八章 高瀬祥子
六月十一日、あり。
六月十五日、あり。
省略
七月十八日、なし。
以降、記述なし。
和泉君と別れ、家に帰ってから私は直ぐに日記帳をめくった。
そして、ある事を調べメモを取る。
そんな筈はないと思いながら。
そんな事はあり得ないと信じながら。
だって、そうじゃないとおかしい。
日記って、その日あった出来事を書き残すための物だから。
そう信じて記したメモは、そうじゃないことを示していた。
私の日記の夏の中に高瀬祥子の名前はなかった。
正確には、夏休みに入ってからの日記には一切、高瀬祥子、高瀬さん、祥子ちゃんなんて言葉は書かれていなかった。
私の夏にはじめから彼女など存在しなかったように。
和泉君に言われるまで意識すらできなかった事実。
それほど知らない、友達の友達、高瀬祥子、あの事件を起こした犯人。
まるで、あの呼び方を避けるように、私が幾重にも張り巡らした予防線。
一度鍵が開いてしまえばそんなものにどれほどの意味があるのだろう?
高瀬祥子、和泉君がS子と呼んでいた彼女を、私は祥ちゃんと呼んでいた。
文ちゃんとお揃いのおさげの少女。
祥ちゃんの最初の印象は大人しい子だった。
はじめて絡んだのはそう、六月十一日、あの日記の日。
図書館で受付をしていた祥ちゃんは、一緒に読もう、と言う私の誘いに驚いた顔をしていた。
教室では文ちゃん以外と話しているのを見た事がない祥ちゃんは、打ち解けると面白い子だった。
新しい物が好きで、普段からは想像できないくらいチャレンジャーで、物知りで、文ちゃんが大好き。
高瀬祥子はそんな子だった。
私たちが仲良くなるのにそんなに時間は必要なかった。
私と和泉君、文ちゃんと祥ちゃん。
あの夏、私たち四人はいつも一緒に行動していた。
いつものファミレス。
私と祥ちゃんは隣に座って、一緒にメニューをめくる。
私たちが探していたのはまだ食べたことのない味だった。
刺激を求めていた。
和泉君の言ったとおり、私と祥ちゃんは二人だけでもよく出かけた。
灼熱の夏の中、自転車を走らせて、まだ見た事の無い道を探していた。
例えばあの日は、近所の人しか知らなそうな小さな古本屋を見付けて、そこで表紙の少し色あせた古い小説を二人で買って、小さな公園の大きな木の下にある古いベンチに並んで座ってそれを読んだ。
祥ちゃんと二人で出かけると、よくある夏休みの一日はかけがえのない思い出に変わる。
「何年経っても、こんな日の事は忘れないだろうな」
あの日、私はそう思った。
そう思ったのに、私は十年間忘れていた。
私はなんで、日記から高瀬祥子を消したのか?
理由は明白で、思い出したく無かったから、ただそれだけだった。
「何年経っても、こんな日の事は忘れないだろうな……だから、忘れなきゃ」
そうした方が都合がいいと、あの頃の私は判断したらしい。
あの夏がどういう結末を迎えようと、それが一番ダメージの少ない方法だと私はそう思っていた。
現実として、私は十年間忘れる事ができたのだから。
忘れ続ける事ができていたのだから。
「ただいま」
誠治の声が玄関から響く。
「おかえり」
私はいつもの声でそれを迎えた。
「友達とどうだった?」
息苦しそうなシャツを脱ぎながら、誠治は言う。
「楽しかったよ。彼、十年前から本当に変わってなくて、色々懐かしかった」
「高校の頃の琴音か、見てみたかったなぁ」
「今の私じゃダメ?」
「そんなわけないだろ、琴音はいつでも最高だよ」
そう言って誠治は私を抱きしめる。
彼の優しさの根底を私は知っていた。
彼は別に優しくなんかないって事も。
いつも通りに時間は過ぎる。
夕食を食べて、少しゆっくりして、なんてこと無い会話をして、寝る時間になった。
日記にでも書かなければ忘れてしまうような一日。
本当にそうだろうか?
日記に書かなくても私は全て覚えていた。
「そろそろ寝るかな」
「私はもう少し起きとくよ」
「わかった。それじゃおやすみ」
思い出してしまえば、なんてことはなかった。
私は日記を書くことを辞めた代わりに、丁寧に小箱に入れていた。
忘れられるように。
嘘を日記に書いて忘れるって方法はそんなに悪くはなかったと思う。
実際、上手くいってたわけだし。
ただ、面倒だった。
それなら、そもそも覚えなければいいんだけど、残念ながら私の記憶力はそれほど悪くない。
そういう訳だから、忘れる為に私は態々小箱に仕舞った。
変なの。
今井琴音は屈折した人間だ。
そのはじまりはあの夏ではない。
何というか、それはきっかけに過ぎなかったんだと思う。
ただ、まぁ、最初に覚えたやり方はなかなか変えられないものだとも思う。
例えば歩き方、箸の持ち方、話し方や笑い方、後から頑張って矯正すれば変わるんだろうけど、態々そんなことする人ばっかりじゃない。
例えば、人間関係の作り方。
例えば、人間関係の終わらせ方。
もう必要なくなった日記帳をゴミ箱に入れる。
それじゃ、あの夏の終わらせ方はどうしよう?
もう終わってしまった物語を終わらせる方法を私は知らない。
大川琴音は不器用な人間だ。
色々考えて、一つの方法を思い付く。
それをする意味が今更あるのかわからなかった。
『結局、葬式とか墓参りは、生きている人間の為にある行為なのでしょうね』
彼女はそう言った。
それなら、これは私の為にある行為なのかもしれない。
もしくは、祥ちゃんの為に。
取り敢えず今日は寝よう。
明日は少し忙しくなるから。
すっかり買うのを忘れた毛布の代わりに、私専用の抱き枕を抱きしめる。
誠治は私の気配に気付いて、私に腕を回した。
まどろみの中、私は懐かしい記憶を思い出す。
朝の下足室。
少し早く着いた私は靴を履き替え、直ぐに来るであろう彼を廊下で待っていた。
「おはよう、イズイズ」
そんな一言を言うために。
ただ、聞こえて来た会話は私からその一言を奪った。
「変なこと聞くけどさ」
イズイズの声。
「なにかしら?」
それに応えるのは文ちゃんの声だった。
「F子の知り合いで僕と付き合ってもいいって子いない?」
「どういう意味かしら?」
「いや、ね、高校も二年生になって、きっと僕がどんな人間かってのはだいたい周りに把握して貰ったと思うからさ、それでも尚僕と付き合ってみたいっていうチャレンジャーがいないかなぁってね」
「色々と指摘したいことはあるけれど、自分でチャレンジャーって言うのね」
「だって、僕だし」
「泉君にしては正しい自己分析だと思うわよ。でも、私に友人を売る様な真似をさせようとするのは感心しないわね」
「売るって言うと、なんだか生贄みたいじゃない?」
「実際そうでしょう。あなたと付き合うと言うことは、少なくともその期間あなたに振り回されるわけだし、十中八九人生の汚点になるのだから」
「汚点って、そこまでヒドイ?」
「『絶対に汚点となる』と言っていないだけまだ優しさを入れたつもりだけれど」
「十中八九も大差ないよ。F子からの僕の評価がすっごく低いことは分かった」
「ようやく気付いたの? でも、このやり取りであなたへの評価はもう一段階下がったわ」
「うわぁ、青天井だね」
「下がるのだから底なしでしょう?」
「そうだっけ?」
「あなたは自分の感情を率直に伝える人間で、そこが数少ない利点だと思っていたのだけれど、違ったようね」
「それは、どういう意味かな、文子さん?」
「卑怯だって言っているの、もしかすると、泉君らしくない自己分析の結果なのかもしれないけれど、こんな回りくどいことをしなくても、付き合ってあげるわよ」
「F子、それは冗談じゃなくて?」
「私が冗談を言っているのを聞いたことがある?」
「これが冗談じゃないなら多分ないかな、でも、きっと後悔するよ?」
「現在進行形でしているから大丈夫よ」
これが私の失恋だった。
あの頃の私は愚かで、もしあの日和泉君に声を掛けられたのが自分だったら、そう考えていた。
あの場面を何度も繰り返し思い出し、そう思い込もうとした。
若く、青く、それだけならなんてことない失恋。
ああ、やっぱり私は屈折している。
いよいよ重くなった瞼に、私は眠りに落ちた。
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