第23話 ひと夏のナーシャ
シャンタンは唇を半開きにして眠っていた。心なしか顔が赤い。カナンデラはシャンタンの額に手を当てた。熱がある。相当な熱だ。部屋を見渡して当たりをつける。
あのドアがクローゼットだ。何かないか……
カナンデラは急いで部屋を横切り、奥のドアを開いた。大きな鏡が迎える。ウォークインクローゼットにしては広すぎる。しかし、鏡の横の帽子掛けに、帽子とフォックスの襟巻きと黒い天鵞絨のコートが掛けてあるだけだ。
壁に油彩画が掛かっている。見事に穴だらけだ。数十発分の薬莢が転がっている。
……凄いな。シャンタン、こんなことでストレスを発散させていたのか。よし、俺様に任せておけ。お前のストレス解消にあのセラ・カポネをくれてやるぞ。
しかし、ブランケットはないのか……
此処で寝るわけではないから置いてないか。
其れにしても天鵞絨のコート……女物みたいだ。軟弱者め。フォックスの襟巻きは、ボルドーのやつを俺に取られたから買ったんだな。
良いなぁ、此れ……
しかし、被る物が何もないとは……
仕方ない。俺様のトレンチを……
カナンデラはシャンタンのソファーに戻った。シャンタンは熟睡しているのか、微動だにしない。もう一度額に手を当てた。
間違いない。風邪だ。
トレンチコートを脱ぐ。シャンタンにトレンチコートを掛けて、マホガニーの広いデスクを見た。ティーカップにお茶の花が残っていた。
俺様がプレゼントしたお茶……早速飲むとは可愛いじゃないか……
デスクの端にハンカチがある。目敏く見つけてシャワールームの洗面台で水を含ませた。軽く絞る。
額に濡れたハンカチを当てると、シャンタンは薄く目を開けて何か言おうとしたが、そのまま瞼を閉じた。
「シャンタン、何か食べるか。温かいお茶でも飲むか」
返事はない。ハンカチは直ぐに熱を吸収して熱くなった。カナンデラはネクタイを緩めた。大股でシャワールームに向かう。ネクタイを水で濡らした。
ネクタイを額に巻く。ぐるりと二重に巻いて其の上にハンカチを乗せた。
此れで暫くは熱も取れるだろう。
カナンデラはストーブの上のケトルに水を足した。其れからシャンタンを横向きにしてソファーに横になった。羽交い締めのような格好で背中から暖める。トレンチコートだけでは足りず、天鵞絨のコートも被った。
ケトルがシュンシュンと湯気をたてる。
シャンタンに腕枕したまま、眠気に襲われた。
シャンタンの唇が動く。
「カナンデラ・ザカリー……」
「ん、何だ……」
カナンデラは目を開けて暫く返事を待ったが、シャンタンは何も答えず、ケトルの音だけが蝸牛に囁く。眠れ、眠れと。
夏の湖の畔で、小枝をナイフで削ってルアーを作った。其れを岩肌で擦って光らせる。
『お前、名前は何て言うんだ』
ずっと傍にいて俺の手元を見つめていた金髪の女の子。透明感のある肌に薄いソバカス。唇にピンクのルージュ。白いワンピースドレスと麦わら帽子。小さなバッグと赤いハイヒール。
『ナーシャ』
コケティッシュな愛らしい顔つきだった。映画館でクララ・ボウを観たとき、ナーシャかと思った。
『ナーシャか……ハスキーボイスだな』
警察官として、大きな事件を命がけで解決して怪我を負って、暫く休みを取った。ナーシャはひと夏の間、毎日のように湖に来た。キスしてきたのはナーシャの方からだ。スコールにやられて走り込んだ小屋で……ベタなエピソードだ。
『悪い、ナーシャ。俺はお子様とは遊ばないんだ……』
俺はゲイだと言えなかった。
『遊びじゃない』
『遊びじゃないなら尚更だ』
シャンタン、お前……
俺様を騙したな……
何がナーシャだ、何が19才だ……
16才だったんじゃないか……
お子様のくせに……
お前はお前自身に目覚めていたのか……
白いドレスと赤いハイヒール……
すっかり騙された……
ナーシャでもシャンタンでも
お前が好きだ……
龍花から警察に電話があった。客から預かった絵皿が盗まれたという。アントローサ警部がぶちギレた。
「お前ら、街でカーチェイスだ。ブルンチャスとキーツが、おそらくセラ・カポネだろう、キャデラックを追っている。拳銃を振りかざしていたそうだ。引き締めて行け」
大体が、詐欺事件の証拠品の絵皿を、警察引き渡しに応じなかったロンホァチャイナの対応が問題だった。オーナーは絵皿を納めた棚に鍵を掛けて、居留守を使って絵皿を警察に渡さなかった。
其の絵皿が盗まれただと。棚から出していたのか。警察で保管しておけばこんなことにはならずに済んだものを……どんなに高額な品物だろうが、証拠品は証拠品だ。
と、アントローサは呟く。
しかし、オーナーは中国人。其処が難しい処だ。絵皿を国宝級だと言われれば領事館を通さなければならない。そして、中国は国家情勢が激動の最中にあり、何故かフランス領事館が横槍を入れてきた。
此の1927年、中華民国はふたつの政党に分裂し、上海クーデターと呼ばれる紛争の最中に多くの外国人が襲撃され命を落とした。此れを受けて、英・米・日本が艦隊を出すなどの軍事行動を起こし、フランスとイタリアも平和制定の為に動く。
フランス領事館がロンホァチャイナの肩を持つのは訳がある。龍花のパリに構える大きな店は、中国文化に触れ合うことのできる開け放たれた玄関となっていた。一時期は、中国陶磁器を持っていないのはヒエラルキートップクラスにはいないとまで云われるほど、中国陶磁器の人気は高い。
サラ・ベルナールが入手先との触れ込みだが、どうしろと言うのだ。サラ本人はとっくに亡くなって国葬されている。数人の刑事を割いてオイラワ・チャブロワの周辺を聞き込みに当たらせたが、今日の成果ははかばかしくない。近くの国ではあるがフランスまで行かせる訳にはいかない。
戻ってきた刑事にも市街地でのカーチェイスを止めるように指示する。
全く、何てことだ。ボヤ騒ぎを起こしたアパルトマンでの殺人事件からロンホァチャイナの証拠品窃盗事件。ブルンチャスとキーツに張り込ませていて正解だった。
しかし、カーチェイスとなると話は別だ。此の国始まって以来の、初めてのカーチェイス……こんな事件は今までになかった。セラ・カポネ……閉店間際のロンホァチャイナから証拠品窃盗か。此れがアメリカ系マフィアのやり方か……
全く、此の国で初めてのカーチェイスが私の管轄地域で起きるとは……ガス灯が点り始めた。此の国は遅れている。フランス贔屓なら街灯もフランスを見習って白熱灯にすべきだ。犯罪の多くは夜に起きる。カーチェイスで怪我人が出なければ良いが……
アントローサ警部の脳裏を、甥のカナンデラ・ザカリーの憎たらしい顔が過る。
あいつを手放したのは間違いだった……
其の憎たらしい顔は安らかに寝息をたてていた。此の街の魔城で18才のゴッドファーザーに腕枕ができるのはカナンデラくらいのものだ。
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