第十三話 雪の降る夜に

 五月は気付いているのだろうか。魔法を使って、成功したときに、瞳の色が、かすかに黒から金色に変わっているのを。

 それは、私の忌まわしい血を引くことの証。魔法を使えることの証。バノルスの血を引くことの証。ガリルトの血を引くことの証。


 魔法を使える者の瞳の変化で、魔力が強ければ強いほど、その瞳の輝きは増す。当然五月の魔力はまだ微々たるものだが、まだ魔法を使えるようになったばかりである。今は練習をして失敗をよくしているが、もし魔力を完全に制御できるようになったら、その瞳の輝きは強くなる。まして、バノルスとガリルト、私の血を引いているのだから、その魔力は計り知れないものがあるだろう。


 しかし、その分、体への負担が強い。

 魔力消費性疲労症。そう私の地では呼んでいた。魔力の使い過ぎにより、体に負担がかかり、疲労がたまる。最悪の場合、失神すると言う病気。魔力が強いほど体への負担が強いから、発症することは多い。

 私の場合、何度もなったことがある。魔力が強かったのもあるが、生きるためには避けられなかった。


 魔力が強いのが原因か、私の家では代々短命である。私のような特殊な事情がない限り、若くして死ぬ場合が多い。実際、私の娘は二十九で死んだとされている。

 そんなことになってほしくないが、目の色が変わることも問題になる。


 イワキダイキのような連中が、五月を化け物扱いするのではないだろうか。佳菜子と麻利亜が見た時、五月といつものように振る舞えるのか。ゆかりや綾花はどうなのか。

 一度生じた疑問は、疑いに変わる。信じると決めただけに、そんな自分が嫌になる。


 結局私は臆病者か。

 イオツミスマルを使えなかった、いや、使わなかったのも、それが理由か。

 そんなことはないと思う。


 魔法がもたらした災厄。その時、娘が鎮めてくれたが、私や娘は弱っていた。「あの魔法」を使えるような魔力は残っていたとはいえ、イオツミスマルの隠れた機能を使うのに莫大な魔力が必要で、そんな状態では、使えるはずがなかった。

 そうであると、信じたい。今となってはもう過ぎたことだし、確かめようもないし、あの時も仕方なかったと言えば仕方なかったから。


 それが、今も源家の宝物庫にある。源家ではそれを受け継ぐ者は当主とされ、今は五月のものとなっている。一目見ただけだと、光沢のある勾玉。私の先祖が作った「神器」と呼ばれる魔法道具の一つだが、いまだにその輝きを失っていない。

 でも。それを使えれば。すべてが終わるのではないだろうか。

 もともと全てを終わらせる最終手段だと伝えられているのだから。

 現代ではお似合いの「神器」だと思う。


 リベカ様。あなたは何を思ってこれらの「神器」を作ったのですか。できるならば、この私に教えてください。そして、その御言葉で、私を、五月を、みんなを、お導きください。

 ……。そんなこと、できるわけないか。

 そんな資格、私にも、リベカ様にも、無いというのに。

 五月。桜月さつき。みんな。

 何もできなくて、ごめんなさい。



 ※



 二月。立春を過ぎ、世間では暦上で春が始まるとはいうが、そんなものは名ばかりで、千渡ちわたり村や糸川町では、肌を刺すような寒さが続き、雪が深く積もっていた。


 五月は、雪が積もっていないときは自転車で学校まで通っていたが、雪が積もる冬は、お義母さんの車に乗せられて通学していた。千渡村には一切中学校がないために、町のほうに通っているため、通学では不自由な点で、いじめもあるため憂鬱だったが、かなちゃんとマリリン、サラに加えて、お義母さんと綾花が支えてくれているため、それを乗り越えることができていた。お義母さんと綾花には教員のことは伝えていなかったが、以前よりも気を使ってくれていると感じていたため、おそらく、どこかから聞いて、少しでも励まそうとしてくれていると思った。


 だからだろうか。初詣の仕事は、暁家や橘家の人たちがやってくれた。本来、五月がやるべきだが、お義母さんと綾花の様子や、「呪い」のことを考えて、五月はかなちゃんとマリリンと一緒に過ごしたのだ。


 そして。二月ということは、一つの恒例の行事が、主に女性、そして一部の男性を待っていた。

 それは、バレンタイン・デーである。言わずと知れた、女性が好きな男性にチョコレートを贈る日となっている。近年は、女性が友人の女性にチョコレートを贈り合う「友チョコ」、恋愛感情のない男性に女性がチョコレートを贈る「義理チョコ」というものが広がっているという話らしい。


 その流れに、五月、かなちゃん、マリリンの三人は、例にもれず乗っていた。もっとも、三人の場合は「友チョコ」に該当するものを贈り合おうと考えていた。

 そう、かなちゃんとマリリンは思っていた。


 しかし、バレンタイン当日の放課後に集まったかなちゃんの家で、二人は見てしまった。

 五月が、二人と五月の分以外に、もう一つ、きれいに包装されたチョコレートを、間違えてカバンから出してしまうのを。


「あっ……」


 五月は、慌ててそれをしまって、三人用のチョコレートを取り出す。間違いなくこの場の三人のためのものだろう。しかし、二人は時が止まったかのように動けない。

 五月は、二人に「どうしたの?」と、何事もなかったように聞くが、二人は目が点になったまま。


 沈黙が流れる。

 その沈黙を破ったのは、かなちゃんだった。


「……巫女さん」


 五月はかなちゃんに視線を合わせる。


「あんた……、いつの間にそういう人ができたんだい?」


 再び沈黙が流れる。マリリンもかなちゃんと同じことを考えてはいたのだが、かなちゃんのように口には出せない。しかし、時間が経つにつれ、五月の顔が赤く染まっていき、徐々に俯いていく。そんな五月の反応を見て、二人の予想は確信へと昇華された。

 その再度の沈黙を破ったのは、五月の歯切れの悪い答えだった。心臓の音もうるさくて、余計に、何を話しているかわからなかった。


「……えっと、その……、義理……、うん、そう、義理! 義理チョコなんだから! 決して、その……、……好き、とかじゃなくて、お礼。そう、お礼……」


 顔を真っ赤にしながら話す五月の言うことを、二人はごまかしていると思っていた。また、今までの五月を見ている限り、そういう人になりそうな人は、一人しかいなかった。


 その爆弾を、マリリンが投下した。


「もしかして、裕樹さんにあげるの?」


 その言葉を聞き、ますます五月に動揺が走る。顔から火が出るようだ。


「えっと、えと、まあ、うん、そう、だけど、今までのお礼にあげるだけ。おととしもあげてるから。それに、年賀状に書いてあったことが、ちょっとうれしかったから、少しがんばってみたの」


 それを聞くと、にやにやしながらかなちゃんが口を開く。五月は、思わずたじろぐ。


「ひょっとして、その内容がラブレターだったりとか?」


 見当違いの言葉を聞いて、頭の中が冷めていく。五月はいくらか冷静さを取り戻し、ため息をつきながら言った。


「そんなわけないでしょ。大体、恋愛感情なんてないんだから。それは裕樹も同じだと思うよ。それに、『去年はつらかったと思うけど、今年は楽しくいこう。大丈夫。いつでも味方だからな』って書いてあっただけだし。あ・く・ま・で、ね・ん・が・じょ・う! そんなんだから、全然好きじゃありませーん」


 そう言って、二人の言うことを否定する。大体、そんな感情を持ったことがないのだから、勘違いをしないでほしかった。

 それでも。胸の奥が痛くて、苦しかった。その理由がわからず、五月は、困惑することしかできなかった。



 ※



 二人と別れ、五月はお義母さんの車に揺られて、千渡村への帰路についていた。

 時刻は六時。すでに辺りは暗く、明かりの少ない村では、車のヘッドライトのみが見えると言うのがざらである。ましてや、イワキダイキのような連中がいるかもしれず、この夜道を、少女が一人で歩くのは、明らかに危なくて。五月は、裕樹のために作ったチョコレートを、渡せそうにないと、半ばあきらめかけていた。


 そんなの、わかっていた。裕樹に直接チョコレートを渡せる時間は、バレンタイン当日にはないことくらい。それでも、前日に、一人で渡すのは、手紙を受け取ったとはいえ、一年も会っていない人に、直接渡す勇気を、五月は持てなかった。朝に渡そうとも思ったが、車での通学で運転してくれるお義母さんに話せず、行動に移せなかった。


 そう思うと、先ほどの胸の痛みに五月は再び襲われる。とても苦しい。それに包まれそうになる。

 そんな五月に、横から声がかけられる。


「五月、裕樹にチョコレートは渡したのかい?」


 お義母さんだった。車内にはお義母さんと五月しかいないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、お義母さんから彼の名前と、チョコレートを渡したのかを聞かれたのは、今まさに考えていたことを見透かされたようで、呆気にとられる。

 そのため、しばらく五月は閉口していたが、自らを落ち着かせるように静かに息を吸い、言った。


「いえ、まだです。ばれてましたか?」

「二年前に渡してたし、昨日張り切って作ってたからねえ。簡単にわかるさ」


 言われてみれば当然だが、素直になれず、頷けない。

 さらにお義母さんは続けた。


「裕樹の家に行くかい?」


 お義母さんから想像もしていない一言が発せられ、思わずお義母さんのほうを見る。


「え、でも、お義母さん、大丈夫ですか? それに、裕樹も迷惑かもしれないですし……」


 お義母さんは、そんな五月に頷く。


「あたしは大丈夫さ。裕樹の方も裕樹のほうで、五月と会うのを楽しみにしてるんじゃないかい? 一応、裕樹の家と家は近いし、それくらいの距離なら、裕樹に去年みたく送られてきたらどうだい?」


 去年のことを思い出す。あの時は、みんないなくなって、打ちひしがれて、どうすればいいかわからなくて、絶望していた。

 そこから、光を見出して、五月を救ってくれたのが裕樹だった。小学校にいる間は結局孤独のままだったが、それでも今に至るまで、彼の存在が大きく五月を支えてくれた。会えなかったけど、五月の力になってくれた。


 その彼に、お返しがしたい。そう思って、ちょうどバレンタインの時期だったので、チョコレートを、いつもよりも少しがんばって作ったのだ。

 それでも、いざ渡すとなるとなかなかその一歩が踏み出せず、渡す一歩手前まで来てしまっている。

 それを、お義母さんが後押ししようとしてくれている。その気遣いが、ありがたい。

 そのため、五月はお義母さんの提案を受け入れることにした。


「ありがとうございます。では、裕樹に渡します。でも、帰りは……」

「今も言ったけど、送られてきな。裕樹だって、あんたと話したいことがあるだろうよ。不審者は、イワキダイキのような奴以外いないだろうから、そいつらに気を付けて、ゆっくりとしてきな」


 そんなお義母さんに、五月は笑みを浮かべて応えた。



 ※



 お義母さんの車から降り、一年ぶりに望月家に足を踏み入れる。

 お義母さんに後押しされたとはいえ、足取りが重い。体が重い。時間が長く感じられる。それは永遠に続きそうで。五月は、先ほどの気持ちとは裏腹に、この場から逃げ出したくなった。

 それでも。相手は親友の兄。五月をずっと支えてくれている人。五月に勇気をくれる人。この場から逃げるわけにはいかない。

 そして。無限大に続いていた玄関への道は、後ろから声をかけられて、途切れた。


「……五月ちゃん?」


 その声。その呼び方。その話し方。それは、今まさに会おうとしていた人と、瓜二つで。

 胸が躍るのを感じる。

 五月は、その声に応えるように、その声の方へ振り向く。

 そこには人がいた。男の人だ。体は、五月よりも一回り大きくて、百七十センチメートルを超える高さで、五月のすべてを包み込んでくれるよう。黒い短髪で、その顔にある瞳は、まっすぐに五月を射抜き、五月のすべてを理解しているような輝きだった。

 その一つ一つが、彼が、裕樹なのだと、五月を確信させた。


「裕樹……」


 五月は自然に笑みが生まれるのを感じながら、彼のもとへと駆けよる。

 裕樹のほうが背が高く、五月は、見上げる形になる。


「お久しぶりです。元気にしてましたか?」


 久しぶりに会えたこと、久しぶりに話せること、久しぶりにその姿を見られたこと、久しぶりに傍に裕樹を感じられるのがうれしくて、声が弾むのが五月にはわかった。


「やっぱり五月ちゃんか。うん、元気にしてたよ。どうしたんだい? こんな暗くなってるのに」


 そう言われて、五月は自分が裕樹の家に来た意味を思い出す。それを思い出した瞬間、急に心臓が大合唱を始め、顔が火照

ほて

り、しどろもどろになってしまう。

 それでも、何とか深呼吸をして、いくらか落ち着きを取り戻し、カバンの中身を探って、目的のものを裕樹に差し出す。


「受け取ってください。去年とおととしも渡しましたからね。今年は励ましてくれたお礼のためにも、少しがんばってみました」


 そこまでは冷静にいくことができた。


「そっか、今日はバレンタインか。サンキュ。五月ちゃん」


 裕樹はチョコレートを受け取り、溢れんばかりの笑みを浮かべる。その嬉しそうな表情に、思わず見惚れてしまう。その笑みは、今までのつらかったことを溶かしてくれるように、とても温かだった。

 胸が高鳴る。


 しかし、胸が高鳴ったことに五月は気付くと、今の自分が、告白したと思われても仕方のないことをしたのに気付き、顔から火が出るようだった。

 そのため、五月は、落ち着くために自分の髪をいじくると、余計なことまで言ってしまう。


「あ、えっと、その、これ、義理ですから。うん、義理。でも、ずっと支えになってくれてたから、少しだけ、本当に少しですよ、がんばって作りました。包装も頑張りました」


 そんな五月を見ても、裕樹は気を悪くしたような仕草をせず、笑みを浮かべたまま。まるで五月のことをすべてわかっているかのようで、とてもうれしかった。

 それでも、その場にとどまり続けるのには耐えられなくて、五月は裕樹に、目を合わせられず、俯きながら言った。


「受け取ってくれてありがとうございます。それではこれで失礼します」


 五月は、裕樹の横を通り過ぎようとする。本当はもっと一緒にいたいのに、ずっと話していたいのに、それができない自分がもどかしくて、素直な態度が取れない自分が嫌になって、胸が痛む。

 そんな五月の肩を、優しく温かいものがつつむ。

 振り返ってみる。それは、裕樹の手だった。


「待って、五月ちゃん」


 裕樹が引き留めてくれたのだ。

 急なことに、体に触れられたことに、これまで以上に心臓の大合唱が激しくなる。

 五月は顔を上げ、裕樹の目を見る。


「夜だから、送ってくよ。少し、話もしたいし」


 裕樹が優しく声をかけてくれる。その優しさに包まれ、五月の胸は、痛みがなくなり、温もりで満たされていく。


「はい。ありがとうございます」


 五月が頷くのは、当然の話だった。

 裕樹はいったん家に入り、荷物を置いたり、家の人に断りを入れたりした。

 裕樹が懐中電灯と五月からもらったチョコレートを持って玄関から出てくると、二人並んで歩きだした。


「五月ちゃんの家に着いたら、一緒にチョコ食べような。どれほど腕を上げたか楽しみだ」


 裕樹の家で食べても良かったのだが、それだと、遅くなりすぎると考えたのだろう。そんな裕樹の気遣いがありがたかった。

 しかし、次の一言が出てこない。せっかく一緒にいられているのに、話したいのに、口から声が出なくて、また五月は胸が苦しくなる。


 裕樹のほうを見る。裕樹の顔も、いくらかこわばっているようだった。

 お互いに緊張しているということか。

 二人の間にもどかしさが広がり、その空気に、五月は押しつぶされそうだった。


 その時だった。

 頭に、ひんやりとした感触が広がる。それは、大きな塊ではなく、一つ一つ小さいものの集まりのようで、皮膚にぶつかると、その体温であっという間に消えてしまっていた。

 空を見上げてみる。裕樹も、五月につられて空を見上げる。

 雪が降っていた。


「……雪、降ってきたな」


 二人の緊張感は、雪のおかげで、二人の体温で雪が溶けるように、消えていった。


「そう、ですね……」


 裕樹のつぶやきに、五月は応じる。


「いろいろ、大変だったんだって?」

「……はい」


 裕樹の問いに答える。二人は視線を合わせることはなく、歩みを進めながら話す。


「それはもう、大変でした。つらかった。苦しかった。でも、寂しくはありませんでした。新しい友達がいたから。ゆかりがいたから。綾花がいたから。そして、……裕樹がいたから。みんな、わたしを支えてくれました。誰か一人でも欠けていたら、耐え切れなくて、壊れてたと思います。

 特に、裕樹には感謝しているんです。裕樹が救ってくれて、約束をしてくれて。裕樹の存在が、わたしのすべてなのかもしれません。それくらい、大きな、温かい存在……」


 いつも、裕樹の存在が五月を支えてくれた。温もりを与えてくれた。約束を通して、友達をくれた。裕樹がいなかったら、今の五月に、何があったのだろうか。何もなかったのではないだろうか。

 そんな裕樹の存在がありがたく、もっと感じたくて、五月は、裕樹の手に触れる。裕樹はそれに、繋いで応える。


「これからも、よろしくお願いします、裕樹」


 五月は、もう一方の手も裕樹と繋いで、裕樹と向き合う。


「こちらこそ。よろしく、五月ちゃん」


 裕樹もそれに応える。

 そんな裕樹を見て。

 胸が温かくなる。

 満たされる。


 でも。もっと裕樹を感じたくて。

 もっと裕樹の温もりに触れたくて。

 思わず、五月は手をほどき、裕樹に抱きつくような姿勢で、裕樹の胸に体を預けた。


「え……、五月ちゃん?」


 裕樹の戸惑う声が聞こえる。心なしか、五月に触れる裕樹の胸の鼓動が、激しく感じる。


「すみません、もう少し、このまま……」


 五月は、なお裕樹の胸に体を預けたまま。初めは戸惑っていた裕樹だが、次第にその様子はなくなる。

 それどころか。


「え?」


 予想外のことに、五月は驚きの声を上げる。

 裕樹が、五月の背中にまで手をのばす。

 五月を抱きしめてくれていた。


「いいよ。気が済むまで。好きなだけ。俺は、受け止めるから……」


 五月の胸が、これまでにないほど高鳴る。

 裕樹が抱きしめてくれて。五月の支えになってくれて。五月のすべてを受け止めてくれて。

 心の中にある黒いものが、じわじわと溶けていく。

 五月を、裕樹が温もりで包み込んでくれる。


「……うん」


 そのまま、五月と裕樹は、雪の降る中、しばらくの間、互いに満たされ合っていた。



 ※



「どう、でしょうか?」


 五月の部屋で、五月が作ったチョコレートを裕樹が頬張る。料理が得意である五月は、お菓子作りも得意ではあったのだが、裕樹のためにと作った物をいざ振る舞うとなると、果たして口に合うのか不安で仕方なかった。


 そんな不安に気付かない様子で、裕樹はゆっくりとチョコレートを咀嚼

そしゃく

する。そこで、なお一層五月の緊張が増す。

 五月は、裕樹の審判の結果を静かに待つ。その時間は永遠に近いような長さに感じ、五月は心細くなる。


 一方で、おいしいと言ってくれた時のことも妄想する。そう言ってくれたら、五月の努力が報われる瞬間だ。そんな至福の時間の中にいる自分を想像するが、そう言ってくれるか自信がなく、かえってより苦しくなってしまう。

 沈黙が流れる。

 やがて、裕樹がその沈黙を破る。


「五月ちゃん、これ、おいしいよ。前よりもずっとおいしい。五月ちゃんも食べよう。こんなにおいしいのはほかにないよ」


 その言葉を聞くことができたが、理解することができず、頭の中で何回か繰り返す。そのため、すぐに裕樹の言葉に反応できない。


「五月ちゃん? どうしたんだい、ぼうっとして。おいしいんだから、ほら、五月ちゃんも食べる」


 裕樹は、チョコレートを一つ取り出し、五月の手にのせる。五月は裕樹に視線を合わせると、裕樹が頷き、口に運んだ。


「おいしい……」


 甘みと苦み、香りが広がる。それは自分が作った物ではあったが、おいしいと胸を張って言えるようなものだった。


「そうだろ? だから、一緒に食べようぜ」


 しかし、屈託のない笑みを浮かべながらそう言う裕樹に、五月は素直にうなずけない。


「でも、これは裕樹にあげたものですよ。それをわたしも食べるなんて……」


 そんな五月の頭を、チョコレートをつかんでいない左手で、突然裕樹が撫でる。とっさのことに体が動かない。顔が火照り、俯く。ただ、裕樹からは邪気を感じず、かえって裕樹の優しさが、温もりが、直に伝わってくる。それは五月の胸を高鳴らせ、満たされていくようで、ずっと頭を撫でられていたい気持ちにさせられる。


「ああ、確かにこれは俺がもらったものだ。だから俺がどうするか決めるのは道理だろ? ……俺は五月ちゃんと一緒に食べたいんだよ」


 それを聞いて、五月はうれしいのか、幸せなのか、よくわからない感情になる。胸の奥がよくわからない感触になっている。くすぐったいような、満たされるような、そんなものが混ざった、よくわからない感じ。


 それでも。先ほどの妄想よりも、考えられないようなことだった。

 裕樹がおいしいと言ってくれた。それだけでもうれしかった。それだけでなく、一緒に食べようと言ってくれた。一緒に食べたいと言ってくれた。誰と? ほかでもない、五月とである。


 こんな幸せなことがあるのだろうか。こんな至福の時間を送れるなんてことがあるのだろうか。

 まるで、現実感のない、夢のような時間。すべてを包み込んでくれる、温かな時間。

 にわかには信じがたいが、これは現実。しかも、今、自分が体感していること。

 ほしかった幸せが今、ここにあった。



 ※



 チョコレートを食べ終わり、二人はしばらく話に花を咲かせていたが、ふと時計を見ると、夜八時前。もう遅い時間になっていた。


「五月ちゃん、ごめん、もう帰らなくちゃ」


 裕樹が名残惜しそうに言う。五月も同じ気持ちだったが、さすがにこれ以上一緒にいるわけにはいかず、玄関先に出て裕樹を見送りに出る。


「んじゃ、五月ちゃん、また今度」

「うん……」


 裕樹の別れの挨拶に、五月はまだ別れたくなくて言葉があまり出てこない。裕樹はそんな五月の様子には気づかない様子で、振り返ると、門の方へ歩き出していってしまう。


 どんどんと遠くなっていく姿を見て、五月は胸が苦しくなる。心細くなる。

 もうちょっと一緒にいたい。もっと裕樹の温もりに触れていたい。

 そんな抗い難い感情に、五月はどんどん支配されていく。それはさらに苦しさにつながり、一緒にいたい欲につながるという悪循環を繰り返し、押しつぶされそうになる。


 やがて、裕樹が門を出ようとすると、もう我慢できなくて、気が付くと、裕樹のもとへと駆けだしていた。


「……裕樹!」


 裕樹が振り返る。だんだんとその姿は大きくなり、すぐそばにまで来る。


「どうしたの、五月ちゃん?」


 裕樹は、特に気にする様子もなく優しく五月に話しかける。

 裕樹が目の前にいる。それだけでもうれしいが、先ほどの温もりを思い出してしまう。

 雪がちらつく中、抱きしめてくれた感触を、思い出してしまう。

 頭を撫でてくれた感触を、思い出してしまう。

 その温もりを、もう一度感じたい。もう一度、抱きしめてほしい。もう一度、頭を撫でてほしい。

 そう思った。


「その、えっと、裕樹。最後に、その、さっきみたいに、ぎゅっとしたり、撫でたりしてくれませんか?」


 顔を真っ赤にしながら俯いて話す五月に、一瞬、裕樹はきょとんとするが、笑みを浮かべて、「いいよ」と言ってくれる。


 その言葉を合図に、再び五月は裕樹に体を預ける。再び抱きしめられる。再び頭を撫でられる。

 すべての暗い感情が、溶けていく。幸せ、至福の時へと、溶けていく。

 裕樹の温もりを感じる。裕樹の温もりに満たされていく。

 大丈夫。なにがあっても、裕樹がいれば、怖くない。

 そう、信じた。


「五月ちゃん、ちょっと甘えすぎじゃない?」


 裕樹が苦笑しながら聞いてくる。とはいえ、まんざらでもない様子だ。


「裕樹だから、ですかね。こうしてくれるのは、裕樹じゃなきゃ嫌です。裕樹がいいんです。だから……、その、時々、一緒に過ごしたいな、と思ったりするんですけど、どうでしょう? 裕樹と一緒だと、何があっても大丈夫な気がするんです」


 言い終わって気付く。これでは、愛の告白に聞こえてもおかしくないことに。

 そんなことはない。そんな感情はない。そう思う。

 でも。

 裕樹だったら、それもいいかなとも思う。

 それが伝わったかはわからない。


「わかった。時々だけど、また、前のように一緒に遊ぶか」


 裕樹が一緒にいると言ってくれた。心が弾む。

 でも。

 続いた裕樹の言葉は、意外なものだった。


「ごめんな、五月ちゃん」


 急に謝罪の言葉を言われて、五月は困惑する。裕樹に謝られる筋合いはない。少なくとも五月はそう思っている。


「どうしたんですか? 裕樹が謝ることなんて、一つもないですよ」


 そう五月が言っても、裕樹の表情は晴れない。


「いや、ある。五月ちゃんが苦しいときに、忙しさを言い訳にして、そばにいなかったことだ」


 それを聞いて、五月は目を白黒させる。


 五月は、ただ、裕樹に、楓や雪奈に、恥ずかしくないようにと思って頑張ってきた。立派になったところを見てほしかった。

 裕樹に迷惑をかけたくなかった。イワキダイキの話、「暁五月と関係の深いものは死ぬ」という妄言を信じてはいなかったけど、本当だったら怖かった。みんな死んだように、裕樹もいなくなるのかと思った。呪ってしまうのかと思った。


 かなちゃんとマリリンは、それでも友達、ズッ友だと言ってくれた。でも、裕樹とは約束をしただけだと、ひどい言い方をすればそう言える。なにより、裕樹が巻き込まれても五月と友達だとは、裕樹は言ったことはなかった。

 だから、無意識のうちに、会うのが怖くなったのかもしれない。裕樹が五月を避けるのを見るのが怖くなったのかもしれない。家がすぐ近くなのに、会おうともしなかった。そのため、かなちゃんやマリリン、お義母さんや綾花に、そして五月自身に、余計な心労をもたらしたかもしれない。


 なによりも、心の支えになってくれた人を、疑ってしまったという事実に気付いて、五月に罪悪感をもたらす。

 そう考えると、五月が謝るべきである。裕樹が謝る必要はない。

 そのようなことを裕樹に言うと、裕樹は首を振った。


「そんなことはない。俺も、五月ちゃんを避けてたんだ。もし五月ちゃんと会ったら、楓ちゃんのことを、なにより、雪奈のことを思い出す。それがつらいと思った。もしかしたら、五月ちゃんも同じように考えているかもと思うと、かえって傷つけると思ったんだ。そうなると、俺も、五月ちゃんも必要ない傷を負うことになる。それが、嫌だったんだ。


 イワキダイキの話は信じてなかったし、もし本当でも、それで五月ちゃんのことを嫌いになるはずはなかった。それでも、思い出すのが嫌だったんだ。ごめんな、五月ちゃん。弱い男で。肝心な時にそばにいられなくて。

 そんな俺でも力になれるのなら。また、やり直そう。今度は、五月ちゃんの新しい友達と一緒に」


 五月は静かに裕樹の話を聞いていた。

 裕樹も傷ついていた。また傷つくのが怖かった。傷つけるのを恐れていた。だから五月と距離をとっていた。

 それでも。イワキダイキのことを信じず、もし本当でも五月のことを嫌いにならないと言っていた。

 五月と約束を交わして、陰から支えてくれた。

 結局は、五月と一緒。相手のことを考えすぎて、臆病になっていた。すれ違っていた。ただ、それだけ。だから、お互いに責める必要がなかった。お互い様だった。


 そこからは、お互いに謝り合った。先ほどもしたのだから、必要なかったかもしれない。

でも、謝るたび、互いのすれ違いは溶け合い、今までの空白の時間を満たしていく。

 そんな二人を見守るのは、静かに降り続ける雪以外、誰もいなかった。

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