第9話 親友は頭脳をフル回転させる
ひんやりとした研究室は、そこかしこに飾られたセレンティアの花の香りに満たされていて心地よく、夏の暑さをかいくぐってやってきたエマの体を優しく包み込むはずだった。それなのに今、彼女は熱い抱擁でギュウギュウと締め付けられていた。さらに、耳のすぐ横でグズグズと鼻を鳴らされるおまけ付きだ。
「落ち着こう。ねえ、ミッシェル」
「こ、これがぁ……おぢづ、いでい、られるどがぁ……あっ、あり、え……ないから!」
エマが、昨日の図書館でのことを話し終えた瞬間、雄叫びを上げたミッシェルに抱きつかれてもうすでに十数分。本人よりも感動しているのではないかと思われる様子に苦笑しつつ、エマはずっとそばで自分を見守り続けてくれていた親友の髪をそっと撫でた。
「よ、よがっ……た、よがった、よ……エマ」
「うん、ありがとう。いっぱい心配かけたね。でも、もう大丈夫だから」
「うん、うん」
ようやくソファーに座ったミッシェルに、エマは箱ごとティッシュペーパーを渡した。受け取ったミッシェルがあっちをふきふき、こっちをふきふき。一段落した頃合いを見て、エマは持参したケーキを取り出した。温度管理万全の、持ち運び専用ケースに入れられたガトーショコラ。
まさかここまではとは思わなかったけれど、きっとミッシェルは興奮してしまってエネルギー不足に陥るのではないかとエマは思ったのだ。そしてその予想は大当たりだった。泣き疲れた親友には、大好きなカカオが絶対不可欠だ。
大き目なことで有名なそのお店の一個を、ミッシェルはペロリと平らげた。おかげで涙も止まり、平常心を取り戻したようだ。けれどエマがほっとしたのも束の間、今度は満面の笑みを浮かべ、再び彼女ににじり寄った。
「これでもう、憂うことなく、ソリスト遂行ね!」
その話は確か先週終わったはずでは? と首をかしげるエマに、ミッシェルは微笑みを深めて言う。
「何を弾くつもりなのかな、エマちゃん?」
「え? あ〜、う〜ん、まだそこまでは……」
「だよね、だよねえ。これからだよね〜。迷うよね〜」
「なに、ミッシェル。なんか怖い」
「そう? 実はね、ちょっとお願いがあるというか……」
ジリジリと迫ってくるミッシェルの顔には「聞いて聞いて、早く聞いて」と書いてあるようだ。エマは頬を引きつらせつつ口を開く。
「お願い? それはなんでしょうか、室長。いつもお世話になってるから、私にできることな」
「できる! エマならできる!」
聞いてくれと迫っていたはずなのに、その問いを思いっきり遮った。ミッシェルは相当興奮しているようだ。呆気にとられるエマの前で、彼女は一人でうんうん頷いた後、ついには立ち上がる。腰に手を当て天を仰ぎ、見事な仁王立ちだ。熱のこもった演説が今にも始まらんばかりだ。エマは口を開けたままミッシェルを見上げた。
「エマ! ここは『セレンティア物語』よ! 『我らが天使よ』!」
「うん、そうね。セレンティアのお祭りだし。それならもう弾いたこともあるから、悪くない選択ね」
「違う! いや、そうだけど、でも違うのよ!」
鼻息荒く叫んだミッシェルは、ぼすんとエマの隣に腰を下ろした。
「前に話したでしょ。レーベンブロイにいる従兄。彼、客員研究員として先週からこっちへきてるの。これから数年、フロシオン図書館で勤務よ。それでね、この夏の地下資料整理にも参加してるんだけど、たくさん古い楽譜を見つけたって言うのよ。教会に寄贈されたものとか色々らしいんだけど……。それでピンときたわけ」
「ピンと? なにに?」
「『我らが天使』のオリジナルもあるんじゃないかって。一番古いやつ、最初に作られたものよ!」
セレンティア物語からインスピレーションを得た絵画や音楽、舞台などの芸術作品は多い。中でも音楽になっている数は圧倒的で、小物入れに付いたオルゴールや特別な日用のメロディーカードなどの簡単にアレンジされたものから、教会ミサ用の長く荘厳なものまでそれこそ星の数ほどあるのだ。ルカさんが弾いていた「我らが天使ー暁の約束」もその一つだ。
エマたちが出会った日、お父さんの楽譜はすでに後年のピアニスト用のアレンジだから、まだまだ他にもバージョンがあるだろうとルカさんが説明してくれたことをエマは思い出した。
「確かにね。でも、そんなに古いものが現存するかな?」
「するのよ。セシルがね、見つけたものはみんな古代フロシオン語のタイトルがついてるって興奮してたの。可能性は大だわ。エマ。ここはテオくんたちの出番ね!」
「?」
「探してもらいましょうよ。セシルもね、古代フロシオン語に詳しいんだけど、なんせ量が半端なくて。パートナーが必要だって言ってたの。だからエマの仲直りの話を聞いて嬉しくて! これはいい機会だと思ったわけ。テオくたちをセシルにも紹介出来るし、私たちも楽譜を得られるかもしれないし」
今やすっかり涙も乾いたミシェルはいつになく饒舌だった。これはバルデュールにとっても大きなイベントで、ソリストの演奏の成功はすなわちバルデュールの企画の成功でもあるわけだから、力が入って当然だろうとエマは思ったけれど、ミッシェルにとってはそんなことはどうでもいいことだった。何よりも大切なのはエマの晴れ舞台をいかに盛り上げられるかで、自分たちがそこに加われることが、たまらない刺激となっていたのだ。ミッシェルにはこのアイデアが、もはや天啓としか思えなかった。
「多分、このままだと次の作業に移っちゃうよね。だから今、楽譜をキープするのよ。図書館の仕事とは別枠だから、そこはセシルに上手くねじ込んでもらって、テオくんたちには時間外だけど頑張ってもらって……大作戦の始まりね! ああ〜、私、なんかものすごくワクワクしてきちゃった。セシルにすぐ連絡しなくちゃね。ちょっと行ってくるわ。エマはお茶でも飲んで待ってて!」
そう言い残すとミッシェルは勢いよく飛び出していった。一人の部屋で、エマはカラカラとグラスの中の氷をかき回しながら苦笑する。テオとの仲直りをほっこり喜び合うどころか、テオを巻き込んでの一大プロジェクトを間髪入れず発進! そんなこと誰が想像しただろう。ミッシェルは、相変わらず斜め上方向へ絶好調のようだ。誰に見せるわけでもないけれど、一人目を丸くして肩をすぼめれば、セレンティアの花たちがクスクス笑っているような気がした。エマは思わず花たちに囁いた。
「本当、すごいよね。ミッシェルの熱量にはいつだって驚かされるわ。あなたたちもそう思うでしょ?」
でも、そんなミッシェルだからこそ、エマは自分自身を取り戻せたのだ。未来を思い描くことができた。そして今、それはさらなる希望を持って動き始めた。また一つ自分たちにとっての絆が、誇れるものができるのではないかという予感がエマの中に沸きおこった。ミッシェルがいてくれてよかったと、エマは心からそう思った。
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