第7話 幼馴染たちは想いを伝えあう 1
ピアノの椅子に座ったまま、エマは暮れ行く窓の外を見ていた。薄墨を流したような空を背景に、ぽつぽつとつき始めた街灯が浮かび上がる。小さな頃、テオとその風景をよく見たことを思い出せば、エマの顔に優しい微笑みが広がった。
少し前までのエマは、テオとのことになると止めどなく涙をあふれさせた。もう二度と、あんな幸せな時間は手にすることができないだろうと思ったからだ。けれど、トラヴィス先生に打ち明け励まされて以来、少しずつ変わっていった。運命なるものと向き合ってみようという気持ちの芽生えは、遠い日の記憶から涙を遠ざけた。あの日があるから今日があるのだと、そう思えるエマが生まれたのだ。
そんな中での大役。もっと上手な生徒さんたちもいるはずだと、最初こそ尻込みしていたけれど、先生との話を思い返せば思い返すほど、そこにはメッセージが託されているような気がした。これは逃してはいけないチャンスなのだとエマは思った。今引き寄せなければきっと後悔するだろう。何もしないまま、時だけが流れていく虚しさ。あの夏の日のような思いはもうごめんだった。
視線をドレッサーへと移したエマは、鏡の中の自分にそっと問いかける。
(エマ、何がしたいの? 何を求めているの? それを掴み取れるのはあなただけよ)
自分を見つめる真摯な瞳に笑いかけ、エマはゆっくりと立ち上がった。クローゼットを開いて白い帽子箱を取り出す。そこには、枯れてしまったセレンティアの花冠があった。
それを手元に置くことは、許されない罪を犯した自分への戒めだと感じていた。けれど一方で、それはテオとのか細い繋がりでもあった。どんなに悲しく辛くても、手放すことなど到底できなかったのだ。
エマは蓋をあけるとそっと花冠を取り出した。その途端、不思議な感慨に包まれた。久しぶりにまじまじと見たそれは、枯れ果ててもなお、その深い黄色は損なっていなかった。
「ああっ……」
大切な何かがとどまり続けているのだと感じずにはいられなかった。エマは大きく頷いた。
一歩踏み出そう。もう一度輝きを取り戻そう。その時が来たのだ。テオに自分の気持ちを伝えにいこうとエマは思った。どんなに怖くてもきちんと向き合って、本当の気持ちを届けなければいけない。一人でしっかりと歩き出すためにも、そうすべきなのだ。
テオを傷つけた罰は、彼の気がすむまで受けるつもりだった。いや、それ以前に許されないかもしれない。もし、面と向かって拒絶されれば、きっとその悲しみは計り知れないだろうけれど、もう逃げてばかりではダメなのだとエマは覚悟を決めた。
ミッシェルの励ましが、トラヴィス先生の後押しが、エマに勇気を与えてくれた。結果が何であろうとも、知るべきなのだとエマは思えるようになった。テオに出会い、テオに恋をして、テオの抱えるものを少しでも知ってしまった自分は、この流れに関わっていいはずだ。そこで何が起きるのか、何を選ぶのか、自分で決めるべきなのだ。
たとえもう、テオの心のまん中にいられなくても、彼を支えてあげたいとエマは思った。それはクロエの代わりでもいいと思った日とは違う。エマはエマとして、テオに接したいと心から望んだのだ。
「私、テオに会いたい。会いたいの!」
エマはしっかりと思いを口にした。その瞳には、テオを振り回した頃の快活なエマらしさが戻っていた。言葉にして、声にして、もう迷いはなかった。たとえはねつけられ、砕けてしまったとしても、自分の心を偽るよりずっといい。運命なるものが自分を選んでくれなかったとしても、その中に飛び込んでいったか否かは、この先の自分に大きく影響するだろう、そう感じた。
夏休み第三週目、エマは図書館に出かけた。胸にスタッフカードを下げた人たちが忙しそうに立ち働き、いつもより活気にあふれた図書館。力仕事が多いせいか、運搬係には男子生徒たちが目立った。地下から上がってくるワゴンには資料が山積みにされ、引かれたり押されたりしながら重要資料閲覧室へと向かっていた。
エマは邪魔にならないように、そんな様子をしばらく脇で見ていたけれど、その日、その中にテオの姿を見つけることはできなかった。続けて数日足を運んだけれど、やっぱりダメだった。これだけの大人数、働く場所も地下が主。会える方が不思議なのかもしれないと思いつつも、やはり落胆は隠せない。
ため息とともに、寄りかかっていた書棚からエマは適当に本を取り出した。分厚い本はただめくるにはちょうどいい。エマはその本を持って、地下への階段が見えるテーブルに移動した。
ページをめくる指、けれどエマの目は本を見てはいない。頭の中にはテオとでかけた日々が蘇り、映画のように流れ続けていた。
ふと、誰かが真横から向かってくる気配にエマは気がついた。読書中を装って、おかしくないようにと伏せられた視界にその人が映ることはない。けれど少し視線をずらせば、よく磨き上げられた床には、後ろからのライトもあって、濃くなってくる人影が映っている。
エマの心臓が音を立てて震え始めた。何一つ確かなことはないのにわかる、わかるのだ。エマは床を見ていることができなくなって視線を戻し、じっと手元を見つめた。ページをめくる手は止まったまま、呼吸だけに集中する。
やがてテーブルの脇に、グレーの濃淡のスニーカーが見えた。その人はエマの隣りに立っている。それでもエマは顔を上げることができなかった。息をすることさえままならないような気がした。その人はエマの椅子の後ろを回り、右隣に腰掛けるとそっと彼女の顔を覗き込んだ。
「こんなところでなにしてんの、エマ。ずいぶん難しい本を読んでるね。月の秘密かあ。エマ、宇宙に興味があるの?」
何もかもが花祭りの日と同じだった。まるでさっきまで話していたのをちょっと中断したあと、再び始まった会話のようだ。ただ、なんのこわばりも含みもない声は、エマが知っているよりも幾分低くなっている。
エマはゆっくりと顔を上げた。あの日よりもずっと精悍になって、大人びた顔をしたテオがそこにいた。けれど優しいその微笑みは変わらないままのテオがいた。
エマの頭の中は真っ白になった。あんなに色々考えてきたというのに、なんと切り出していいのかわからなくなった。ただただ小さな子どものように、無性にテオに抱きつきたくて、その衝動を抑えるのに必死だった。ようやくまともに息ができるようになり、そうだ、テオに謝らなければ、エマがそう思ったとき、テオが静かな声で言った。
「エマ、なにも言わなくていい。聞いて。俺ね、ずっと話しかけたかった。会いたかった。こうやってエマの顔が見たかったんだよ」
エマは息をのんだ。そんなことを言ってもらえるなんて思いもしなかったからだ。許さない、顔も見たくないと言われたっておかしくないと思っていたのに、それなのに……。
ありとあらゆる気持ちが一斉に吹き出して、用意してきた言葉は四方八方に撒き散らかされていく。エマはたまらなくなってテオの腕をぎゅっと掴んだ。途端、堰を切ったように涙があふれ出し、エマの頬を濡らしていく。
ようやく小さな声で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返せば、テオはエマの唇にそっと指を当てて静かに首を振った。
「いいんだ、今エマがここにいてくれるなら、それでいいんだ」
耳元で紡がれる言葉にエマは安堵の息を吐き出した。掴んでいた手を緩めれば、その手をテオがそっと握った。遠ざかっていた温かさがエマの中を駆け巡る。エマはぎゅうと握り返した。しばらくの間、二人はなにも言わず、ただ互いの温もりを感じあった。
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