第12話 幼馴染たちは楽譜の謎に迫る
翌日、はやる胸を押さえながらエマは鍵盤に向かった。テオに手渡された「我らが天使ー暁に約束」の楽譜、一部目と二部目を続けて弾いてみることにした。
知っているものよりも繊細で複雑な一部目は、所々に隠しスパイスのような遊びが散りばめられていて、作曲家がいかに楽しんで作ったのかが感じられた。今、町の人たちが慣れ親しんでいるものは、これを省略化し、誰もが簡単に弾けるようになったものだろう。教会などでの演奏は逆に、豪華に壮大にアレンジされている。
次に少しペースを落として、探りながら丁寧に二部目を弾いていく。いきなり弾ききれるとは思わなかったけれど、思ったほど難しくないようだ。一部目に比べればずいぶんと砕けた感じがした。あちらが天上の話ならこちらは地上の話、そんな感じだろうか。いい意味での俗っぽさが心地よい曲だとエマは思った。
二部目を弾きながら、エマはどんどん楽しくなってきた。なんて心を駆り立てる旋律だろうと感心してしまう。思いが素直にあふれていて、誰もがそれを分かち合えるかのようだ。生きる喜びを表している音とでも言えばいいだろうか。さあおいで、さあ一緒に。音を通してそんな風に呼びかけられているのだとエマは思った。
けれど、最後の一音を確認した後、エマはなんとも言えない気持ちになった。
(……なんだろう。何か足りない)
あれほどまでに盛り上がったというのに、あっけなくそれを手放してしまったような気分。この後どうなるのか? 何が起きるのか? 漠然とした気持ちは宙ぶらりんで、どうしていいのかまごついてしまう。
慣れれば変わってくるだろうかと、エマは何度も何度も二部目を弾いてみた。けれど違和感は拭い去れない。やっぱり何かがおかしい。素晴らしい曲であることは間違いない。きっと聴いた人の多くがそう思うだろう。だけど何かが引っかかって仕方がない。
目を瞑り、エマは脳内でその音をもう一度反芻してみた。弾いているからわからないのかもしれない。外側から客観的に見れば何かがわかるかもしれない、そう思ったのだ。
回る音たち、交わる音たち、流れ弾け……次の瞬間、エマ思わず立ち上がった。
(なにこれ! 終われないの? 続いていくの? ……そうか! これ、完結していないんだ!)
エマはついに掴んだ気がした。この先に続く何かがある! まだ続きがあるんだと思った時、玄関のドアが開き、大きな声が響いた。
「エマ!」
テオが走り込んできたのだ。小さい頃よくそうしたように。楽譜の謎が解けたことよりもエマはまずそちらに気を取られてしまった。あれほど当たり前だったことが、ここ数年まったくなかったことに気づけば、なんとも言えない感慨がわき起こる。しばらく途絶えていたそれが、けれど違和感一つないことに嬉しさを隠しきれなかった。
(テオがうちにいる、いつもみたいにうちにいる!)
エマの中に喜びが湧き上がってくる。けれどそんな感動に浸っている暇はなかった。テオがまた、階下からエマを呼んだのだ。急かされている。エマは慌てて階段を降りた。
エマの母エミリーはあの夏の日以来、二人の関係がぎくしゃくしてしまっていることに気がついていた。けれど、親友であるテオの母セシリアと何度も話し合って、これは二人の問題だから口出ししないでおこうと決めたのだ。だからテオが走り込んできて昔のように「おばさん、おはよう」と声をかければ驚くことなく笑顔で返し、彼を迎え入れた。
ピアノが置いてあるリビングルームで二人が幼い頃のように額をつきあわせ、一生懸命話をしている姿を見たエミリーは安堵の吐息を洩らした。テオの青い月の日の双子の話は、セシリアから何度も聞かされていた。近くにいながらその苦しみを肩代わりできない辛さ。彼女もまた、セシリアと同じようにそれを感じていた。大切なものたちの長かった不在にようやく終止符が打たれた。大いなる前進なのだと、エミリーは心から嬉しく思った。
「エマ、この曲もし」
「あるんでしょ、続きが!」
「え? うん、そうなんだ。でもなんで? あっ、そうか! 弾いたからわかるんだね。そう、実はこれは、三部構成だったんだよ。ここにほら、書いてあるんだ」
あの後すぐ、テオは手紙を解読し始めたようだ。コピーされた文章には多くの書き込みがあった。
「まだ他にも見つかっていないものがあるってことだよ」
興奮を隠しきれない声でそう言ったテオは、ポンポンと唇を叩き始めた。
「もう一度、楽譜のあった場所を見てみるよ。もしかしたらまだ残っているかもしれない。それと目を通していない他の楽譜もね。紛れてる可能性もある」
地下の資料整理期間はまだ続いているから、時間内はスケジュール通りに働かなければいけない。それが終わった後に、また三人にお願いしなければいけないと、エマは申し訳なさで一杯になった。けれどテオは豪快に笑い飛ばした。
「大丈夫、大丈夫。あいつら嫌がると思う? その逆だよ。きっと泣いて喜ぶから。やめろって言ってもやっちゃうかもよ」
テオの軽口にほっとした顔を見せるエマ。そんな彼女にテオは力強く続けた。
「とにかくエマは練習して。俺たちは楽譜を探すよ。花祭りに間に合うように、絶対探してみせるから!」
エマはテオの言葉に、自分たちのこれからを重ね合わせるような思いだった。完結している一部目に比べて、未完だと思わざるを得なかった二部目。それはまるで相手を求めている何かのようだと感じたのだ。それは片割れを求める双子であり、テオであり、自分なのかもしれないと。
だから三部目を諦めることなどできないと思った。それを諦めてしまうと、自分たちの未来をも諦めてしまうような気がしてならなかったのだ。未来への夢と希望はどんなことがあっても手放したくない。楽譜の探索が容易ではない事はエマにだってわかる。けれど、テオが諦めないと言ってくれる限り、自分はその言葉を信じて進もうとエマは思ったのだ。
図書館での再会を機に、エマは誓いを立てた。たとえどんな未来が待っていようとも、今テオに求められているのはエマなのだ。この瞬間だけは、エマがテオを支えている。だからその気持ちを大事にして、自分自身をテオを、もう二度と裏切る事はしないと、そう覚悟を決めた。今を悔いなく生きることが、未来へとつながっていくのだとエマは心に刻んだのだ。
地下の資料整理期間中、エマはレッスンの帰りには必ず図書館に足を運んだ。花祭りのためにエマもまた、ほぼ毎日のようにレッスンを組んでいたのだ。手伝いたい気持ちは山々だったけれど、あまりにも専門的なことばかりで、結局エマにできることは言えば、時間外の作業に専念するテオたちに差し入れをすることくらいだった。それでも彼らはエマに笑顔を見せてくれ、エマは自分にできること、それはすなわち一部目と二部目の完璧な仕上がりなのだと、彼らの思いに応えるべき練習に勤しんだ。
しかし残念なことに、彼らは三部目の楽譜を見つけることができなかった。新しい楽譜は発見されず、手元にある古代フロシオン語タイトルのすべてを調べ尽くしたというのに、何一つ見つけることができなかったのだ。がっくりと項垂れるテオの肩をセシルが優しく叩いた。
「そう落ち込むなって。地下からすべてのものを引きあげられたかどうかはわからないし、僕らにはまだ手紙の解読だって残ってるんだよ。むしろ、そっちの方が重要だと思う。なんたって、楽譜についていた解説書なんだからね」
クライブもセシルに同意して大きく頷いている。テオは前向きな親友たちに感謝しかなかった。自分一人だったらこうはいかなかっただろう。ついつい落ち込んでしまって、時間を無駄にした可能性が大きい。「今日のエマの差し入れは何かなあ」と言うセシルの明るい声にテオは顔を上げた。そう、やれることはまだまだある。こんなところで立ち止まっている場合ではないのだ。
その夕刻、図書館を訪れたエマは報告を聞いてやはり落胆したものの、すぐに気持ちを切り替えて彼らをねぎらった。彼女は彼女で、もし三部目がなかった時のことについてトラヴィス先生と何度も話し合っていたのだ。その結果、あればもちろん、それほど喜ばしいものはないけれど、なくてもやれる、そう思えるようになっていた。
純粋な想いが作り上げていくものの大きさ強さ。エマはこの夏を通して、それを知ることができたのだと思った。自分が弾くのが二部目まででも、きっと聴いてくれる人にそれは伝わるだろう。未来へのゆるがない希望は、誰もの心を満たしてくれるだろうとそう感じるのだ。
教会ミサ曲「我らが天使」の第三部目。未だ形のないそれは、けれど確かに存在するのだ。今ここにないだけで、探し当てたい、決して諦めない、必ず読み解こう、そういう彼らの気持ちが、もうすでに次へとつながっている。それらはきっと未来への指標になるはずだとトラヴィス先生はエマたちを励ました。
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