた」

「この不埒者め!」


 アナベルはテーブルに有ったフルーツナイフを投げ付ける。脅かすだけのつもりだったが、運悪くナイフは奏者の胸に突き立ってしまった。

 目を見開いた彼女は声もなくそのまま倒れ伏す。夫が駆け寄って抱き起すも、ナイフの周囲には膨大な量の血の染みが広がりつつあった。


「あ、あなたは!」

「だ、だ、黙りなさい。あの男も取り押さえて!」

 金切り声を張り上げる。


 力無く垂れていた女性奏者の腕が震えながら虚空を掴もうとしている。そして「ごめんね、ルーチェ」と呟くと、目から一筋涙がこぼれた。


   ◇      ◇      ◇


 その幼い少女は茫洋とした瞳で街を彷徨っていた。何か目的があるふうでなく、ただ当てもなく漫然と足を動かしているように見える。

 街行く人は視界に入った彼女を不審に感じてはいるようだが積極的に関わろうとはしない。それくらいに少女は異様な雰囲気を醸し出していた。


 ナビゲータに停車を入力し、ジェイルは車を道路脇に寄せる。ドアを押し上げると少女を驚かせないようゆっくりと近付いた。

 そっと回り込んで彼女の視界に入る。しゃがみ込んで両肩に手をやって押し留めると、ようやく気付いたように顔を上げた。


「やあ、僕はジェイル。警察の人です」

 できるだけ優しい声音を出す。

「大丈夫ですか?」

「…………」

 無言で首を振る少女。

「名前は言えますか?」

「ルーチェ」

「そう。ルーチェはお父さんかお母さんと一緒じゃないのですか? それともこの辺りに住んでいますか?」

 再び首を振られる。これは尋常ではない。

「ちょっと車に行きましょう。僕に話を聞かせてください」

「…………」

 今度は頷いてもらえた。


(これはかなり困った状況なのかもしれませんね)


 ジェイルは呆然としたままの少女を抱え上げると車へと歩を進めた。

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