第72話 Back To Black(13)

(1)


 樹々の枝が大きく揺れ、鴉が勢い良く飛び立っていく。枝葉の間から覗く空は薄灰色の雲に覆われ、今にも泣きそうだ。雨が降り出す前にグレッチェンが戻ってこないかと、シャロンはそっと空を見上げた。


『少しの間、私一人だけでアドリアナさんとお話させてもらえませんか。気が済みましたら、シャロンさんを呼びにきます』


 滅多に我が儘を言わないグレッチェンの我が儘をシャロンが無下にする筈もなく。こうして一人、墓所の教会側の入り口前で彼女を待っている。薄暗い樹々の影に囲まれながら待っているのだが――


 女性を急かすのは紳士の矜持に反する。空の様子を気にしつつ、忠実な番犬宜しくグレッチェンを待ち続けていたシャロンだが、墓所から誰かが諍う声が微かに響いてきた。

 まさか、と思いながら耳を澄ませば、声の主は二人の女性、内片方はグレッチェン、か??


 実は、グレッチェンの声質は成人女性にしては少し高めで、少女、否、下手すれば幼女に近いものがある。性格や口調が理性的で落ち着いているので全く気にならないが、口調や声の大きさによってはキンキンと耳に障り兼ねない。だから声を張り上げた場合、辺りにかなり響く。

 しかし、余程の理由がない限り、グレッチェンが声を張り上げることは有り得ない。ましてや、人と諍うなど尚更。


 一度湧いてしまった疑念と胸騒ぎの前では紳士の矜持など、一陣の風に巻き上げられる木の葉同然。万が一の事態がただの杞憂で、『戻るまで待っていてくださいと言いましたよね??』と怒られても構わない。むしろ、そうであればいい。決して怒られるのが好きな訳ではないけれど。

 などと思いながら、踏み入った墓所には誰もいない。だが、耳を澄ませば、墓所の奥にあるもう一つの入り口の樹々の間から声が、確かに聴こえる。シャロンの胸騒ぎと不安は大きくなる一方でしかない。

 歩調を幾分速め、墓所の中を突っ切って奥の入り口の門を抜ける。教会側よりも濃く暗い樹々の影も通り過ぎて通りへ出ていく。ここでシャロンは信じ難い光景を目撃してしまった。


 上流や中流階級、または多くの人が行き交う歓楽街と違い、この通りの歩道と車道の石畳は舗装が雑で凹凸が目立つ。通りに並ぶ民家も、煉瓦の罅割れや煤汚れが目立ち、全体的に荒れている。

 一目見ただけで清貧の労働者階級ワーキングクラスが住まう区域と分かる場所に、一台の二頭引きの箱馬車の姿があった。大型ではないものの、海蛇を模った紋章の旗印付き。貴族か、貴族の地位に等しい財力の持ち主か。何にせよ、場所柄と余りにも不釣り合いである。

 しかし、シャロンはそんなことを気にするどころではなかった。箱馬車を前にして、渦中のミルドレッドの姿があったからだ――、が。

 美しさ、気高さは三年前と変わらずとも、ミルドレッドは珍しく狼狽している様子だった。

 それもその筈。彼女の目の前で、同乗者らしき上流の男が御者と結託し、グレッチェンを馬車に押し込もうとしていた。


 階級で判断すべきではないが、階級が下がれば下がる程揉め事や諍い見物を好む者が増えてくる。過酷な労働環境に見合わない貧しさへの憂さ晴らし、貧しさによる無教養、娯楽の幅の狭さ等、理由を上げればキリがない。例えば、喧嘩沙汰を起こそうものなら、当事者を取り囲んでしきりに野次を飛ばす。中には賭けまで始めるものすらいる始末。

 他人の不幸は蜜の味とばかりに群がる蟻のような彼らでさえ、凶悪犯罪に繋がりかねない現場、特に、上流の人間が関わっているのでは知らぬ存ぜぬと見ない振りをする。現に、関わり合いを拒絶するかのように、各家々の窓は固く閉ざされている。

 例え、助けを呼びに家々の扉を叩いて回ったとしても、居留守を使うだろう。

 上流の人間を蛇蝎のごとく嫌う一方、下手に関われば言いがかりをつけられた果てに自分や家族の身が危うくなるからだ。グレッチェンを連れ去ろうとしている、蛇のような顔した紳士は狡猾さがありありと滲み出ている分、邪魔をすればどうなるか――、だが、あくまで赤の他人だったら、の話。


 突進する勢いで馬車に駆け寄ってくるシャロンに、最初に気付いたのはミルドレッドだった。

 ドレスをたくし上げたまま手を忙しなく上下させ、シャロンとハーロウ達を交互に見比べた後、ハーロウ達を押しのけて馬車へと逃げ込んだ。ミルドレッドに押され、一度は踏み台から降りたものの、ハーロウ達はすぐに態勢を整えてグレッチェンを再び抱え上げた。

 口許をハンカチで塞がれたグレッチェンは激しく手足をもがかせているが、成人男性二人の前では成す術がない。瞬く間に馬車の中へ引きずり込まれていく。


「待て!!!!」


 目にも止まらぬ速さで踏み台を戻し、扉を閉めた御者があっと小さく叫ぶ。

 扉が閉まる、まさにその直前――、シャロンが車体に飛び乗り、扉と車体の僅かな隙間に手を差し込んだからだ。御者はすぐさま引きずり降ろそうと、シャロンの両肩に掴みかかった。

 二人の様子を、扉の小窓から顔を覗かせたハーロウがにたり、笑いながら告げる。


「あぁ、彼のことは放っておいてください。それよりも、早急に馬車を動かしてください」

「で、ですが」

「時間の無駄です。馬車が動き始めれば、振動で勝手に落ちてくれるでしょう。運が良ければ全身打撲の大怪我、悪ければ、頚椎損傷で二度と起きあがれない身体になるだけです。あぁ、最悪は……、頭蓋骨や全身の骨を砕かれ死ぬだけです」


 グレッチェンのくぐもった叫び、ミルドレッドの息を飲む音が車内で響くのをさも愉快そうに聞きながらハーロウは顔を引っ込めた。御者はごくりと喉を鳴らすと慌てて操縦席へ戻り、馬達へと鞭を大きく振るう。馬車は、グレッチェンのみならず、扉にしがみついた状態のシャロンをも乗せて走り出した。






(2)


 店内の階段を上りながら、ハルは先を歩く男の筋肉質な広い背中を注視していた。


 クック・ロビン店主、コリン・モーティマー。元陸軍中尉。この国が支配下に置く東の帝国内での大反乱で活躍した狙撃手でもあり、鎮圧の際の怪我が元で退役。この街に流れてきたと噂の人物だ。

 顔や首、捲り上げたシャツから覗く浅黒い腕に残る無数の傷痕、杖こそ突いていないが、右足を少し引きずるような歩き方、何より銃の腕前から噂はあながち間違いではないだろう。

 どんな経緯を持ってしてハーロウ・アルバーンと繋がり、クロムウェル党の傘下に加わったのか。無骨で寡黙、規律正しき元軍人がなぜ。

 わざわざ問う気はないが――、と思っていると、「この部屋だ」と複数並んだ扉の一つの前でモーティマーは立ち止まった。

 扉を開ける後ろ姿に、隣のジョゼと目配せし合う。


虎児ディヴィッドと情報を得るなら、こちらから虎穴に入らなきゃ、ね」

「何だそりゃ」

「東の諺さ」

「入れ」


 扉が開くなり、酒の臭い、獣臭に付随する血臭、汗と体臭が混ざり合うすえた臭いが鼻をつき、胸が悪くなった。ジョゼでさえ、柳眉を僅かに顰めている。

 一瞬の躊躇の後、室内へ足を踏み入れる。そこそこ広い筈の室内の壁際は、ビール瓶片手に大勢の男達で埋め尽くされている。酔っ払い達は何かを取り囲んでしきりに歓声や野次、口笛を飛ばしている。

 悪臭に耐えながら、彼らが何を囲んでいるのか――、おおよその見当はついているが――、ハルは様子を窺うために男達の間から彼らが見物する者を確かめてみた。


 バキッと骨がぶつかる音。殴られた男は衝撃で床に吹っ飛ばされ、白目を剥いてぴくりとも動かなくなった。

 殴り倒した方、ディヴィッドは裸の肩を大きく上下させ、ぜぇぜぇと荒い呼気を繰り返している。気絶した男の緩んだ筋肉と違い、無駄な肉を削ぎ落し、引き締めた体格は本物のボクサーのようだ。


「これで一〇人目だっけぇ??次の挑戦者はー??」


 汚れた包帯を巻きつけた自らの拳と拳を突き合わせ、ディヴィッドはへらへら笑って見物人を見回した。余裕綽々な表情や言動こそいつもと変わらないが、赤く腫れあがった頬、切れて血が滲む目元と唇といい、痛々しさが否めない。


「サリンジャーの二代目と賭けをした」

「賭け、だと??」

「賭けボクシングに最後まで勝ち続ければ、アルバーンの情報を教えてやる、と」

「なんだと……!」


 今にも掴みかかりそうなのを堪えるハルに、モーティマーは感慨なさげに淡々と続ける。


「ふん、どうやら見物人からの挑戦者はいなくなったか。だが、これで終わりではない。今度は俺が対戦者だ」

「弱らせてから親玉が登場ってか。確かに賢いやり口だが、この部屋同様汚ねぇな。さすがはクロムウェル党だ」

「お前も参加すればいいじゃないか。俺とお前達兄弟、一対二で」

「ほーう、随分と自信があるんだな」

「お前達みたいな単に喧嘩慣れしているだけの素人なんか、俺の相手じゃないがな」

「はっ、軍隊上がりだか何だか知らんが、若造が舐めた口利いてくれやがる!いいだろう、受けて立ってやるぜ??」

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