第3章・鶴寮の若さまたち、ウワサの幽霊に会いに行くのこと

第18話・南の御殿のウワサ

 僕が鶴の寮に戻ると、部屋には暗い空気が立ち込めていた。

 総次郎は疲れた顔で部屋に横になっていたし、忠郷は無言で山のように積み上げられた文の束の仕分け作業をしていた。

「あー、楽しかった! 交流会、大成功だったんだよ! あんなに沢山女の子とおしゃべりしたの初めて!」

「あらそう。嫁でも見つかったわけ?」

 僕は「まあね」と思わせぶりな返事をしておいた。


 今日一日で市とはすっかり仲良くなったのだから、可能性はあるかもしれない。あとは僕の今度の努力如何に懸かっている。

 そう考えたら、僕はなんとしても例の南の御殿の事件とやらの噂についても確かめなければと言う気持ちになった。長員に協力するという理由はもはや二の次三の次だよ。

 とにかく市の力になりたいからね!


 僕は寮の外廊下から空を見上げた。

 北の御殿には僕らの寮「鶴」の他にも「笹」と「割菱」の寮があって、全ての部屋が外廊下で繋がっている。

 外廊下から庭先を覗いた僕は「割菱」の寮の庭に生徒の一人ーー松前甚五郎がいるのがわかって、声を掛けて手を振った。


「梟、今日もちゃんと小屋へ帰ってきた?」


 縞模様の珍しい梟が時折食事のために紅葉山の方角へ放されることは、北の御殿の生徒なら誰でも知っている。松前甚五郎の梟だ。

「ああ、大丈夫だよ。もうすっかりここでの暮らしにも慣れたからね」

 僕ら北の御殿は日の本の北に位置する大名家から出仕している生徒ばかりが集められている。

 僕の実家は米沢藩を治めているし、忠郷は会津、総次郎の実家は仙台。東や西、南の御殿の生徒たちもそうやって領国の近しい者同士が同じ寮へと纏められているのだという話だった。


 甚五郎の実家である松前藩が治めている《蝦夷》という島は、日の本の最北端、津軽から更に海を渡らないといけない遥か遠い領国だよ。

 甚五郎は割菱寮の庭に置いている特製の大きな鳥小屋で梟の世話をしていた。

 甚五郎が実家から連れてきて特別に飼っているというめちゃくちゃ珍しい鳥。蝦夷の島にしかいないんだって! 

 松前藩はそうした珍しい鳥や生き物を将軍様や大御所様にたくさん献上しているのだという話だった。

 そして悲しいことに、松前家から江戸へ献上品の鳥(鷹狩用の鳥らしいね)が運ばれる度に僕らのような奥州の大名家が道中のエサ代を捻出している……うちなんて、家臣たちが食うものにも苦労しているというのに。


「ねえ、千徳殿」

 梟を撫でながら甚五郎が僕に声を掛けた。甚五郎の梟はいつ見ても本当に大きな鳥だよ。くちばしで身体を突かれたら穴が空きそうだもん。


「千徳殿は海豹は好き? 膃肭臍はみたことある?」


「へえっ? あざらし? おっとせい? なにそれ?」

「北の冷たい海にいるけだものだよ。鯨よりも小さいけど、魚よりうんと大きくて、陸の上でも歩けるし死なないんだ。うちの実家では沢山捕まえて肉や毛皮を売ったり、大きなものは献上品にしたりするんです」

「えー! なにそれ! 陸の上を歩く魚なんてみたことない!」 

「実は今日実家から文が来たんだよ。大物を捕まえたから江戸と駿府へ献上するらしいんだ。沢山捕まえたから、ここにも届けてくれるって。千徳殿はここへ来たのが最近だから、きっとあざらしの肉は初めてじゃないかなあって思っていたんです」


 すごく美味しいよーーと甚五郎が言葉を続けたので、僕は歓喜の声を上げた。


「わああ! すっごーい! やったあ、ありがとう甚五郎殿! ちょう楽しみ! ね、ね、あざらしってどんな味? どうやって食べるの? 鮭より美味しい?」

 僕が甚五郎とあざらし話に盛り上がっている最中、鶴寮の部屋では忠郷と総次郎が険しい表情で会話をしていたよ。忠郷は手にいていた文を握り潰して言った。

「……嫌な単語が聞こえたわ。甚五郎の奴、まさかまたここへあの臭い魚の化け物みたいな肉を持ち込むつもりじゃないでしょうね」 

「……ただ持ち込むだけならまだしも、庭先で干したりなんだりするのは絶対に止めさせろ。すさまじい臭気を放ってたじゃねえか。北の御殿の主の重要な仕事だぜ。甚五郎の奴に海豹の肉を持ち込ませないってのは……」

「……馬鹿ね。妙なことを言うとまたあの肉を貰ってしまうじゃないの。ああ、思い出すわ……あの干し肉のものすごい匂い……」

 すっかり日が長くなった初夏の空はようやく夕暮れ時になろうかという刻限だよ。夕餉の時間まではまだ少しある。


 甚五郎に別れを告げて鶴寮の部屋に戻ると、忠郷も総次郎もますます元気をなくしていた。げんなりしている二人の顔を見たら、僕は市のあの悲しげな表情を思い出したよ。

 そうだよ、あざらしの肉に喜んでる場合じゃない!

「南の御殿の生徒たちも御殿の部屋にいるかなあ……」

「あら、南の御殿に何の用事よ? 知り合いでもいるわけ?」

 ちゃっちゃと仕事を片付けてしまえばいいのに、どうにもそれは気が乗らないらしい忠郷が気だるそうに僕を見た。

「ううん。知り合いなんていないけどさ、ちょっと確かめたいことがあるんだよ。話を聞こうと思って」

「止めておいた方がいいわよ、千徳。今、南の御殿ってずいぶん揉めているから」

 忠郷が笑って言った。


 揉めている? それってまさかーー


「ねえねえ、南の御殿ってさ、何か事件があったんでしょ?」

「あら、あんたも聞いたのその噂。うちの御殿以外じゃずいぶん騒ぎになっているものね。死んだ生徒が化けて出るんですって。あんたはここへ来てまだ日が浅いから知らないでしょうけど、学寮って最近幽霊が出るの」

 僕は忠郷の文机に近寄って尋ねた。

「忠郷はその噂、詳しく知ってるの?」

「当然でしょ? あたしは北の御殿の《ぬし》なのよ。よその御殿とは定期的に評定を開いてちゃあんと情報交換をしているわ」


 御殿のぬし、というのは所謂御殿の生徒たちの代表のことだ。東西南北の各御殿に一人ずついて、時折評定を開いて各御殿の問題やら提案やらを話し合ったりするという話だよ。

 でもこの《ぬし》は学寮の教師や上役達が選んだわけではなく、生徒たちが勝手に名乗り、好き勝手にやっているらしい。

 つまり、御殿で偉ぶりたい奴らの集まりだ。

 評定で話し合われている内容というのも、僕や総次郎のような外様大名の若さまで気に食わない生徒のリストアップ作業らしい。

「御殿のぬしたちは全員あたしとは親戚筋だから、まあ……この御殿で知らないことなんてないわね。南の御殿には義理の弟がいるし」

 忠郷は派手な仕草で長い髪をゆらしながら言った。忠郷っていちいち仕草が大仰なのはどうにかならないんだろうか。

「死んだ生徒が化けて出るなんて……それ、本当なの?」

 僕はあまり大きな声で言うのはためらわれて、小声で忠郷に言った。忠郷はもう文机の上の文の束を見るのは完全に止めて僕に身体を向けている。

「本当らしいわよ。二度もお坊さまが来てお経を上げたらしいけど、未だに客間や寮の部屋に出るらしいから」

「忠郷も見た? 話はした? どんな風?」

「はあ? ユーレイなんて、あんた……そんなもの見えたり話したりなんて出来るわけないじゃない。馬鹿じゃないの?」

 僕は別段腹も立たなかったよ。

 こういうのが普通の人間のよくある反応なのだということは、僕もちゃあんと知っている。意外だったのは、忠郷の反応に続きがあったことだった。

「でも、南の御殿には見たって生徒がいるらしいわよ。うちの義理の弟もそう言っていたもの。だからこそお坊様を呼んだりしたんだわ。みんなすっかり怯えちゃって大変なのよ」

 忠郷の表情からは事態の深刻さが充分伝わってくるけれども、僕は内心勝鬨の声を上げたい気持ちでいっぱいだった。


 忠郷って……忠郷って、実はかなり使える人間なんじゃないだろうか!


 僕は学寮には一人も親戚や身内なんていないし、まだ入って二月目だから北の御殿以外には誰も知り合いなんていない。

 そこへ行くと忠郷には人脈があるから、いろんな人に話を聞けるかもしれないよ! 上手くすれば情報収集が出来そうだ。

「……自害した生徒が怨霊になって学寮を彷徨ってる……って噂だろ?」

 くだらねえ、と呟いたのは総次郎だ。

「自害!? 怨霊!?」

「なんだ、あんたも知ってるの? そりゃあそうよね。結構学寮では噂になっているもの」

 そうなの? 僕は全然知らなかった。長員に噂を調べるお役目を手伝わされているのに、これはまずい。

「今日交流会で仲良くなったお姫さまが言ってたんだよ。兄上が南の御殿にいるらしくって、ひどく不安そうにしてるって」

「そうね。南の御殿にいた生徒の一人が亡くなったのよ。千徳がここへ来る直前のことだわ。体調が悪くて宿下がりをして、そのまま亡くなったらしいってあたしは聞いたわ。でも亡くなった生徒は今でも死んだ実感がなくて、学寮の御殿に戻ってきて……時折御殿や客間を彷徨っているんですって」


「ねえ、その生徒って本当に死んじゃったの? それは確かな話なの?」


 まずは噂の真偽を確かめねば――不確かな情報に踊らされては勝てる戦にも勝てないと、僕だってちゃあんと習っている。僕は総次郎と忠郷の顔を交互に見た。

「案外、理由があってまだ実家に帰ってるだけだったりするんじゃない?」

 一度学寮に出仕した生徒も、理由があれば実家の領国や江戸屋敷に一時的に帰郷を許されることがあると聞いているよ。

 鶴寮の隣ーー北の御殿にある笹の寮にもそうやって一時帰郷してしまった生徒が二人もいるらしい。そういう生徒たちは学寮は《休学》扱いになるんだって。 

 ちなみに、申請を出せば半日とか一日くらいの宿下がりなら比較的容易に出来る。もちろん、申請が下りればの話だけど。

 忠郷は大きく首を横に振った。

「自害かどうかまではわからなかったけれど、南の御殿にいた生徒が死んだのは確かよ。だってあたし、江戸屋敷に文までやってうちの家臣に調べさせたんだから!」

「けっ……馬鹿馬鹿しい。確かな話も何も、化けて出るならそれなりの理由があるに違いねえってんで、勝手に自害したことにされてるんだろ。噂なんてそんなもんだ」

「だけど、その生徒がなぜ死んだのか……うちの江戸屋敷の人間が調べても結局わからなかったの。死因が秘匿とされているところも何だか胡散臭いと思わない? 何かよっぽどの事情があって隠されているんだわ、きっと」

「そいつはてめえんちの家来が使えねえだけじゃねえか?」

「なんですって!? ここの大人に聞いたって誰も何も教えちゃくれなかったわよ!」

 僕ら三人が集まるとすぐこうなる。僕は一触即発の二人の間に入って双方を宥めた。

「幽霊なんて信じられないって気持ちはわかるわ、千徳。でも実際に南の御殿で死んだ生徒の幽霊を見たって生徒もいるんだから確かなのよこれは。祟りだ、怨霊だって……お坊さまにお祓いまでしてもらったんですもの、これでなにもないはずがないじゃない。妹の婿殿もずいぶん気に病んでいるの……義理の兄としては何とか力になってやりたいわ」

「……嘘くせえ話だ。幽霊なんかいるわけがねえ」

 いるわけがない、という割にはずいぶん総次郎も乗り気だ。

 基本的に総次郎は自分が興味ない話には一切絡んでこない。つまり、こんなことを言ったりするってことは、実はもんのすごく興味津々ってことなんだよ。

 学寮に入って二月が経って、ようやく同じ寮の二人のこともだんだん分かってきた気がする!


「信じられないなんてことはないよ。僕はそういうのはよく見てるから」


 僕は生まれた時からそういうものが見えるので、逆にそういう者が何も見えないってことを想像することの方が難しい。

 だって、現に江戸のお城にだって幽霊なんて山程いるんだもの。この学寮がある西の丸にもウロウロしているよ、ぼんやりとした人でない連中がね。

「ねえねえ、みんなも幽霊や怨霊は見える方? その生徒が化けて出る場所とか時間なんかがわかれば、いっそ直接会ってみたほうが何かわかるような気がするけどなあ。そのお経を上げてくれたお坊様は何も言ってなかったの?」

 すると、目を丸くして僕をしばらくじっと見つめていた忠郷がゆっくりと言った。

「あんた……まさか、そういうのがわかったりする系の人間なの? 霊感の持ち主ってやつ?」

「ええっと……まあ、ちょこっとだけね。見えたりわかったりするぐらいだね。お坊さまみたいなことはしたことないよ。修行を積んで見えるようになったわけじゃないからさ」

「幽霊なんて見えて危なくないわけ? 襲ってきたりしたら大変じゃない。祟られたりしたらどうするのよ?」

「襲われたことも祟られたことも特にないなあ。だって、襲われるようなことはしないもん。それに、ヤバそうなやつには近寄らないからね。大丈夫、大丈夫」

 僕は本気でそう思っていたよ。今日、市に会うまでは。


 僕は生まれつきそういうものが見えるから割と幽霊やちょっとした物の怪なんて見慣れているし、傍に火車もいるから、こわーい怨霊に襲われない方法も教えてもらっている。

 事実、今日までそうしたものに襲われたり、怪我をしたりひどい目に遭ったことはそうそうなかった。驚かされたり、すっ転んで怪我をしたりくらいはあったけどさ。

 火車は地獄で働いていてそういう連中を扱う仕事をしていた本職プロだから、怨霊だとか邪霊――所謂、《鬼》 みたいなものについては滅法詳しい。


 だから、全然なんてことない――そう思っていたんだ。

 今日、市に会うまでは。


 市には猫又に襲われる理由も狙われる理由もなさそうだった。

 そりゃあ、そういう理由になりそうな可能性については教えてくれたけど、それだって市個人が悪意を持ってやったことじゃあない。

 だのに、市は化け物に呪われ、それが今も実家に留まり続け、彼女の実家の人間を苦しめている。


「でも注意したほうが良さそうだね。江戸のお城っていろいろな気配がするもん。不思議なところだなあってずっと思ってた。幽霊なら特に害はなくても、もしも本当に怨霊なんてことなら大変なことになるかもしれないよ。怨霊ってのはヤバい奴だからさ」

 目に見えるものだけが全てではないと、父上が言っていたよ。見えないものこそが重要だ。油断をしてそうしたものを軽んじてはいけない。

 彼らは多くの人間たちに認識出来ないだけで、そこに確かにいるんだもの!


「なるほど、そうなのね……それじゃあ決まり!」 

 総次郎が眉を顰めて首を傾げた。

「今日の夜、さっそく南の御殿へ行きましょ。婿殿には話をしておくわ。ようやく義兄として婿殿の力になってやれそうじゃない!」

「ええ? 話って……何の?」

 僕がそう尋ねると、忠郷は握り締めていた小さな文の成れの果ての塊を僕に投げつけた。

「馬鹿ねえ、千徳。幽霊を退治するんじゃないの。さっきあんた、自分でそういうものが見えるって言っていたでしょ! お城中に気配がするんでしょ! 怨霊なら大変なことになるんでしょ!」


 ほうら、来たよ……僕は彼の言葉がおよそ自分の想像通りだったので、なんだか肩の力が抜けてしまった。


 言っておくけど、僕は《見える》だけで、幽霊も怨霊も退治なんてしたことはないんですけど!


 さっきもちゃんとそう言いましたけど! 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る