第二章・カミングアウト(その3)

 潮音が自分の部屋に戻ると、部屋の様子は若干きれいに片付けられていた以外、潮音が学校で倒れて入院した日の朝からほとんど変っていなかった。潮音はふと息をついて、その場にへたりこんだ。


 潮音は部屋の隅の棚に置かれたマンガ雑誌にふと目がとまったので、表紙をめくってみた。しかし巻頭でいきなり、水着姿で笑顔を浮かべているアイドルのグラビアが目に飛び込んできたので、潮音は思わず身を引いてしまった。今の潮音には、これまでむしろ興味深い視線で眺めていたアイドルの、「女」であることを誇示するような身ぶりや表情までもが、心の奥底にぐさりと突き刺さるように感じた。潮音は心の中に不安や戸惑いを抱えたまま、しばらくの間部屋の中にうずくまっていた。


 そのうちに日が暮れて、綾乃が潮音の部屋まで夕食ができたことを告げに来た。綾乃がしり込みしている潮音の背を押して食堂に入ると、潮音の父の雄一もすでに帰宅していた。食卓には潮音の退院祝いということで、いつもより豪華な料理が並んでいた。


「せっかく潮音が退院したからね。パパにも今日は仕事を早く終らせて帰るように言ってたのよ」


 則子がつとめて明るい口調で話すのを聞いて、雄一は黙ったまま照れくさそうな顔をしていた。


 しかし久しぶりの家族そろっての夕食になったにもかかわらず、相変らず表情を押し殺したままの潮音がテーブルに座を占めると、部屋全体によそよそしい空気が漂っていた。雄一も、ひところに比べたらだいぶ落ち着いているように見えたとはいえ、それでも体が変ってしまった潮音に対して、どう接すればいいのか戸惑っている様子がありありと見てとれた。


 潮音は父親の表情を眺めながら、あらためて自分は同じ家で暮しながら、これまで同じ男同士だった父親のことを全然知らなかったことに気づいていた。


 これまで雄一は、家庭ではどちらかというと厳格な父親だった。潮音の行儀が悪かったときや、言いつけを守らなかったりしたときには、げんこつをお見舞いされたこともしばしばだった。潮音がいじめっ子に泣かされて帰ってくると、「勝つまで帰ってくるな」と言われて家の外に放り出されたこともある。しかし父の落ち込み具合を見て、潮音はやはり雄一は自分のことを男同士としてとらえ、期待をかけていたということをひしひしと感じ取っていた。そのような父の姿を見ていると、潮音も目を背けたくなった。


「パパ、せっかく潮音が退院したんだからなんか言ってよ」


 則子に「パパ」と言われて、雄一はいやそうな目でちらりと則子を見た後、潮音の方を向き直した。


「潮音…入試が終ったら一緒にどこか行かないか」


「父さん…小学校のころは日曜日にはよく一緒に釣りに行ったよね。行かなくなったのはいつごろからだっけ」


「そうだな…また一緒に釣りにでも行くか。でも潮音、その前に入試をがんばれよ。どこの学校行くにしてもあまり時間はないからな。大変なことはあるかもしれないが、悔いのないようにがんばるんだぞ」


「うん…」


 綾乃と則子は、にんまりしながら二人の話を聞いていた。


「パパは『あいつが大人になったら、一緒に飲み屋に行こうと思ってたのに』って言ってたのよ」


 雄一は則子に「パパ」と言われて、また眉をひそめた。


「女だって飲み屋に行って酒飲むくらいできるでしょ」


 そこで早速綾乃が口をはさむと、雄一はまたうなづいた。


「ああ、そうだな」


              

 夕食が済むと、潮音は則子から風呂に入るように言われた。そのときにさっそく綾乃が来て、潮音に長く伸びた髪をまとめてアップにする方法を教えた。


 それでもなんとか潮音が服を脱ぎ、上半身に着ていたナベシャツにも手をかけると、大きくなったふたつの胸が姿を現した。潮音はずっと胸を締め付けていたナベシャツの圧迫感から解放されてほっとしたものの、今の自分の体形はクラスの女子の誰にも引けを取るものではないと思うと、気恥ずかしさのあまり身を引きそうになった。そして潮音がズボンを下ろすと、ボクサーショーツに覆われた腰が姿を現した。潮音は病院の関係者に言われても、女物の下着を身につける気にはなれず、なんとか妥協してボクサーショーツをはいていたのだった。


 浴室で体を洗うときにも、潮音はずっと自分の体と目を合わせないようにしていた。特に両胸を洗う間は、敏感になった素肌にタオルや湯が触れたときの感触や、胸が揺れるのに心の奥底までもが荒々しくかきむしられるような気がした。慣れない手つきで体のあちこちを洗っていると、潮音はあらためて自分の体が得体の知れないものになってしまったような気がして、何もかももみくちゃにして放り投げたいような衝動にとらわれた。体に湯をかけて石鹸を流し終ったときには、きめの細かくなった自分の素肌が湯で濡れて、いっそうつややかさを増したのにどきりとさせられた。


 それでもなんとか浴槽につかり、自分の体と目を合わせないようにしながら天井を見上げると、ようやく潮音はふと一息つくことができた。


──なぜこんなことになってしまったのだろう。


 潮音は浴槽の中で体のこわばりをほぐしながら、あらためてこの一月ばかりの間に起きた出来事について考えていた。


 潮音は自分の手を目の前に持ってきて、手のひらを広げそれをしげしげと眺めた。潮音は先ほど、暁子が細くなってしまった自分の指に触れたときの感触を思い出していた。


──暁子…ああまでオレのことを気にかけてくれていたなんて。


 そこで潮音は、暁子のことをいろいろ思い出していた。


 小学校のころの暁子は、おてんばで気の強い少女だった。学校の休み時間などは、よく男子に混じって校庭で元気に遊んだものだし、家でもしょっちゅう悪ふざけばかりして母親から「お行儀が悪い」と叱られていた。潮音は暁子がいつの間にかしおらしくて面倒見がよくなっていたことに驚きながらも、あの芯の強さだけは相変らずだなと思った。


──暁子はほんとに女子校行っちゃうんだろうか。暁子と一緒の高校行くのも悪くないけど、やはり…。


 潮音はあらためて浴槽につかった自分の体を見下ろした。大きくなって丸みを帯びた胸、くびれたウエスト、ふくよかな腰、すっきりとした股間…そこには自分が一ヵ月ばかり前まで男だったことを示すものは何もなかった。


──いずれにしても、自分は「女」として扱われることになるのだろうか…。まあ女として学校に通えば体育の時間も女と一緒に着替えることになるし、修学旅行とかの部屋割りや風呂なんかも…。


 ここで潮音は、自分がこの期に及んで不謹慎な想像をしていることに気がついて、自己嫌悪にとらわれた。潮音がこれ以上くよくよ考えても仕方ないと思って、ゆっくりと浴槽から立ち上がったときだった。浴室のドアの外側から、綾乃の声がした。


「潮音、髪の毛ちゃんと洗えてる?」


 綾乃の声に潮音は戸惑った。実際、潮音は長く伸びた髪をどうやって洗えばいいかわからなかったのだった。


「どうせこんなことだろうと思ったから、あんたに髪の手入れの仕方教えてあげようと思ったの」


 そう言って浴室に入ってきた綾乃は、バスタオル一枚を体に巻き付けた姿をしていた。潮音がそのような綾乃の姿に身を引く間もなく、綾乃は潮音を浴室の椅子に坐らせ、そこからロングヘアの洗い方からケアの仕方までも徹底的に教え込んだ。


「髪伸ばすなら伸ばすで、だらしなくないようにちゃんと手入れしなさい」


 潮音は綾乃に髪をいじられる間、自分の微妙な心の襞までもがくすぐられるような気がして、胸の高鳴りを抑えることができなかった。髪の手入れの仕方についての綾乃のレクチャーが終ったときには、潮音はいささかへとへとに疲れていた。


「姉ちゃん…女って毎日こんなめんどくさいことやってるのかよ」


「あんたこそ、髪の毛がサラサラのかわいい女の子に目を向けてたんでしょ。たしかに男から見たらめんどくさいと思うかもしれないけども、女はこうやって自分自身に磨きをかけていくものなのよ。そうするうちに、自分らしいスタイルだって見つかるようになるしね」


 今の潮音には、その「自分らしいスタイル」という言葉がずしりと重く響くような気がした。


「姉ちゃん…そのオレにとっての『自分らしいスタイル』って何だよ」


「それはあんたが自分で見つけるしかないわね。でもそれは、焦らずじっくり見つければいいから」


 潮音がなんとか風呂から上がって、寝間着代わりのスウェットスーツを着こむと、胸の辺りが大きく膨らんでいた。綾乃はそれを見て何か言いたげな表情をしていたが、潮音はそのような綾乃の視線を避けるようにしてそそくさと自室に戻ってしまった。


 そのまま綾乃も自室に戻ったが、その後も綾乃の心中からは先ほどの潮音の姿が離れなかった。綾乃は何よりも、自分が女になったことを隠そうとする潮音の姿に痛々しいものを感じずにはいられなかった。綾乃自身にも、潮音の体が変ってしまったのは何かの冗談だろうという思いがこれまで心の奥底にあったが、いざその姿を目の当たりにすると、これは決して絵空事ではなく、まぎれもない現実だということをあらためて突きつけられたような思いがした。


──あれが本当に潮音なの? 潮音って小さいころはわがままできかんぼで、いつもちょこまかと動き回っては悪ふざけばかりして、周りの人を困らせてたのに。歳食ってからは私に対しても生意気な憎まれ口ばかり叩いててさ。あの潮音があんなことになるなんて、いったいどうすりゃいいんだろう…。


 綾乃は潮音の何かにおびえるかのような、他人に対して自分自身を固く閉ざそうとするかのような様子がとりわけ気になっていた。

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