#3 祝え、呪え Ⅱ

 目を逸らしてきた疑問ほど、あっという間に膨らんでいく。まるで雲影みたいだ。


 新聞記事の話をしたあと、フィーリクスはアルマスに会いに行った。ほどなくして玄関で物音がする。フィーリクスは首を横に振って「ただいま」と呟いた。曰く、玄関先で追い返されてしまったとのことだ。明日までに記事を仕上げなきゃならないから、と頼み込まれ、フィーリクスは何も言えなかったらしい。彼は手に持ったビール瓶を空にした。

 ベッドの中で、酒臭い吐息に乗せて彼は言った。

『アルマスの部屋は、必ず調べなくちゃならない。呪術の痕跡も、準備の欠片も出てこないことを確認するんだ』

 フィーリクスは、「アルマスは悪いことをする奴じゃない」と寝息に溶け込ませる。それが頭をぐるぐる巡って、おかげで私はほとんど眠れなかった。

 アルマスは悪いことなんてしない。今もそう信じている。困っている人を放っておけず、いつだってみんなのために行動する。人が泣けば自分は我慢し、人が笑えば喜ぶ。それが私の知る弟だ。

 弟はきっと、なんにも変わっていない。この前不気味に笑ったのは、単に機嫌が悪いのを隠そうとしたか、そうじゃなければ私の思い違いなのだ。

 だから、確認する必要がある。

 弟は何もしていない。「事件に関わっているかもしれない」なんて憶測は、私の単なる妄想だ。けれど、いくら信じているからといって、手放しでアルマスを擁護するのは無責任極まりない。

 フィーリクスの言うように、アルマスが何もやっていない証拠を見つけ出さなくてはならない。私なりのやり方で、アルマスに恩返しをするのだ――たった一人の家族として、命を救われた者として。

 水曜日の今日、アルマスは仕事のはずだ。私は職場で無理を言って一日の休みをもらった。推測が正しければ、件の記事はアルマスが書いているはずだ。それに未解決の事件。まだ調査を続けていてもおかしくない。

「ヴァルコイネンさんでしたら、レトンニエミの森の方へ調査に行きましたよ。出たばかりなのでしばらく戻ってこないかと」

 アルマスの職場の新聞社で、通りすがった男性が教えてくれた。当たりだ。レトンニエミの森は失踪事件の現場とされている。

 車を走らせ、唯一の道を辿っていく。案の定、森の入口あたりにアルマスがいた。テントを出入りして、何かを調べているようだ。

 私は息をひそめて近づく。アルマスは夢中になって紙を覗き込んでいたが――私が枝を踏んだ音で飛び上がった。

「姉さん? どうしてここへ」

「アルマスに尋ねたいことがあって」

 探るような沈黙だ。目を合わせて数秒、アルマスが先に視線を逸らす。テントの紐をほどいている警官の方へ向いた。

「構わないけれど、一応今は仕事中なんだ。作業しながら用件を聞くよ」

 地面に置かれた印を辿って、アルマスと警官はテントを移動する。珍しく魔法は使わない。

「分かっていると思うけれど、ここで魔法は使わないでよ。姉さんの使った魔法の固有波長を差し引く計算をするなんて、僕は嫌だからね」

 二人は目くばせをする。お互い頷き合って、警官の彼が「アルマスのご家族なので、特別に許可します」と付け加えた。

 促されるまま入ったテントの中は仄暗い。入口が閉められると、灯りは中央の魔石だけになった。

「難しそうな機械ね」

「アルマスのお姉さん。これは魔法犯罪ですから、痕跡探しは困難を極めます。そのままでは人の目に見えないのが、魔法の厄介なところです」

 調査内容はどうかご内密に、と、彼は説明を閉じた。アルマスは口を挟んでこない。こちらを見つめてくるだけだ。ほどなくして、二人は作業に戻る。

 限りなく球に近い形の魔石は、薄緑とも薄青ともつかない光を放っていた。魔石のあたりでアルマスが機械をいじると、奥に設置された平らな壁に無数の点が映し出される。等間隔に並んだ点は虹のように輝いていた。二人は少し安堵した様子だ。

「先輩。魔石の発する光のスペクトラムを見るに……連続スペクトラムがどうしても重なるから見づらいけれど、さっきの場所よりも青側の輝線が強く出ているみたい。魔法の行使地点に近づいたと考えていいんじゃないかな?」

「やっとか。テントを抱えて森の中を駆けずり回るのはもう御免だよなあ」

「うん。思ったよりも減衰曲線がなだらかだったね。やっと中心位置を推定できそう」

 喜んだのもつかの間、二人の表情はすぐに暗くなる。アルマスと警官の彼が喋りはじめたのは、私が知りたかったことの一端だ。

「今まで観測されたデータと照らし合わせても、輝線の位置に違いはないだろうか? アルマスはどう思う」

 警官に問いかけられて、アルマスは長く息を漏らす。

「たぶん同一の術法によるものだよね。先輩も、この輝線の出方には心当たりあるんじゃない?」

 先輩と呼ばれた警官は、腕を組んで黙った。唸り、目を伏せ、最後に口を開いた。

「カレヴァの軍用魔術、だな。アルマスの見解も同じだろう?」

「僕もそう思うよ」

「となると、犯人もだいぶ絞り込め――」

 探りを入れるなら今しかない。

「呪いとは全然違うってことかしら。噂では呪いで殺されているって聞いたのだけれど」

 アルマスは一瞬眉を顰める。しかしそれ以上の反応は見せずに返事をした。

「姉さんは何を言っているの? 呪術だって魔術の一部なんだ、痕跡は残るよ。今回の調査で言うならば、輝線の出る色が少し違うだけ。呪術とそれ以外の魔術の違いは、それくらいの差でしかない」

「でも昔、アルマスが言っていたじゃない。痕跡が残らないのが呪術の特徴だって」

「後にも先にも言ったことがないと思うけれど。呪術の痕跡は残るよ」

 アルマスは腕を組んで眉根を寄せる。「先輩」と呼んで、警官の彼に助けを求めた。

「お姉さん、アルマスの言っていることは正しいのです。実際にアルマスや、カレヴァ式の呪術を用いるご老人に頼んで実験しました。呪術特有の輝線が観測されることは確かなのです」

「それは、呪術の痕跡が残ったということかしら」

 勿論です、と警官の彼は胸を張る。アルマスは呪術の性質を隠したままでいる気らしい。

「昔は全く別のことを言っていたのにね。呪術は痕跡が残らず、呪術を使った人の魔力に強く反応する『場』が残るだけだって。その『場』がどこにあるのか、探す方法も教えてくれたじゃない」

 アルマスは短く息を吐いた。あからさまに苛ついた様子だ。

「そういう話をしていたのは、確か僕が六歳くらいの……幼い頃の話だよね。今のリリャよりも小さかった頃だ」

「そうよ。でもアルマスは賢くて、父さんが大して読めもしなかった本を、片っ端から読んでいたじゃない。呪術も魔法も、私に教えてくれたのはアルマスよ」

「馬鹿げている。幼い子どもの言葉を鵜吞みにするなんて」

 アルマスは一蹴した。隣にいる警官の彼も呆れ顔だ。仕方がない。アルマスは譲るわけにはいかないだろうし、警官の彼にとっては、訳の分からない文句を延々と並べ立てているようにしか見えないのだから。

「馬鹿げているかもしれないわね。けれど、昔からアルマスは自慢の弟なの。私にとっては、おとぎ話に出てくる伝説の魔術師みたいな存在なの」

 そのとき、アルマスは意外そうに目を見開いた。いつもの癖で額に手を持っていって、すぐにそれを隠そうと頭を振る。

「――僕を疑っているの?」

「犯人だとは思っていないわ。新聞記事の内容に疑問があるだけ。アルマスの言うことが嘘なんかじゃないと調べたいだけなの」

「それで、どうするつもりなの?」

 アルマスは挑発的に問いかけた。私のやることはここに来る前から決まっている。アルマスが呪術について何か隠し事をしていないか、それを確かめられればいいのだ。

「昔に教えてくれた方法を試すの。それで『場』が見つからなければ、アルマスが呪術を使っていないと分かれば、私は納得するわ」

「……そう」

 呟くと、アルマスは背を向ける。

「じゃあ、姉さんの思うように調べてみてよ」

 一歩、一歩と進んでいく。後ろをついて歩いていくと、木々がまばらになり景色が開けた。アルマスは立ち止る。

 弟は振り返り、薄く笑った。

「ここは二人の犠牲者が最後に目撃された場所だ。トナカイを呼び戻しに来た男性が、森に入りそうもない出で立ちの男女を見かけたらしい。ここで魔法が使われ、被害者は森に入っていったと思われる」

 見たこともないくらいに嬉しそうな顔だ。弟の瞳は人間離れした青色に光っていた。思わず息を吞んでしまうくらいに、美しくて恐ろしい。

「姉さんの言うことが真実なら、僕の魔力に反応する『場』とやらがあるはずだ。確かめてみなよ」

 アルマスは警官の彼を呼び寄せて耳打ちする。鞄の中にあった硝子の小瓶を受け取ると、私を呼び寄せた。理解が追い付かないまま瓶を持たされる。

「僕の魔力を含んだものが必要なんでしょう? これを使うといいよ」

「待ってアルマス――」

 意図に気づいて叫ぶがもう遅い。アルマスはポケットナイフで自分の左腕を切りつけた。途端に、甘い魔力の香りと血の匂いが広がる。

 奇妙な光沢を持つ、金赤の血。それが弟の白い肌から滲み出し、瓶に注がれる。小瓶の半分を満たすころ、流れだす血の量が減り――徐に傷口が閉じた。

 何も言えないまま、私はその様子を眺めていた。手に持たされた生温かい瓶をどうすることもできない。内臓が冷える感覚だけが時間の経過を物語るようだった。

「姉さん、これ使いなよ」

 微笑むアルマスに顔を覗き込まれ、ようやく震えが止まる。弟は瓶のふたを閉め、その上にハンカチを被せる。

「……遠慮なく、使わせてもらうわ」

 アルマスは満足げに頷く。「今日は先に帰らせてもらうよ」と警官に伝えると、道を引き返して姿を消した。

「お姉さん……どうされるおつもりですか」

 警官の彼は心配そうに話しかけてくる。捜査を邪魔されたのに怒らないでいてくれるらしい。

「魔法を使ったりしないから安心してくださいな。昔教わったやり方を試すだけです」

 遥か昔の記憶を呼び起こし、古い詩を思い出す。あのときアルマスが楽しそうに口遊んでいたのは――

「言葉は彼の口から零れ、詩歌は波と押し寄せる。さあ共に手を取り合おう、再び詩歌を語り合おう」

 瓶を傾け、アルマスの血を一滴、二滴。大地に落とす。呪術は自然の中に渦巻く魔素を借り受ける術だ。自然は過去にやり取りをした者を憶える。正しく歌で呼び出せば、親しみを込めてまた応えてくれるという。

「――反応しないわ。ここでは呪術が使われていない」

 地面に零れた血は微動だにせず、あの日見た光の帯は立ち登らない。

「あの」

 痺れを切らしたのだろう。警官の彼は私を向き直らせた。

「何故そんなにアルマスを疑うのですか。ドラゴンになったとて、アルマスは優れた研究者でありよき友です。彼はずっと変わっていない」

「私にとっても、ずっとかわいい弟よ。ドラゴンは怖いけれど、アルマスは私たちを襲ったりしないと信じている」

「ならば……」

 警官の彼は、私の目を見据えて言う。

「ならば、道端であんな風に責めないでやってください。アルマスが可哀想です」

 その言葉は心に刺さる。フィーリクスも、リリャも、配達員の彼も――警官の彼も。皆アルマスを庇う。弟はそれだけ街の皆に慕われているのだ。もちろん私も、アルマスを心から愛している。

 だからこそ、私は悪役にならなければならない。

「姉弟のことよ。あなたに口出しされたくないわ。私はアルマスが何もしていないと証明できればいいの」

「分かりました、ならお姉さんには先んじて伝えておきましょう」

 警官の彼は大きく溜息を吐く。そして、彼は森の奥を指さした。

「あちらの方で、行方不明者の持ち物が見つかっています。二日も経てば、この辺りは普段通り散策できるようになりますから、その頃にまた調べにきてください」

 彼は地図を見せ、沢に沿って続く小道を示す。それから私を車まで送り届けると、軽く敬礼して踵を返した。

「意外と親切なのね」

「アルマスはお姉さんのことをとても大切にしています。俺としても、後輩が報われないのは辛いのです」

 寂しげに震える声に、私は寄り添えない。いま悩む弟に寄り添ってしまっては、起こるかもしれない災厄を防げない。そんなのは駄目だ。竜災は私が食い止める。

 走り出した並木道は、行きで通った時よりも寒い色をしていた。憂鬱になりそうだが――どんなに暗くとも、曇り空で済めばいい。


 曇天は、嵐よりも遥かに穏やかなのだ。

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