第四話 号砲に潜む影
強い日差しが差し込んでいて、日陰にいるというのに、蒸し暑い。
この間の県大会は薄暗くて肌寒いほどだったのに、たった三週間くらいでここまで熱くなるとは思わなかった。
もっとも、別の会場のために、熱が届きにくいということもあるのだろうが。
それでも、六月にしてはかなり暑くて、私は何度もタオルで汗をぬぐったり、この間初めて飲んだスポーツドリンクを何度も口に運んだりしていた。
今日、陸上部は小さな大会に出場している。
大会、とはいうものの、県大会とかの上の大会の予選とかではなく、記録を測るだけの小規模なものだ。
しかし、見習いマネージャーの私は走らず、五月たちの走りをビデオに納めたり、記録をメモしたり、荷物番をしたりなどという役割だ。
そして、今は五月たちはアップの最中で、もうすぐ出番になる。
「先輩、もうそろそろ上に行きましょう」
あと十分ほどで五月たちが走る、女子100メートルが始まる。その撮影のための場所を確保しなければいけないが、ここのスタンドは狭いので、早めにいかなければうまく撮影できる場所を取れない。
「うーん、そうだね、あと十分だし、もう行こっか、桜空ちゃん」
ただ、まだ私はマネージャーになって日が浅いので、先輩の指導やサポートは欠かせない。走っている人は一生懸命なのだから、こちらも万全にしなくては失礼だ。
私たちは残っている人に撮影に行く旨を伝えた後、私たちが待機していたブルーシートのそばに置いてある、自分の靴を履き、スタンドへと上がり、撮影にいい場所がないかを探す。
撮影は誰かが横切って邪魔になるといけないので、あまり人通りが少ない、スタンドの上の方、それも100メートルのゴール付近が一番いいという風に教わった。
私たちが見上げると、ちょうど人が数人ほどしかいなかったので、適当な場所に陣取り、日程や走る順番、その場所などを記したプログラムを開いて、準備完了だ。
「今のうちに練習しておく?」
先輩がビデオの準備をして私に差し出してくる。
今は男子の100メートルなので、女子しかいない我が部、しいて言えば私にとっては、練習にはもってこいだ。
……県大会の時、撮影の仕方がわからなくて、一回録画して怒られてしまったが。
五月たちに年齢の話をされて実際に数えてみて、祟りから八百年もたっていたほど昔の人間なのだから、いくら五月の暮らしを傍で見ていたとはいえ、時代の流れに着いて行くのは難しい。
つまり、私の本当の年齢は……。
……やめよう。悲しくなる。
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
そんな余計な思いをよそに追いやって、私は練習に集中することにする。
拡大、縮小、カメラの向きなど気をつけなければならないが、100メートルは最初は拡大し、そのあとは徐々に縮小していけばうまく撮影できる。
目の前のレースをその意識でやると、この間よりもうまくできた。
「うん。いいじゃない。なんか、心配して損した気分」
「あはは。気になることがあったら教えてください」
「オッケー。……それにしても」
先輩は苦笑しながら言った。
「最初、びっくりしたよ。桜空ちゃん、機械とか常識とか、いろんなことがわかんないんだもん。それなのにあっという間にみんな身につけちゃうんだから、それも驚き」
「あはは……。すみません。ずっと入院していたもので」
私も苦笑しながらいつものセリフでごまかす。
そう。
私は機械とか現代の常識とか、さっぱりわからなかった。
時代劇に出てくる人が、そのまま現在を生きるのと同じようなものなのだ。
水道など、見ているだけで使い方がわかるものならなんとか聞かなくてもよかったが、スマートフォンやビデオなど、複雑なものはさっぱりだった。
まして、今の世界情勢や日本の状況なんてわかるはずもない。
そのため、五月を中心としたみんなからいっぱい教わって、ある程度のことはわかるようになっている。
それでも、まだ不十分なのだが。
そんなことは、一応、高校初日から陸上部に入部していたが、最初の内はその面は見られず、機械に触れることになった大会の時に明るみに出たというわけだ。
「ねえ、部活、楽しい?」
物思いにふけりながら練習を続ける私に、先輩が思い出したかのように尋ねる。
私はゴールまで画面に映してから、先輩に笑顔で振り向いた。
「はい。最高です。ずっとこんな日々を夢見てましたから」
「……そっか。なら、いっぱい応援しなきゃね! 次だよ!」
そうだ。
今は最高の時間なんだ。
そうでなくては、いけないんだ。
だから、今を精一杯楽しまないと。
先輩がスタート地点に指さしているので、そちらを見ると、すでに女子が並んでいる。
そして、右から三人目に、五月がいた。
すでにスターティングブロックの準備を終えているようで、みんなブロックの後ろで飛んだり静かに立っていたりして、スタートを待っている。
それを私が見た途端、種目が始まるごとに鳴る音楽が始まり、会場に集まったものに、新たな種目が始まったことを告げる。
「次は、女子100メートル走。第一組は、プログラムに記載の通り、八名の出場です」
「いよいよだね、妹さん。しっかり撮影しなよ、お姉ちゃん!」
先輩が私も、五月も応援してくれている。
私も、がんばらなきゃ。
「はい!」
私は笑顔で答え、次の瞬間には口を閉じ、画面に集中する。
会場は静まり、物音一つ立てただけでも目立ってしまいそうだ。
スタート前の沈黙だ。
これがないと、出場者はピストルの音でスタートの合図を受け取るので、それができなくなってしまうためだ。
「On your mark」
「位置について」という英語の合図で、出場者がスターティングブロックに足をかけ、スタートの準備をする。
ガチャガチャという、ブロックに足がかかる音だけ響き、会場は少しでもいじれば壊れてしまうほどの張り詰めた緊張感に包まれる。
「Set」
「用意」という意味の英語の合図で出場者はお尻を上げ。
バンっ!!
ピストルの音が鳴り響くやいなや、一斉にブロックに力を加えて飛び出す。
低い前傾姿勢のまま加速していき、数十メートルほどすると体が起き始める人もいる。
しかし、五月はまだ体が起きない。それなのに姿勢は崩れていなくて、背中がまっすぐしていて、しっかり地面に力を加えられているのか、力を加えて後ろになった足も伸びている。
そのためなのかわからないが、まだ加速している段階のはずなのに、五月は周りを置き去りにしている。
やがてどんどん加速して三十メートルを過ぎたあたりで五月の体が起き始め、五十メートルほどになると完全に起きた。
その頃には完全にスピードに乗り切っていて、そのまま周りを置き去りにしてゴールの間際までスピードが落ちない。
そして、ゴールする直前、倒れるのではないかと思うほど、五月はゴールの基準となる体の胸を突き出してゴールのラインを割り、周りを圧倒してゴールした。
次いで他の出場者もゴールするが、私のビデオはそれを捉えることはなく、すぐさまゴール脇にある電光掲示板を映す。
しばらくして、回り続けていた時計の表示がいったん消え、一着の人の列と、そのタイムが現れた。
「ただいまの一着、第三レーン、奥州女学院の暁さん。記録、12秒78。向かい風1.5メートルでした」
アナウンスでも知らされると、一気に出場者への応援が会場を覆う。
レース前とレース中、レース後に応援があるが、撮影に集中していたせいか、全く気付けなかった。
録画を止めてその応援を聞いていると、無事に終わったことにほっと一息をつく。
……その間もなく。
「ええ!? 五月ちゃん、あんなに速いの!? 練習の時よりやばいじゃん! ああ、もう、こんなに速いんだったら県の時も走ってもらえばよかった!」
先輩が頭を抱えて叫ぶ。
「せ、先輩、落ち着いてください。あの時は退院したばっかりだから、仕方ないですよ。それより、目立ちますから、落ち着いて……」
「ああ、もう……。確かにそうだけどさあ……。はあ……」
「それに、まだ友菜たちも走るんですし、他の人たちも走りますし、迷惑になっちゃいます。だから、いったん落ち着いてください」
何とかなだめて先輩は静かになるが、肩を落としていて五月が走れなかったことを悔しがっている。
この間引退した三年生の姿を、少しでも長く見ていたかったのだろう。
五月はリレーという形でしか参加できなかったのであるが、県大会の時はリレーのメンバーに登録されてなかったので、その可能性もなかった。もし参加していれば、準決勝、あるいはその先と、三年生のレースが少しでも増えていたかもしれない。
それでも仕方ない。
呪いに対抗するためには、魔法を使うしかない。
この間の車の件は、もし魔法がなかったら、最悪……。
それを乗り越えられたのは、間違いなく魔法のおかげであり、五月の「オラクル」のおかげだ。
本当なら、私が肩代わりしてあげたい。
でも、「オラクル」は五月しか使えない。
それがもどかしい。
せめて、私が「オラクル」を使えれば……。
「……桜空ちゃん、どうしたの?」
先輩の声で私の意識は現実へと戻る。
「……へ? あ、すいません。ちょっと、考え事をしてました。次はどれくらい先ですかね?」
「そうねえ、次の亜季ちゃんは四組だから、十分ちょっとくらいかな? あ、ビデオ見せて。五月ちゃんの走り見たい!」
「いいですよ」
私からビデオを興奮した様子で先輩は受け取るが、私は五月が活躍した状況でも、素直に喜べない。
素直に日常を楽しめていない気がする。
もちろんみんなと過ごすのは楽しいし、今までの寂しさがなくなって、幸せになりつつあると思う。
でも、そのためには五月がボロボロにならなければならない。
そのために今の日常にも悪影響がある。
確かに幸せへの一歩を踏み出してはいるが、すぐ傍には暗い影がまとわりついていて、私の気分が晴れることはなかった。
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