第11話  メロメロ過ぎて気づかない



「ラルポア、気づいた。イサドラ・ナリスはコートの下は薄着だって言ってたけれど、あれって血の匂いだよね」


「そう言えば薄っすらと鉄錆っぽい匂いが……でも、婦女子は時々……」


「そうだね。間違いない。イサドラ・ナリスは血の匂いがした。其れは月のものなのか其れとも……ラルポア、男はみんなそういう風に鼻が利くものなの」



ドアに凭れてカナンデラが口笛を吹く。



「ラナンタータァ、イサドラ・ナリスは女の子の日だよ。コロシの血の匂いを嗅いで来たばかりだから俺様は少しばかり過敏になっているが、イサドラ・ナリスからは鮮血の匂いがした。恐らくイサドラ自身の血だろう」


「コロシの血の匂いって物騒だな、カナン」


「お前ね、ラナンタータ。従兄とはいえ俺様は此の探偵事務所の主なの。お前さんは暇潰しの居候。だから僕ちゃんのことはお兄様かカナンデラ様って呼んでね、ラナンタータ。……って言っても無駄だよね。そう、僕ちゃんはラナンタータのオヤジさんとコロシの現場検証してきたの。なあああんて働き者なんだろう、僕ちゃんって。イサドラ・ナリスの給料をシャンタンからぶんどってやったし、デルタン通りのアパルトマンは血の海事件と若い女性の殺人事件の二本立てだからね。忙しかったわ。なのにお前らときたらレストランにさえ付き合おうとしないなんてなぁ」



カナンデラ・ザカリーは舞台役者めいたセリフ回しでお気に入りのソファーにどっかと座った。シャンタンから巻き上げたカシミヤのマフラーを両手で広げて見せる。



「気づかない。此れね、シャンタンからのプレゼント。イサドラ・ナリスは気づいてくれたのよ」



カナンデラは女の声色を真似て拗ねる。



「わかったよ、カナンデラ兄貴。煩いなあ。行けば良いわけね、行けば。何たっけ、ああ、ボナペティ。ムール貝の美味しい店。デザートにトリュフって高そうな店だから是非カナンデラ所長様にご馳走していただかなくては、ね、ラルポア」


「ラナンタータ、カナンデラは目的があるんだよ。多分、血の海事件か若い女性殺人事件のどちらかの聞き込みかな」


「ラルポア、いつも思うけどあなたって天才よね。流石は悪魔ちゃんのボディ・ガード。苦労しているのね。さぁ、そうと決まったらラナンタータ、行くぞ。若い女性は首をへし折られていた。虹羽根ブローチのインチキ募金が関わっているらしい」



カナンデラは勢い良く立ち上がると、ラナンタータとラルポアもドアへと動く。





建物に明かりが点った。闇が一層深くなる。明かりを頼りに歩いていると、明かりの届かない石畳のでこぼこが急に怖くなる。


イサドラはデルタン通りに差し掛かり、左手に黒いフォルクスワーゲンを見た。此の国ではドイツ車は珍しい。花屋夫婦殺人事件の際にまみえたアントローサ警部が、アパルトマンから出て後部座席に乗り込む。


イサドラは通りに入らずに川沿いを歩いた。まだ電気の街灯は少ない。此の街では大通りにガス灯が点在している。9月の夜は歯の根も合わなくなるほど冷え込む。薄着で出歩くのは南国からの旅行者か命知らずの洒落者、或いは娼婦と相場は決まっている。


イサドラの足元に枯れ葉が舞い降りた。風に吹かれ乾いた音をたてて石畳を走る枯れ葉に、イサドラの視線が止まり、離れた。


イサドラは宛先のない手紙のように彷徨った。何処に行けば良いのかわからない。


此の近くだったかしら。娼婦が殺されるという現場は……誰もいないわ。犯人は現場に戻るものなのかしら……



黒いブガッティが目の前に止まった。

金髪の若い男が、左ハンドルの車窓からイサドラ・ナリスに話しかける。



「イサドラ・ダンカン……天才ダンサーの」


「いいえ、私は偽物よ。知らないかしら、殺人鬼のサディを……」


「サディ……花屋夫婦殺人事件の……どうしてあなたがこんな処に……良かったら、ですけど、僕と飲みに行きませんか」


「ええ、後部座席で良いなら」



金髪の男は嬉しそうに笑って車を降りた。後部座席のドアを開いて、イサドラ・ナリスを招き入れる。


「有り難う。紳士ね、あなた。少し足を引き摺っているようだけど、どうしたの」


「戦争さ。戦争の怪我が、こんな冷える季節には痛むんだ」



男は運転席に戻ると静かに車を出した。デルタン通りの一本脇道を郊外に向かう。



「あなたが殺人を犯したのは本当ですか」


「ええ。知りたいの。話してあげても良いわよ。でも、出来れば人目につかない暖かな処で」


「ああ、僕は今日、彼女と喧嘩して、家に戻れないんだ。ホテルに行くか、其れともバーに行くか」


「ホテルは止めて。娼婦じゃないわ」


「其れは良かった……ホテルと答えたら殺すつもりでしたよ、イサドラさん」


「あら、そんな物騒な冗談、笑えないわ」


「殺人鬼のサディでも笑えませんか」


「あなたはどんなことをしたの。ただ者ではなさそうね」


「いえね、其処のデルタン通りのアパルトマンで知り合いの女を殺ってしまって……彼女が俺の正体に気づいてしまって言い争いになって」


「正体って……」


「あなたと同じですよ。世の中の腐った連中に鉄槌を下すのが、俺の使命だ。俺は連続娼婦殺害事件の犯人さ。あなたも似たようなことを企んでいるんでしょう、サディさん。新聞で知ってますよ。あなたは満月会Rに復讐したいはずだ。俺は手伝いますよ」


「そう、有り難う。でも……」


「遠慮はいらない。あなたは顔を知られ過ぎている。此の国であなたを知らない者はいない。あのアムロナワ子爵に恋した殺人鬼として、映画にもなるとか……」


「アムロナワ子爵……」



イサドラ・ナリスの胸に痛みが走る。



「満月会Rは分裂して復讐しようにも手掛かりがないわ」



デルタン通りのアパルトマンで拷問して死なせた男は、満月会Rにいた使い走りの男だ。身体中の皮膚を削いでも口を割らなかった。


満月会RSへの見せしめに敢えて残酷な殺し方を選んだ。


『あなたは5月にもミンクを着ていましたよね。何故、今は着ていないのですか。ミンクの方があなたらしい』


みすぼらしいコートの下を見透かしたかのようなラナンタータの質問に、身体に付いた血まで透視されているような畏怖を抱いた。


眠っていない。夕べ、デルタン通りのアパルトマンにあの男を訪ねてから、一睡もしていない。いや、其の前からほとんど眠っていない。



「イサドラさん、満月会Rを炙り出すのは簡単ですよ。警察と新聞に手紙を出せば良いんです。満月会Rのメンバーを皆殺しにするという予告を。そうすれば警察も新聞も満月会Rのメンバーを必死に探してくれるでしょう。メンバーからも保護を求めて警察に連絡をとる者が出てくると思いますよ」


「ふふふ、面白い作戦ね。退屈しのぎにはなるわ」



ラナンタータの鼻を空かすことができるかもしれない。此の男を上手く使えば、犯行時刻の私の不在証明は成り立つ。


デルタン通りのアパルトマンで此の男は女を殺し、私は男を殺した。ほぼ同じ日に。偶然とは不思議なものね……あの時、あのアパルトマンに此の男もいたなんて……何かの縁かしら……


アントローサ警部はあのアパルトマンで起きた2つの事件をどう解析するかしら。楽しみだわ。



ランプの灯った看板は『スピーク・イージー・ウタマロ』と読める。



「スピーク・イージーなんて英語でしゃらくさい謳い文句なんですけどね、要は禁酒法アメリカの隠れ家風に作ったバーなんですよ。フォレステンというお調子者が富くじに当たって、其れまで世話になった女にくれてやった代物でね、俺とのいきさつもお話しますよ」



元の持ち主はシャンタン会長の親戚筋だ。高額で買い取った店を、そう若くもないバーテンダーレスに『長年食わせてもらった礼だ。田舎の親父に会いに帰ろうと思うんだ。今まで有り難う』と言って譲った。




其のフォレステンの女房と親父を殺した俺が、なに食わぬ顔で現れたら、あの女はどんな顔をするだろうか。客の反応は……


いやいやいや、田舎の事件など、知るはずもない。


しかし、イサドラ・ダンカンの偽物のことは最近まで新聞面ネタとして世間を騒がせていた。面の割れた極悪非道の殺人鬼を匿ってくれるだろうか……



イサドラの目の前にすっとサングラスが出た。



「夜なのに……却って怪しまれるわ」


「そんなことはない。此の店は悪の吹きだまりだ。この世の皺寄せの為にあるような店だ。『ウタマロ』なんてジャポニズムを掲げていても、ステージの上でキモノの女が股を広げてヤって見せる。芸術的なあんたのダンスとは大違いさ。それを、貸した金返さない男を沈めてきたばかりの奴等がヒーヒー喜んで見ている。サングラスなんか見慣れている。あんたにサングラスを掛けさせるのは、あんたがイサドラ・ダンカンの偽物だとバレたら、ステージに立たされるか、輪姦されるかのどちらかだからさ」


レ・ザネ・フォールと名付けられる狂騒の1920年代後半。フランスの影響を受けた国境近くの街もまた狂騒の様相を呈している。


アメリカでは禁酒法を掻い潜るマフィアが、政治家や裁判所、警察などを取り込んで『アンタッチャブル』つまり手出しできないという意味の高みへと其の存在を確立している。



イサドラ・ナリスは後悔に似た感傷が過るのを自覚した。



あの時、カナンデラ・ザカリーに誘われた時、ラナンタータとラルポアと一緒に、あのトリュフを練り込んだ数種類のデザート選びに迷うボナペティに行けばよかった。


ボナペティはそんなに気取った店ではないけれど、私は自分の肌に返り血が染み込んでいるのではないかと、其れをラナンタータに看破されることを惧れて断ったのよ。


不味かったかもしれない……


私は自分の望む方向に進むしかないのね。

だって今更、引き返すことなどできないじゃないの……


そうよ……薄く、上手く、皮膚を削ぎとって快感に打ち震えた殺し屋サディの復活に、私は抗えなくて、精神異常者の殺人鬼と詰られることがわかっていても抗えなくて、突き進むしかないのだから……


復讐は私の生き甲斐。


私を壊した奴等を絶対に許さない。





カナンデラはすっとんきょうな声を出した。ケインズ・ファミーユの一階レストランは満員になりかけていた。



「え、サービス・デイだって……」


「はい。今日、女性連れのお客様には特別に格安料金でお出しすることができます」



ボナペティは家庭的なレストランだった。フランスでは個性的芸術家が集結するパリ風という意味のエコール・ド・パリの時代を迎え、幾多の個性が花開いた。ボナペティの壁には、何とも評し難い絵画が処狭しと飾られ、此れがパリ風だと知った風なフランスかぶれの人気店になっている。


後年、この店の関係者から本物のシャガールや日本人画家イクタ・シンタの絵画が数点あったことが判明したが、現物の行方は掴めない。


店の一角に陣取ったカナンデラは


「わあい、今日来て良かったね。僕ちゃん何て運が良いんだろう」


「で、運が良いついでに何か用事があった訳だよね。この店に」


「ああ、そうそう。ギャルソン、シルブプレ……」



ギャルソンと呼び止められたホール係が「ウイ、ムッシュー」と笑顔で振り返った。



「先ずはお勧めワインとか……」



ラナンタータとラルポアの視線が斜めから白く刺すのを笑顔で返し、カナンデラは「食事から済まそうや」と言った。



アポステルホーフェを飲み忘れたな。シャンタンがあんまり可愛いもんで、つい、幻のワインのことはそっちのけになっちまった。罪な坊やだ……


食事が済んだらラナンタータを送りついでにシャンタンの顔を拝みに行くか。あくまでもついでにな。薔薇の花でも持って行くか。喜ぶだろうな。ゆっくりアポステルホーフェを傾けながら、亡くなったシャンタン前会長の話でもしてやろうか……あんなこともこんなことも……ふふふ……シャンタン坊やがついでなのにあんなこともこんなことも……ついでだからな、ついで……





かなり離れた席に女性連れのグループがいた。



「おい、ヴァルケラピスに連絡しろ。アルビノを見つけたとな」



サングラスの男が若い者に顎をしゃくる。黒っぽいテーラードのスリーピースに金の鎖の懐中時計。指にも大きな瑪瑙の指輪が光る。



「へい。ウタマロで良いですかね」



チャイナドレスの女の横にいた若い男が腰を上げた。



「お前、まだわからないのか。店の名前を出すな」



チャイナドレスの女が薄く笑う。



「本物のアルビノかしら。薬中かも……」






「おっ、来た来た。評判のムール貝ね。俺は料理が苦手だけどさ、ワインとバターさえぶち込めば何とかなる料理だよね……って……旨い。此れは旨い」



紫色の貝に艶めく肉の色っぽさと鼻腔にしっかり存在を訴える匂い。カナンデラは舌鼓を打ってワイングラスに手を伸ばした。



へっへっへ……此れを飲み過ぎないように気をつけて、後はシャンタンとアポステルホーフェを嗜もう。シャンタンを嗜んでからか……



カナンデラはまだ気づかない。従妹ラナンタータを、危険なカニバリズム教団ヴァルケラピスの射程に自ら誘い込んだことに。






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