第74話 Back To Black(15)
(1)
酔っ払い達に囲まれる中、ハルは上衣を全て脱ぎ捨て、それぞれの手にグローブ代わりの包帯を巻いていた。
「どうでもいいけどさぁ、腹にまで包帯巻く必要あるのー??やっぱ、腹出て……」
「両の手足叩き折ってヨーク河に沈めるぞ」
「おー、怖えー」
半裸姿をにやにや揶揄ってくるディヴィッドに、包帯を巻く手を止めずに軽く足蹴りする。怖いと言いながら、ひょいと避けるのがまた小憎たらしい。
「こちらの準備は整った。いつでも始められる」
準備する様を退屈そうに眺めていたモーティマーに告げると、返事の代わりに大あくびが返ってきた。完全に舐められている。
「賭けボクシングと銘打っているが、実際はルール無用。拳じゃなくとも蹴りも可だ」
更に告げられたルール(であってルールでないような)もまた、こちらを見下している様なものだった。
「ただし、武器の使用は禁止だ。もちろん、場外からの加勢もな。そこの女、手持ちの暗器を全て捨てろ」
モーティマーは観客に紛れていたジョゼに向かって指を差した。室内中の視線を集めながら、ジョゼは前へ進み出ると、無表情でドレスの裾をたくし上げる。
男のものとは到底思えぬ滑らかでほっそりとした脚が露わになると、(ハルとディヴィッド以外の)男達の視線はたちまち色めき立つ。下卑た歓声があちこちで上がりさえするのを、当のジョゼは意に介すことなく、皮革製のリングガーターに収めた細い鋲を全て床へ放げ捨てた。
「その髪留めも、だ」
自らの後頭部をトントンと指で叩くモーティマーに、ジョゼは舌打ちをひとつすると簪も全て抜き取った。長い黒髪がするする滑り落ちていくのがいかにも煽情的で、堪らず「ねーちゃん、一晩いくら?!」「一発ヤらせろ!」と、恥ずかしげもなく叫ぶ者まで現れ始めた。
「これでいいだろ??」
鋲を放った時より乱暴に簪を床へ投げ捨てたジョゼの肉声に、モーティマーはおや、という顔を見せた。男達は驚きの声を上げ、次いで、罵声が飛び出し、嘲笑が巻き起こる。
モーティマーもジョゼの全身をじろじろ値踏みする目で眺めた後、口許のみを歪めて嘲笑った。
「黄色い猿が一丁前にこの国の言葉喋るだけでも笑えるっていうのに、まさかオカマだとは……」
皆まで言い切る前に、モーティマーの顔面にディヴィッドの拳が叩き込まれた。
衝撃で酔っ払い達の輪の中へと吹き飛ばされたモーティマーに、罵声混じりのどよめきが室内に轟く。
「いやー、うちの商品の中でも一、二を争う上等品をけなされんのはちょーっとばかしムカつくんだよねぇー」
「ディヴィッド!」
拳を構えながら首を左右に振り、コキコキ鳴らす余裕ぶりも束の間。
弾丸の速さと勢いでモーティマーがディヴィッドに向かって突っ込んでくる。
「おっとぉ!」
顎下から突き上げられた拳を後方へ飛びずさって躱す。
まともに受けたディヴィッドは転倒こそ免れたものの軽くよろけ、その一瞬の隙にモーティマーの拳が眼前に迫る。
だが、拳は叩き込まれる直前、ディヴィッドの視界からふっと消えた。
そのお蔭で態勢を整えられたディヴィッドが見たのは、筋骨隆々としたモーティマーの背中と、彼を背後から殴りつけようとして殴り返されたハルの姿だった。
ハルにもう一撃加えようとするモーティマーの、中途半端に襟足まで伸びた黒髪をディヴィッドはぐいっときつく引っ張り上げる。無理矢理振り向かせて殴りつけるつもりだったが、予想に反して素早く振り返られ、逆にみぞおちに重い一発を叩き込まれた。掴んだ髪が自然と開かれた掌から擦り抜けていく。
呻く間もなく重い二発目が左頬にめり込む。三発目が顔面に打ち込まれ――、そうなところで、血混じりの唾を闇色の双眸へ思いきり吐きかけてやった。
「お返ししてやらぁ!」
モーティマーが否応なしに瞼を閉ざした瞬間を狙い、顔面に強烈な一発を叩き込む。ディヴィッドの反撃を見計らい、ハルが鼻血を流しながらモーティマーを羽交い絞めにし、両腕で太い首をぎりぎり締め上げる。
「おめぇ、さっきから後ろばっかり狙ってんじゃねーよ!」
「そうだ、そうだ!卑怯者が!!」
「堂々と戦えよ!」
「うるせぇな!ルール無用っつったのはこいつだろ??文句ならこの日焼け野郎に言い、やがっれ!」
見物人達から次々上がる罵声に、腕の力を緩めることなくハルは真っ赤な顔で息を切らして怒鳴り返す。必死なハルの様子に切れた唇に滲む血を指で拭いながらディヴィッドが忠告する。
「あ、窒息死させるのと首折るのはやめてくれよぉ??」
「わかって、ん、よ!」
叫ぶと同時にハルは締め上げるのをやめ、モーティマーの巨体を床へ叩き落とした。こんな太い首なんぞ自分程度の力で折れる訳がないが、だからこそ力を加えすぎて窒息死させてしまう可能性は有り得る。
しかし、ハルの判断は間違っていた。
気絶しかけていた筈のモーティマーが右手を床につけ、反動を利用して即座に立ち上がったからだ。しかも、もう呼吸が整っている。
「甘い。ここが戦場ならお前達はとっくに死んでいる」
「いや、別に、殺し合いしてる訳じゃねーしぃ??あんたこそ、そんなおしゃべりでよく戦場で生き抜けたよ……、おおぅ?!」
「あっ、ぶねぇな!」
低く宙を飛びながら繰り出されたモーティマーのミドルキックは一回転し、ディヴィッドだけでなくハルまでをも巻き込む。揃って咄嗟に飛び上がって躱したものの、反撃しようにも高速回し蹴りは二度三度繰り返される。竜巻を彷彿させる動きを避ける、互いに目配せし合うだけで精一杯だ。
先日の追いかけっこといい、元軍人との賭けボクシングに見せかけた乱闘といい、ここ最近体力を激しく消耗する事態に陥りすぎじゃないか??
後で絶対、何らかの形での報酬をディヴィッドからせびってやる。無償でなんか誰が済ませてやるものか。
ただし、報酬をせびるにも完膚なきまでこの色黒筋肉野郎を叩きのめさなければ。
ミルドレッドに関する情報を聞き出せる程度に。
(2)
「Mr.アルバーン」
「ハーロウとお呼びください、と言った筈ですよ、レディ・ミルドレッド」
『いくら何でもやり過ぎでは』と言いかけて、結局最後まで言えなかった。
自ら犯した罪を棚に上げているのは承知だし、ナイフを突きつけられているのは鼻持ちならない小娘とはいえ、ハーロウの行動は手荒が過ぎている。
墓所から薬屋の小娘の誘拐、店主への非道な振る舞い。眼前で今し方起きている脅迫行為。
ハーロウ・アルバーンという男の恐ろしさを今更ながら思い知らされている。
そして――、隣に座る薬屋店主の落ち着きがミルドレッドの恐怖心を更に煽っていた。
一見すると軟派な優男だけに大いに怯え、狼狽え、小娘への命乞いで泣きつくものかと思われたのに――、否、振り落とされる危険性を省みず、走行する馬車に張りつくぐらいの男なのだ。そのような情けない真似をするだろうか??
戦々恐々と、二人の紳士の対峙を見守るしかないミルドレッドをよそに、ハーロウは話を進める。
「Mr.マクレガー。貴方に、我々への協力をお願いしたいのですよ」
「…………」
「貴方のお噂は聞き及んでおります。『即効性だけでなく、絶対に証拠が残らない毒を売っている』と」
「…………」
「どうでしょう??ここは一つ、取引致しませんか??貴方は私にその毒を売る、私は高額で買い取り、尚且つ秘密は厳守する」
「…………」
「悪くない話だと思うのですが……」
「……れろ」
「はい??もう一度仰って頂けますか??」
「……なれろ」
「はい??」
ハーロウの声の響きに苛立ちが混ざり始めたため、ミルドレッドはシャロンを横目で見やり――、凍りついた。
シャロンの姿勢に変わったところはない。
座席の背面に凭れることなく背筋を伸ばし、膝の上で指先を組んでいる。拳銃や仕込み杖といった武器は手にしていない。口元に薄っすら笑みまで湛えている。
けれど、口許以外の表情は一切なく、目はこれでもかというくらい大きく見開かれている。見開かれた目とは対照的に、瞳孔は酷く縮小しており、表情だけ見れば狂人のようだった。
シャロンの狂人めいた表情に恐怖を覚えたのはミルドレッドだけではない。
ハーロウも臆したのか、浮かべていた笑みを引っ込めて喉を鳴らした。
「あと一度しか言わない。
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