#3 相反 Ⅳ

 あたしは、前にもあの完璧な笑顔を見たことがある。

 エイナル・ルンドベリーから助けてくれた時、ショッピングモールで堕ちた時。そして――学校でいじめられた後。何かを抑圧するみたいに、整った笑顔を浮かべる。理想形みたいな綺麗な笑い方をする。いつもは、くしゃみでもするみたいに顔を隠して笑うのに。

「エイナルさん、一緒に運動場まで来てもらえますか?」

 正面でロランが微笑む。あたしは泣きたくて仕方がなかった。また、あたしのせいでロランが苦しむ。あたしが無力だから、ロランに迷惑ばかりかけている。

「シェリル、邪魔だ」

 エイナルは急にあたしを突き飛ばした。打った膝が痛いけど、それよりも、ロランが更に優しく笑ったことが気になる。

「ロラン! お願いだから落ち着いて! 今回はあたしが何とかす――」

「シェリルは何も気にしなくていいよ。全て僕の行いが悪いせいだから」

 駄目だ。全然こっちを見ない。言葉が届かない。

 エイナルは危機感を覚えたのか、警棒を取り出した。それを見たロランは、少しずつエイナルに近づいていく。

「エイナルさん、場所を変えて話し合いましょうよ」

「あ? やんのか? 言っとくが、俺はドラゴンを殺す許可を得てんだ。調子こいてると殺すぞ」

 エイナルの目は本気。二人の間に割って入れる気がしない。あたしが仲裁してロランを助けなきゃいけないのに、怖くて何も言えない。

「竜殺しの一族は有名ですからね。それは承知していますよ。ですが、それは今の状況と関係ありますか?」

「何余裕かましてんだ、なめてんじゃねえぞ! ――魔力の嵐よ!」

 エイナルが警棒を振り上げ、短く詠唱する。先端に集束した魔素が圧を受けて輝き、急激に膨張した。エイナルが狙っているのはロラン。でもこのままじゃ、ジェイとクロエも巻き添えを食らう。

「危ない!」

 その時、ロランが静かに告げた。

「大丈夫だよ、シェリル」

 瞬間。鉄の香りと、甘く爽やかな香りが広がった。匂いが強すぎて息が詰まる。それと同時にロランの周りが激しく光って、何も見えなくなった。

「……てめえ、何をした!!」

「勘に任せるのは好きではないのですが、感じたんですよ。こうすれば防げると」

 眩んだ目が慣れてきて、やっと視界が戻ってくる。ロランはエイナルに向かって、ひらひらと手を振っていた。そして口元には血。手首からは、青紫色に燃えながら血が滴り落ちていく。

「噛みちぎったってこと……?」

 あたしの呟きに、ロランが反応する。

「はい。刃物があればよかったのですが、ないので仕方なく」

 駄目、そんなの駄目。

「そういう問題じゃないの! 二人を助けてくれたのは本当に嬉しいけど、駄目だよ……! 結果、ロランが怪我してる。お願い、もうやめようよ!」

 あたしがエイナルを止められればそれで済んだのに。そうすればロランは怪我しなくて済んだのに。怖くて何もできなかった自分がサイコーに嫌い。

「怪我はしてるけど、これが一番合理的だ。シェリルは心配しなくていいよ」

「でも……!」

 考え方によっては合理的かもしれない。ロランはドラゴンだし、怪我はすぐに治る。あたしたちが巻き込まれて負傷するよりもずっとリスクは低い。

 けど嫌だ。そんなの合理的でも何でもない。

 運が悪かったけど、エイナルにつけ込まれたのはあたしのせい。あたしが撃退できればよかった。ロランが堕ちたことを暴露するって言われて、冷静さを欠いたあたしが悪い。全部あたしが招いたこと。なのにロランは自分を犠牲にして、また守ってくれようとしている。自分が悪いと思っている。

「でも駄目! ロランが戦う必要はない。みんな、あたしがやるべきことなの!」

 途端に、ロランが笑顔を崩した。

「シェリル。じゃあ僕は、好きな人のことを黙って見ていなきゃいけなかったのかな」

 ロランの青紫の瞳が、鮮やかに輝く。そんなものを見せられたら、言葉なんて出ない。なんて言ったらいいのか分からなくなる。

 ――あたし馬鹿すぎ。今回は譲っちゃ駄目なのに、なんでロランに委ねてようとしているの。そんなことをしたら、ロランがもっと苦しむだけなのに。

 結局あたしは、ロランの視線を繋ぎ留められなかった。ロランはエイナルを真っすぐ見据えて、目元を綻ばせる。

「思い出しました、エイナルさん。僕――理不尽なことが大嫌いなんですよ」

「は? だから何だってんだよ。クソ出しゃばりが」

 エイナルは口では強がっているけど、守りの姿勢を取っている。それくらいロランは怖い。あたしも、止めなきゃいけないのに、身体はまるで動かない。

 エイナルが一歩、足を引いた。それを見てロランはにっこりと笑う。

「僕は、エイナルさんを再起不能な状態にしようと思います」

 最後まで聞かず、エイナルは階下に飛び降りる。そのまま走って建物を出た。ロランも静かに階段を下りていく。

「ロラン待って!」

 あたしはロランの腕を強く引いた。けれど止まってくれない。

 耐えろ、シェリル・キングストン。ロランを助けられるのはあたししかいないの。あたしがロランを守らなきゃいけないの。かつて自分を犠牲にしてまで守ってくれたロランを、もう二度と苦しませちゃいけない。

「どんな理由があっても、行っちゃ駄目。今回はあたしが何とかする。これはあたしの問題だから。ロランは手を出さないで」

「シェリルの問題だとしても、どうするかは僕が決める」

「勝手なことしないで! やらなくていいって言ってるの!」

 ロランが足を止めた。そして、あたしの手を振りほどく。今まで何度も手を払われることはあったけど、その中で一番強かった。

「そう。けれど僕だって――」

 何か言いかけて、「いや、いい」と言葉を区切る。ロランはエイナルを追いかけて走っていった。

 ――行ってしまった。

 涙が止まらない。こんなところで泣いている場合じゃないのに、もうどうしたらいいか分からない。

「ばか……ロランのばか!」

 するとジェイが背後で呟いた。

「シェリル。俺には、今のお前が傲慢に見える」

 ありえない。何で今そういうことを言うの?

「ジェイ、それはあたしがロランと別れるべきってこと?」

 八つ当たりでジェイを殴りそうになる自分を、何とか抑える。ジェイはしばらく黙っていたけど、ゆっくり語りだした。

「違う。前は、何でハーグナウアーなんかがって思ってた。でも今は、シェリルとハーグナウアーで幸せになってほしい。昨日気づかされた。そうあるべきなんだ。お互いを想い合って支え合うのはお前らにしかできない。ただ、今のままシェリルが押し切るのは絶対に駄目だ。お互いもっと話せ。すれ違いっぱなしになってんだよ!」

 ムカつく。皆勝手なことばっかり。あたしの気持ちは重要じゃないって言いたいの?

「分かったようなこと言わないでよ! 何にも知らないくせに!」

「何も知らないわけじゃない! 俺はあいつと関わって一日と経ってねえよ。でも、ハーグナウアーがシェリルの幸せを願っていることくらいは知ってる!」

 そんなこと、ロランに一度も言われたことない。

 幸せを願っているなら、何でロランはあたしから離れようとするんだろう。そんなことは頼んでいない。

「じゃあ何でロランはあんなことするの!?」

「それは……」

 ジェイが言い淀む。けれどそこへ、すかさずクロエが入ってきた。

「シェリル、もうやめて。ジェイが困ってる。それに今は言い争ってる場合じゃない。二人ともきっちり覚えてるでしょ? ディー氏がキレると、どうなるのか」

 クロエの鋭い声は初めて聞いた。少しだけ心臓が落ち着いてくる。でも納得はいかない。

「ヤバいのは分かってる。でも、ロランが勝手にやったことだし、あたしはこんなの望んでない!」

 クロエはあたしを自分の方へ引っ張って、ハグしてきた。しょうがないからあたしもクロエを抱きしめる。

「でもシェリルはディー氏に助けられた。これは事実。それにきっと、ディー氏もシェリルに庇ってもらいたいなんて望んでないと思うよ」

「そうかもしれないけど……」

「けど、やらなきゃいけないって思ったんでしょ? 考えてることはディー氏もシェリルも一緒だよ」

 一緒、だといいな。

 クロエに頭を撫でられて、やっと心の靄が晴れた。言われた通り、最初からあたしとロランの関係なんて、そんなもんだったのかもしれない。最初から、お互い好き勝手やってきた。

「わかった。ロランが周りに被害を出さないように、あたしはやれることをやる。いつも通り、あたしが勝手にやればいいの」

「さすがは学園女王」

「でしょ? ありがと、クロエ」

 クロエとお決まりのハイタッチをして、頭を切り替える。

 あたしが今やれることは一つ。ロランを魔道具のピアスで気絶させること。あたしが魔力を注げば、それでロランは戦闘不能になる。でもそのためには一つ問題がある。エイナルだ。

「クロエ、ジェイ。作戦会議するよ。あたしは、このピアスでロランを――」


「――その必要はないぞ」

 響いたのは、少し高めの男性の声……というか聞き覚えがある。案の定、振り返ると階段に腰掛ける人影があった。黒革のパーカーを着てフードを目深に被った彼は、立ち上がって接近してくる。ペンで雑に塗りつぶしたみたいなノイズが顔にかかっていて、超不気味。けれど確実に彼だ。

 彼はアルマス・ヴァルコイネン。世界中から『邪悪なドラゴン』と畏れられる人。ただちょっと肩書が一人歩きしている感じはする。

「アルマス、何で学校にいるの?」

 すると黒づくめの不審者は、フード越しに自分の耳を指で軽く叩いた。

「ピアス。彼氏を気絶させるためだけの道具だと思っていたのか?」

「ああはいはい。何か仕込んでたんだ」

 何だかムカつくので、隣に立ったアルマスのフードを降ろしてやるべく引っ張る。けれどアルマスは手強くて、必死にフードを押さえて踏ん張っている。

「もちろん……ロラン君の体内魔力の状態と、位置情報。すべて俺が把握できるようになっている……っ!」

「キモ。プライバシーの侵害。最悪だからフード外して顔晒せよ」

「断る。やめてくれよ、あぁ……ごめんなさいってば! それに、位置情報を確認するのは、警報が鳴ったときだけだって! もう離してよ!」

 言い訳がましい。来てくれたのは有り難いけど、なんか複雑。とはいえ、ずっとじゃれている暇はない。

「で、何しに来たの、お爺ちゃん」

 あたしが手を離すと、アルマスはフードの形を整えてから答えた。

「お爺ちゃんは様子見に来たんだよ」

「何で?」

「理由は特にない」

「あっそ」

 やっぱりなんか怪しい。でも、何であれアルマスを頼った方が確実だ。それに、ジェイやクロエに危険が及ばないに越したことはない。

「まあいいや。アルマス、運動場まで一緒に来て。で、喧嘩を止めてきて」

「了解。じゃあ運動場とやらに案内してもらおうか」

 アルマスを連れて運動場に向かうと、そこでは青紫の小爆発が断続的に起きていた。異変に気付いた野次馬が徐々に増えてきている。そのうち通報されるんだろう。

 エイナルは、ロランの繰り出す魔法を回避することに専念しているみたいだった。けれど徐々に運動場の中心へと誘導されている。明らかにロランの方が優勢だ。

「これはまた、随分必死の様相で」

 光景を見て、アルマスは溜息を吐いた。

「あいつはロランの逆鱗に触れるの二回目だし、本当にヤバいっていう自覚はあるんじゃない?」

「全く懲りていないがな」

「ん? どういうこと?」

 アルマスの相槌は微妙に文脈が繋がらない。あたしが聞き返すと、首を横に振って流した。

「それはいいとして、実際、あれは止める必要あるのか?」

 アルマスのこういうところ、本当に面倒くさい。でも、当然の反応と言えばそれまでだ。

「あの二人の喧嘩は特殊なの。できれば竜災対策軍が出てくる前に止めた方がいい」

「だが軍が介入する方が、社会のシステムとして健全だ」

 そう返すアルマスの声は、どこか挑発的。あたしがどう答えるのかを待っているみたい。

「どっちかが怪我しようものなら、その度に派閥同士のトラブルになるの。片や竜災対策軍のジェネラルを任されているルンドベリー家」

 あたしがエイナルを指さすと、アルマスは鼻を鳴らした。あたしが次にロランを指すと、今度は腕組みをしてそっちを見る。

「片や国際古代魔法学会で代々重要職を務めてきたハーグナウアー家。本人たちの親は穏便に済ませようとしたのに大騒ぎになった。あたしも巻き込まれかけたし、もうあんなのはうんざり」

 一通りあたしの説明を聞き終えたアルマスは、こっちへ振り返って意地悪なことを言う。

「そりゃあお気の毒に。だがその程度のことで俺が出張ると思っているのか?」

「もちろん。必ずロランを助けてくれると思ってるよ。理由は特にない、けどね」

 これくらいのお返しは許されるはず。理由はちゃんとあるけど、あたしの質問をテキトーにあしらったんだから、あたしも教えてやらない。

 ちょっと感じ悪いけど、アルマスは小さく頷いた。そして肩慣らしをはじめる。

 交渉成立、かな。

「よし、パッと行ってパッと仲裁してくるか。ロラン君がにとどめを刺す前にな」

 アルマスは、軽く伸びをして歩き出す。

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