第55話 Stand my Ground(10)
(1)
自室に駆け込んだグレッチェンは羽織っているケープも外履き用のブーツも脱がず、手足を投げ出した状態でベッドの真下の床に腰を下ろしていた。
ベッドにもたれ掛かり、マットに頭を乗せ天井を仰ぐ。
誰かに見られでもしたら、はしたないと叱られるだろう。自分でも大変行儀が悪い振る舞いだと重々承知の上のこと。
黄なり色の天井壁をぼんやりと眺めながら、アドリアナはこういう暖かそうな色が似合っただろう、と、何となしに思う。
(…………もう、あの優しい笑顔も、二度と見ることができない…………)
一人になった途端、小さな胸は深い哀しみと喪失感で瞬く間に埋め尽くされていく。呼吸一つするのですら苦しくて堪らない。ベッドに凭れ掛けさせていた上半身を前へ深く折り曲げる。
床に視線を落とせば、今度は淡い薄緑色の絨毯にアドリアナの瞳の色を想起させられる。耐え切れず、うぅ……、と、苦しげに息を漏らし、横倒しに崩れ落ちる。
起き上がる気力どころか指一本動かすことすら億劫だ。
「…………寒い…………」
陽が完全に落ち、空気が冷え込んできたのに薪ストーブも点けていない。寒いのは当然だ。
けれど、最も冷え込みが厳しい真夜中の空の下、寒さと恐怖に晒されながら路上で死んでいったアドリアナと比べたら、その程度どうってことないではないか。せいぜい風邪を引くぐらいで済むだけ。全然痛くもなければ死ぬこともない。
世の中は何て不公平なんだろう。
己は血の繋がった肉親にすら憎まれ、人を殺める血を持つ悍ましい忌み子にも関わらず、過分なまでに守られているというのに。
人々を優しく包み込み、周囲から必要とされる存在だったアドリアナは、娼婦というだけで無残に殺された。それだけでなく、死後ですら人々から謂れなき蔑視を受け続けているなんて。
グレッチェンの哀しみは次第に行き場のない、かつてない強い怒りへと変貌していくと共に、押し寄せてくる疲労の波に飲まれ、徐々に意識が遠のいていく――
再び意識を取り戻した時には床ではなくベッドに寝かされていた。
寝間着に変わっていることや叩かれた痕に湿布が貼ってある。夫人かエドナが様子を見に来てくれたのだろう。
また一つ余計な心配と世話をかけてしまった、こういうところが自分はまだ子供なのだ。反省しながら、ゆっくりと身を起こす。
慣れないのに長時間走り続けていたこと、固い床の上で眠っていたせいか、身体のあちらこちらが軋むように痛い。
(……でも、アドリアナさんは……、今の私と比べ物にならない、想像を絶する痛みの中で……)
毛布を固く握りしめ、ベッド脇にあるテーブルの時計を確認する。
この時間なら夫人とエドナは眠っている。
グレッチェンはそろそろとベッドの中から抜け出し、時計の隣に置かれたカンテラを手に取る。
アドリアナが受けた痛みと恐怖、絶望を代わるなんてできない。
でも、せめて彼女の最期を、死の全貌を知りたい。受け止めたい。
なるべく音を立てないよう扉を開け、真っ暗な廊下に出る。
カンテラの光を翳し、靴も履かずに裸足のまま、グレッチェンは同じ階のシャロンの私室へ向かった。
(2)
シャロンの部屋の前まで来てみたものの、扉を叩く勇気が今ひとつ持てない。
手をノックする時の形に作りつつ、扉を見上げたまま立ち竦んでいると、寝間着の上にガウンを羽織ったシャロンが部屋から出て行こうとしていた。
シャロンはグレッチェンの姿を認めると、目を瞠って一瞬だけ動きを止めて固まる。
「……グレッチェン??こんな夜更けに……、一体どうしたんだ??」
「…………」
シャロンと顔を合わせたはいいが、それまでの意気込みはどこへやら、グレッチェンは中々用件を言い出せずにいる。
「またそんな薄い寝間着一枚で……。上着を羽織ってこなかったのかね??風邪を引くといけないし、とりあえず中に入りなさい」
部屋に入るよう手招きされ、おずおずと中へ入る。
奥のベッドに座るよう促され、枕の横に腰かけるとシャロンは薄い毛布を肩からかけてくれた。
「身体が冷えかけているようだ。温かい飲み物を用意してくるよ」
「……いえ、結構です……。お気遣いなく……」
「遠慮しなくていい。私もちょうど身体が冷えてきたし、温めたウイスキーでも飲もうかと思っていた」
更なる断り文句を告げるよりも早く、シャロンはさっさと部屋から出て行ってしまった。取り残されたグレッチェンは書斎机に乱雑に山積みされた、医学書や薬学書の書名一つ一つをじっくりと眺めて彼が戻ってくるまでの時間を潰していた。
約一〇分後、シャロンは大きめのカップを両手に部屋へ戻ってきた。
シャロンは右手のカップをグレッチェンに渡すと、ベッドの書斎机の椅子に再び腰を下ろした
グレッチェンのカップの中身は温めたミルクだった。息を数回吹きかけて熱を冷まし、カップに口を付ける。とろりとした液面にまろやかな甘味は蜂蜜を混ぜているからかもしれない。
「……すみません、研究のお邪魔をして……」
「いや、大丈夫だよ。また一人で眠れないのかね??」
カップに口を付けながら、グレッチェンと向かい合わせになるようにシャロンは椅子の向きを変える。これまで通りちゃんと視線も合わせてくれている。
ほんの些細なことながら、たったそれだけでグレッチェンの重く沈んだ心が僅かに浮上する。
「……あの、それ……」
グレッチェンは自らの湿布を貼った頬を上から軽く撫でてみせる。その仕草の意味を理解したシャロンは苦笑し、同じように湿布を貼った頬に掌を押し当てる。
「ハルに殴られた痕が腫れてきてね……。あの男の辞書に手加減と言う言葉は載っていないらしい」
「変なところでお揃いになってしまいましたね」
下手な冗談で頑張っておどけてみようとしたグレッチェンに、突然シャロンは深々と頭を垂れる。
「……全くだ。……すまない……。君には、本当に申し訳ないことをしたと思っている。叩いたことはもちろん、アドリアナの死を隠し、嘘をついていたことも……。ハルの言う通り、私は君を子供扱いし過ぎていた。それに……、私自身が、君と一緒に彼女の死を受け止めることから逃げていたんだ……」
「…………」
「……意気地なしで卑怯な男だと見損なってくれていい……」
「……そんなこと、私は、まったく思っていません……。お願いです、顔を上げて下さい、シャロンさん……」
シャロンの頭を上げさせるため、頬を両手で包み込んでそっと上向かせる。
「……確かに、嘘をつかれていたことに傷ついていない、と言えば、大きな嘘になります……。ですが……、私は自分で思っているよりもずっと子供だったと、今日起きた多くの出来事を通して嫌と言うくらい思い知らされました……。シャロンさんが私を案じる余りに嘘をついてしまったのは仕方がないことだった、と、今は理解しています……」
「…………」
「……でも……」
「でも??」
「一つだけ、どうしてもシャロンさんに聞いてもらいたい、お願いがあります」
「……何だね??」
シャロンの表情が強張っていくのも構わず、グレッチェンは続けた。
「アドリアナさんの事件が掲載されている新聞記事を全部、私に見せて下さい」
シャロンのダークブラウンの瞳に、動揺と迷いが激しくちらついては影を落とす。
ほんの一瞬の逡巡ですら許さない。
温くなったミルクのカップを膝の上に置き、グレッチェンは挑むような怜悧な視線をシャロンの眉間に突きつける。
氷の刃を思わせる、いまだかつてない、冷たくも鋭い目付きと口調。小さな氷の姫君の視線に絡めとられ、シャロンは身体中をじわじわと氷で侵食されていくような錯覚を覚える。
一回りも年下の、純粋無垢だとばかり思っていた少女の見知らぬ一面に気圧されていく――
「…………分かった…………。君の……、望みを聞き入れよう……」
「……ありがとうございます……」
辛うじて発したシャロンの言葉に、グレッチェンが纏っていた冷たい空気は瞬く間に消失した。
一段と深いため息を吐き出し、立ち上がったシャロンは壁際にある背の高い書棚に近づいていく。五つの段に分厚い医学専門書が分類分けされて並ぶ中から、三段目の一番左端の空いた隙間に押し込んであった一〇日分の新聞を引っ張り出す。
「……本当に後悔しないね??……」
浮かない顔つきで念を押すシャロンに、グレッチェンは唇を真一文字に固く引き結び、強く頷いてみせる。
それでも心配そうに見つめてるシャロンに気付かない振りを決め込み、グレッチェンは一〇日前――、アドリアナの事件が発覚した日の新聞に目を通し始めた――
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