第二章・カミングアウト(その5)

 そして週明けの月曜日が来た。学校の先生にも登校する旨を電話で前もって連絡すると、朝のホームルームが始まる前に話しておきたい事項があるから、始業より三十分ほど早く登校するように言われていた。


 潮音は早起き自体は、水泳部の早朝練習の経験もあるから苦にならないつもりだった。潮音が目を覚ますと、十二月の日の短い季節ということもあって外はまだ薄暗かった。


 潮音はベッドから起きると、ナベシャツで胸の膨らみを隠した後でワイシャツと学生ズボンを着込んだ。そして部屋を出て、ベリーショートの髪を整えた。


 しかし潮音にとっては、このようにして男子の学生服を身にまとったところで、クラスのみんなが自分のことを入院前と同じように受入れてくれるだろうかと気になっていた。ここで潮音はいったん決意を固めた以上は、そのようなことでクヨクヨ悩んでも仕方ないと思い直すと、則子が朝食の準備をしている食堂に足を向けた。


 そして学生服姿で食堂に降りてきた潮音の姿を見て、雄一と則子も驚いていた。


「ほんとに大丈夫なの?」


「姉ちゃんだって言ってただろ。今じゃLGBTとか言ったっけ、そういう生徒を学校も受け入れるようになってるって。それにオレ、水泳部でタイムが伸びなくて悩んでいたときにコーチに言われたんだ。グダグダ悩んでる暇があったら、その間に何でもいいからやってみろって。だからオレもやってみるよ」


 その声を聞いて、則子も嬉しそうに潮音の手をそっと握った。


「潮音、困ったことがあったら我慢せずに何でもお母さんに言いなさい」


 日ごろは無口な雄一も、どこか照れくさそうな表情をしながら「がんばれよ」とだけ言い残すと仕事に出かけていった。


 潮音は家を出ると、まだ夜が明けて間もない、朝の光の照らす通学路を夕凪中学校に向かって歩き出した。まだ本格的なラッシュが始まる前で人通りも少なかったが、潮音にとっては自分の姿をあまり多くの人に見られない方がありがたかった。


 そして学校に着くと、始業前の校舎はがらんとしていた。潮音はこの校内で倒れて入院してからまだ一か月ほどしかたっていないにもかかわらず、この学校にずいぶん長い間足を踏み入れていないような気がして、この学校がとても懐かしいところのように感じられた。


 校舎の入口には潮音のクラスの担任の先生が立っていて、早速潮音を迎えると職員室の隣にある応接室に通した。先生は潮音をソファーに坐らせると、自分も向かい合ったソファーに腰を下ろした。


「藤坂君…よく学校来てくれたな。病院の先生からみんな話は聞いたけど、まさかこんなことになるとはねえ」


 潮音の担任の先生も、つとめて明るく話そうとはしていたものの、いささか困惑した表情をしている様子は隠しようもなかった。「君の担当医の黒田先生は、性別が変ったことに対して十分な配慮をしてほしいと言っていたよ。もちろんLGBTの子どももいることは知っていたけども、何せうちの学校で実際にそのような生徒を受け入れるのは初めての経験だしね。職員会議も開かれたよ」


 そして担任の先生は、潮音に学校に通う上での注意を伝えた。制服は従来通り男子用の詰襟の学生服を着用してもよいこと、トイレは職員用のトイレを使用すること、体育は女子の方に参加するが、授業の前後に着替えるときには控室を利用することなどである。


「このこと…学校のみんなには話してないのですか」


「言った方がいいか?」


「はい、隠し通せるものではないと思うし、むしろ自分のことをみんなに知ってもらった方がいいと思うから」


「だったらそれでもいいけど…ともあれ藤坂君もいろいろ大変だと思うが、困ったことがあったら何でも先生に相談してくれ。できる限りの手助けはするから。高校入試だって心配かもしれないが、まずは今の生活に慣れることが第一だよ」


 先生の声を聞いて、潮音は深くうなづいた。


 そのように話しているうちに、冬の陽射しもようやく明るさを増し、生徒たちも次々と登校してきて校内も活気を帯びてきた。そして朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴ると、先生は潮音を連れ添ってクラスの教室に向かった。


 先生は潮音を廊下で待たせると、まず教室に入って潮音が今日から学校に戻ること、そして潮音の身に何が起ったかをクラスの生徒たちに説明した。そしてそれが一段落すると、潮音を手招きして教室へと入らせた。


 潮音が教室に入ると、クラスの生徒たちはみんなちゃんと席についていた。しかし潮音が教室に入ると、その生徒たちの間にざわめきが起きた。彼らは一様に、入院前と比べて一変してしまった潮音の姿に驚きの目を向けていたが、特に浩三や優菜は大きなショックを受けている様子がありありと見て取れた。その中で暁子一人が、目を伏せてどこか複雑そうな表情を浮かべていた。


 潮音は学校で他の生徒たちから好奇の目で見られることは覚悟していたはずだったのに、いざ生徒たちの前に立つと、あらためて身を引きそうになった。先生に言われて軽くあいさつをしても、生徒たちは潮音の高く変った声に驚いていた。先生はあらためて、潮音とは自然に接するように釘をさしていた。


 そのまま朝のホームルームが終って授業に入っても、午前中はクラスの生徒たちの間から動揺の色が消えなかった。


 さらに、三時間目の授業は体育だった。潮音が他の生徒たちとは違う控室で、一人で着替えを済ませて校庭に集まっても、これまでとは違って女子の側に並ばなければならないことに戸惑いを覚えずにはいられなかった。


 さらに、ナベシャツで胸を圧迫しているとただでさえ苦しいのに、それでは十分に運動をすることなどできるはずもない。その様子を見て、体育の先生は見学してもいいと言っていたが、潮音はそこでも引け目を感じずにはいられなかった。



 昼休みになっても、男子も女子も、さらにこれまで潮音と仲の良かった友達までもが、潮音と距離を置いて遠巻きに眺めながら、話しかけづらそうにしていた。そのような重苦しい空気を振り払おうとするかのように、ようやく暁子が潮音のところに来て声をかけた。


「潮音…よく学校来てくれたね。あんたが退院してから後もずっと休んでたから心配してたんだよ。でもその髪、やはり切っちゃったの?」


「うん…学校行くとなったらやはりあんな髪ではまずいからね」


 するとクラスの男子の何人かが、さっそく潮音に冷やかすような声を浴びせた。


「藤坂はさっそく石川にかわいがってもらとんのかよ」


 そこで暁子は、その男子をにらみつけた。優菜も潮音のところに来て、「そんなこと言うことないやん」と潮音を擁護した。そこまでくると男子たちも、ようやくばつの悪そうな表情をして身を引いた。そこで暁子はあらためて潮音に言った。


「潮音、もしあんたのこといじめたりバカにしたりするようなやつがいたら、このあたしがぶっとばしてやるから安心しな。優菜だってついてるから」


 潮音もこのときばかりは、暁子に感謝したいような気持になった。


 ようやく一日の授業が終って放課後になったときには、潮音は一日学校の授業に出ただけでも、これまでよりも何倍もの体力を消費したような気持になって、精神的にヘトヘトになっていた。帰宅まぎわに潮音は浩三に視線を向けたが、浩三はそれに応えようとしなかった。浩三は潮音に対してどのように接すればいいのか、戸惑っているように見えた。結局暁子と優菜が、潮音と一緒に帰宅することになった。


 暁子と優菜が世間話をして潮音の心を解きほぐそうとしても、その会話はぎこちなくなるばかりだった。さらに潮音は自宅までの道を歩く間も、きょろきょろと落ち着かないそぶりをしていた。それはあたかも、自分が周囲の人たちから奇異の目で見られていないかと気にかけているかのようだった。暁子と優菜は潮音のそのような様子を見て、入院前の潮音はそんな風ではなかったのにと思って、唇をかみしめながらますますやりきれなさを感じずにはいられなかった。やがて暁子と優菜は、これから塾に行かなければいけないと言って家の近くで潮音と別れた。

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