第11話 『後の民』の集落




 色あざやかな鳥たちの楽しげな歌声が聞こえてくる。朝露は日を浴び躍動の共演は朝の訪れを祝っているかの様だった。

 美しく幻想的な森の中、突然誰かが走りながら現れたものだから、うっとりと自然美に酔いしれる間もなかった。

 俺は目を細め、その顔を窺う。若い女だった。女は辺りをキョロキョロと見渡し誰もいない事を確認すると、鬱蒼と生い茂る蔓草つるくさをかき分け、そこに現れた古びた木の扉を前に立ち尽くした。右手には重々しく年季の入った鍵がしっかりと握られている。


 俺は大きくため息をついた。何なんだ一体。またしたのか。今度は何処だ? なっくんは? ヤーモンとドラゴンは……? 


「姉様!」

 女は突然の声に肩を強張らせ鍵を後ろ手に隠し持った。

「早くしないと婆様が待ってるよ!」

 まだ幼い少年が息を切らせて叫んでいた。即座に二人は連れ立って走り去っていった。


 誰なんだ? 

 考えている間に目の前の風景が一瞬にして切り替わり俺は古びた木造家屋の前に立っていた。


「早く、早く!」

 先ほどの姉弟らしき二人の住まいらしい。二人は急いで駆け込んできた。俺が先回りしたような格好なのだろう。隠れる暇などない。ところが、俺の心配をよそに、二人は何事も無かった様に目の前を走り抜けて行った。この二人には俺の姿が見えていない? 少しホッとした様な、だが間違いなく主様が急いでいるのだという事を確信しプレッシャーを感じずにはいられなかった。

 突然そこへ、しわがれた声が響き渡ってきた。

「早くそこへお座りなさい」

 一人の老婆が姉弟に向かい、一言放っていた。

「お前はよろしい。父の手伝いをして来なさい」

 弟へ指示すると少年は素直に奥へと入っていった。

「婆様ごめんなさい。お散歩していたらつい時間を忘れてしまって……」

 女は神妙に老婆を見上げた。

「お前はもう立派な大人。きちんと物事を見極め我欲を飼いならしなさい。ところで昨日話した事は覚えておるか」

 女はビクッと肩を揺らした。どうやらこの老婆、単なる年寄りではないらしい。

「はい、覚えております」

 老婆は少し微笑んでから続けた。

「では申してみよ」

 女はゴクリ、と唾を呑み込み口を開いた。

「私はこの家の長になる者。婆様より家督を継ぐ為、これからはその意識を持って伝授賜る事に勤しみます」

 老婆は長いキセルで火鉢の渕をコン、と叩いた。

「……それだけか?」

 低くゆっくりと放たれる声。誰が聞いてもたじろいでしまいそうなほどに凄みを感じさせる。

「いえ、まずは禁忌を教わりました」

 女の声は震えている。老婆は両の手でキセルを持ち膝の上へ置いた。続けよとでも言いたげに老婆は黙っている。

「絶対に入ってはならぬ場所を教わりました。でも中には入っておりません……」

 女の震えは体にまで及び、言葉尻は蚊の鳴くような声になっていた。

 老婆は黙ったまま右手を差し出した。

「もう良い。それを出しなさい」

 女はカタカタと震える手で古びた鍵を老婆の手に置いた。

「ごめんなさい……。婆様、ごめんなさい……」

 老婆は怒る訳でもなくただ黙ってじっと鍵を見つめていた。

「もう分かっておる。お前が悪い訳ではない。これもお前の宿命。もうその時間の波は訪れた。良いか。お前は責任感が強く家族思い、村思いの心優しい娘。何があってもその心、忘れるでないぞ。」

 老婆はそう言い放つと家の奥へと入って行った。

 女はシクシクと一人、泣き始めた。この泣き方、この感じ、何やら聞き覚えがあるように思えてならない。ぼんやりとする頭を振り懸命に記憶を辿る。そして不意に閃いた。すすり泣く女だ。なんとなく分かってきた。このすすり泣く女がここへ俺を引っ張ってきたのだということが。

「何故だか分からない。気付いたら鍵を持ち出していたの……」

 すすり泣く女は一人、呟いていた。

 俺はあの老婆が気になり、女を尻目に家屋の中へ入って行った。




 薄暗い廊下はずっと奥の方まで続いている。途中にある部屋からは仄暗い灯りが漏れている。その部屋の方へと進み中を窺うと、そこには老婆の後ろ姿があった。

「おや? この犬は……」

 いつのまにかこちらを振り向いていた老婆は俺に向かって言った。だがここには俺の意識しか存在しないはず。さっきの姉弟にも誰にも俺の姿は見えていなかった。俺自身にも俺の姿が見えていない。なのにこの老婆にだけは俺の姿が見えている。

「ほら、おいで」

 老婆は微笑みながら手を差し出した。

「よく顔を見せてごらん」

 撫でられても感触はないのだが、なんとなく老婆の優しさが伝わってくる。俺をじっと見つめる老婆を、俺もまた見つめ返していた。

 そして老婆はフッ……と微かに笑うと俺の横に座り口を開いた。

「あの姉嬢はこの村長であるわしの孫。こんなにも早く時が訪れるとは……」

 老婆は手に巻いている木の実の数珠をジャラリ……と鳴らした。

「厳しくしてはいるものの不憫でならぬ。たとえ宿命と言えどあの子に耐えられるのであろうか」

 まるで独り言を行っているかの様に老婆は語り続ける。一体、何を言っているのだろうか。

「わしの代ではそこへは行かずに済んだ。だが、あの子はそうはいかぬ。宿命なのだ」

 年輪を思わすしわを刻みこんだ顔に翳りが見えた。

「あの子の持って生まれた我欲が宿命を抗えぬものにしたらしめている。わし自身もまだ未熟者だったが故に、また、我が孫が不憫だったが故に、その我欲を反転させるべく改めようと試みた事もあったが結果はもちろん無駄であった。今になってみればこれは抗ってはならぬ事であったのだ」

 何かとてつもなく大変な事態なのか? 事の深刻さを感じさせられてしまう。



 ……欲しい……欲しい……



 突然、妙な声が割り込んできた。

「ワン!ワン!」

 俺は驚いて声にならない声をあげた。

「よし、よし、怖がるでない」

 老婆はゆっくりと立ち上がり、パン! と手を打ち鳴らすと何やらぼそぼそと呟いた。その様はどことなく五代目酋長の所作を思わせた。

「聞こえた様じゃの。今のが我欲の声じゃ。あの子は何者かを内蔵して生まれてきたのだ。どんどんその存在が力を増してきておる。かくいうわしも罪じゃろう? そんな立場の人間にこれみよがしに禁忌から教えるとは。そう、決まっておるのじゃ。他の者にとっては毒でも、あの子にとっては薬となる事も……。お前は賢いから分かるな?」

 そういうと老婆は俺の額をスッと払う様に撫でた。視界が霞んでいく。

 ブルブルッと身を揺さぶり目を細め辺りを見渡すと、今度は『すすり泣く女』の後ろに立たされていた。女が古びた大きな鍵を鍵穴に差し込む、まさにその時だった。



 ガチャン……! ギギギギ……



 扉を開けると静かにすすり泣く女は中へ消えて行った。扉が閉まる間際、中から黒いすすの様な影がするりと抜け出すのを俺は見逃さなかった。

 いつの間に現れたのか、気づくと俺の真横に老婆は立っていた。俺の額の上に老婆の暖かい手の温もりが伝わってくる。

「よいか。お前がここに来たのもまた宿命。頼んだぞ」

 老婆は俺の頭を撫でると姿を消した。


 

 俺は混乱しそうな頭を冷やすように大きく深呼吸し、目を閉じた。


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